第四章『可楽涼音の死体』

第19話

 ボクの死体を遺棄することで、ボクは誰の目も汚すことなく、忘れられていく…。

 かねてよりの計画であり、もうすぐ実現する願望だったのだが、謎の女の死体の登場により、中断せざるを得なくなった。

「どういうことだ?」

 百合さんはそう言って、女の死体の傍にしゃがみ込んだ…、のだが、靴が更に地面に沈んだことで、すぐに立ち上がる。

「話は後だ、いったん離れるぞ」

『その死体は?』

「葵のじゃないんだろう? 捨てるわけにはいかん」

 百合さんは捲し立てるようにそう言うと、再び死体を毛布に包み、地面に沈んでいた足を抜いて、その場を離れた。

 水気の無い場所まで戻ると、死体を下ろす。そして、また毛布を広げて、その顔を注視した。とはいえ、顔の原型は残っていない。

「改めて聞くぞ? どういうことだ?」

『だから、この死体はボクじゃない』

 ボクはそう断言した。

「そんなことはわかってるんだよ。どうしてこんなことになっている」

『んなこと知りませんよ! 百合さんがボクを撥ねて、死体を毛布に包んで回収したんじゃないんですか?』

「そうだよ!」

 パニックで苛つくボクに対し、彼女もまた声を荒げて対抗した。

「私は、葵に言った通りのことしかしていない。お前を車で撥ねて、その死体を毛布に包んであそこまで逃げてきたんだ!」

『いやいや、じゃあなんでこんなことになっているんですか! そもそも、あんた死体を見たんでしょう? 幽霊になっているボクと、あんたが包んだ死体を見比べて、違和感を覚えなかったんですか?』

「…それは」

 そこで、百合さんの勢いが削げた。

 視線を逸らした彼女は、言いにくそうに言った。

「葵よ。そもそも私は、お前の姿を見ることが出来ていない」

『はあ?』

「いや、目の目にお前がいるのはわかっているよ。だけどね、葵がどんな姿をしているのかはわからないんだ。白い光って…いうのかな? ぼんやりとした白い人影しか視認できていない」

『え…』

 そう言われて、ボクは己の手を見る。輪郭はぼんやりとしているが、指の皺や、着ている服の袖、ジーパンの皺らは視認できる。鏡を見ていないからわからないが、きっと顔もそうなのだろう。百合さんの言う「白い人影」のような見え方は一切していない。

『もしかして、霊感があるかないかで見え方が違うのか…?』

 百合さんは続けた。

「そして、死体についてだが…、正直、顔は知らん。何せパニックになっていたからな。死体がどんな顔をしていたのか、どんな格好をしていたのかなんて確認せずに、無我夢中で車に詰め込んだ」

 憔悴した目がボクを見る。

「とはいえ、葵、お前は車に撥ねられたんだろう?」

『ええ、ちゃんと記憶が残っています。ボクは昨日の夜、バンによって撥ね殺された』

「私もだ。私も、人を撥ねたって言う記憶がある」

『そしてボクは、実際幽霊になっています』

「だから私は、毛布に包んだ死体が葵のものだと思って、ここまでやってきた」

『ボクも、この死体は自分のものだと思っていました』

「でも実際は…」

『別の人間の死体だった…』

 二人の間に、嫌な空気が流れる。実際、すぐ近くにある沼から、鼻を突くような臭いが漂っていた。もちろん、目の前の死体からも、血の酸っぱい臭いが発せられている。

 一秒、二秒、三秒と考えて、ボクらが辿り着いた感想は、ただ一つだ。

「意味が分からん」

『意味が分からない』

 死体は最初からこの女だったのか? それとも、道中、何らかの異変が起こってすり替わった? どちらにせよ、ボクの死体は何処にある?

「こういう考えはどうだろうか?」

 百合さんが片手を挙げて、ある仮説を言った。

「この死体は、葵のものであると。でも、事故の衝撃で記憶がおかしくなって、自分であると認識できなくなっているんじゃないか?」

『いやいや、そんなわけないじゃないですか』

 ボクは一蹴する。

『ボクがこんなボインなお姉さんなわけがない』

「だから、その記憶さえもおかしくなったためじゃないかって…、まあいいか」

 百合さんはため息をつくと、こんなことを聞いてきた。

「じゃあ、少し質問をしよう。常識クイズだ」

『どんとこい』

 なるほど確かに、クイズに正解すれば、幽霊であるボクの記憶がおかしくなっているのかそうでないのかわかることだろう。

「上司との飲み会で、目の前に唐揚げが出されました。付いてきたレモンは掛けるべきか否か」

『なーにグレーゾーンが存在するクイズ出してるんですか!』

 常識クイズってそういうことか。

『いやまあ、自分が食べる分だけ取って、それにレモンを掛けるんじゃないでしょうか?』

「不正解だ。相手は、自分が世界一偉いのだと思っているクソ上司だぞ? 正解は『全部のから揚げに掛ける』でした。『最近の若い者は気遣いが足りん』って鼻で笑われるのはオチだな」

『あんたさっきから何のクイズやってるんですか!』

 百合さんは腕を組み、さも「自分が世界一偉いと思っているクソ上司」のような立ち振る舞いをすると、鼻で笑った。

「やっぱり、記憶がおかしくなってるんだよ。そりゃそうか。幽霊だもんな。脳が存在しない」

 そして、足元の死体を抱える。

「ということで、この死体は紛れもなく葵だよ。じゃあ、捨ててくる」

『現実逃避するんじゃない!』

 ボクは百合さんの前に立ちふさがり、見ず知らずの女性が白骨化するのを阻まんとした。

『落ち着いてくださいよ! ボクの記憶は正常ですって! ほら、一九三〇年のワールドカップでの優勝国はウルグアイ!』

「知らねえよ!」

『じゃあ円周率を言いましょう! 中学の頃、カッコつけたくて覚えたんだ! 三・一四一五九二…六五、三五、八九七九…』

「もういいもういい! お前はアルキメデスじゃないだろ!」

 百合さんは半ば諦めるような形で、ボクの記憶が正常であると認めた。

 抱えていた死体を下ろすと、泣きそうな顔で、頭をくしゃくしゃと掻きむしった。

「じゃあ結局、こいつは誰なんだ? って話になるよな…」

『そうですね。身元が分かるものとかないんでしょうか?』

「ちょっと見てみるか…」

 百合さんはしゃがみ込むと、死体に手を伸ばした。だが、何を思ったのか引っ込める。

「今更だけど…」

 そうバツが悪そうな顔で言うと、胸の前で手を合わせた。

「失礼します」

 最低限の礼儀を払った上で、改めて手を伸ばす。裾の長いセーターを捲り上げて、ロングスカートを確認したのだが、ポケットは無かった。

 百合さんが舌打ちをする。

「女の服って、ほんとポケットが無いよな」

『ほんと困りますよね』

「わかったふうに言うな」

 それから百合さんは「他はどうだろう…」と言って、女性がセーターの上に羽織っているジャケットに触れる。ポケットはあるのだが、上から触れてみても、何かが入っているような膨らみは無かった。もちろん、指を突っ込んでみても何も出て来ない。

「くそ、無いか…」

 顔を顰めた百合さんは、自棄でも起こしたかのように、女性の身体を弄り始めた。

 腕、お腹、そして胸の順に触れる。胸に至っては、感触が良かったのか、数回揉んだ。

「私もこのくらいあればなあ」

 そして、何かに気づき、声をあげる。

「あ」

『どうしたんですか?』

「内ポケットがあるな」

 そう言って、彼女は身ぐるみ剥がんとする勢いで、ジャケットを捲った。そして、顔を出した内ポケットに指を突っ込む。

 引っ張り出したのは、小さな折り畳み財布。本革なのか、全体的に重厚な光沢があった。

「…財布だ」

『財布…、ですね』

「ってか、携帯はないんだな」

『確かに、携帯は持っていないようで…』

 ボクに目配せをした後、百合さんは、財布のボタンを外し、開けた。

 入っていたのは、一万円札三枚と、百円玉二枚、一円玉六枚。カードは、ガソリンスタンドのものと思われるポイントカードと、クレジットカード。そして…。

「あ、免許証だ」

 免許証だった。

 まず注視したのが、顔写真。傍らで死んでいる女本人のものであるか確かめたかったのだが、光の加減や、裂傷、頬を汚す血に、頭蓋骨陥没による輪郭の歪みのおかげで、到底同じ人物には見えなかった。とは言え、目鼻立ちや髪型、唇の厚さから、本人であると断定する。

「名前は…」

『可楽涼音』

「カラクスズネか…」

 生年月日は、一九八〇年の四月一日。ということは、現在は三十三歳…か。確かに、年齢相応…って感じの容姿をしている気がする。

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