第18話

 金持ちが多く住んでいそうな住宅地を抜けて、それから三十分ほど走り続けた。商業ビルの多い道を通り過ぎ、少しじめじめとした雰囲気を漂わせる地区を抜け、段々と少なくなっていく建物らを横目に、田畑だらけの平野を突き進む。それも抜けると、そこにあったのは隣県を隔てる山々だ。バンは山道へと入っていった。

 山道はかなり険しかった。舗装されているとはいえ、砕けた石が点在し、踏みつける度に嫌な音を車内に響かせる。起伏もカーブも激しいために、上下左右に激しく揺れた。その度にボクは、荷台の死体を心配するのだが、百合さんはそれどころじゃないようで、険しい顔をしながらフロントガラスを睨んでいた。

 登って、下りて、登って、下りて、登っては登り、下りては登りの繰り返し。周りは鬱蒼とした木々に囲まれていて、自分が今どこにいるのかわからなくなった。

 どのくらい突き進んだ頃だろうか?

「あった」

 百合さんが声をあげた。

 ハンドルを左に切り、ガードレールぎりぎりにまで寄せて停車する。

 ボクは窓をすり抜けて顔を出すと、辺りを見渡した。

 そこはまだ山道の途中で、前にも後ろにも悪路は続いている。亀裂だらけのその道を、ボクらの背の何倍とあろう木々が取り囲み、手を繋ぎ合うようにして陽光を遮っていた。ガードレールの殆どが赤茶色に錆び付き、それを食らうように蔦が巻き付いている。

 行政の管理が行き届いていない、立っているだけで不安を掻き立てる道だ。

 百合さんが何を見つけて「あった」と言ったのか、ボクは疑問に思い聞いた。

『何があったんですか?』

「ほら、あれ」

 彼女はそう言って、前方五十メートル先を指した。道は左へとカーブしているわけだが、その手前に『対向車注意』という看板が立てられていた。

『あれが、どうしたんですか?』

「あれが目印。前に来た時もそうだった」

 百合さんはそう言ってバンを降りる。ボクもドアをすり抜けて車を降りた。

「葵、周りを確認しろ」

『あ、はい…』

 ボクが周囲を警戒する傍らで、百合さんはバックドアを開ける。荷台に上体を突っ込んで、そこに寝かされていたボクの死体を引っ張り出した。

 脇に抱えようとしたのだが、百合さんは小さな悲鳴を上げ、それを断念した。

『どうしました?』

「重い」

『失礼な! 四十五キロですって!』

「あと、感触が生々しくて、持つと背筋に冷たいものが走る」

『うーん』

 まあ、言いたいことはわかる。ボクも、世話になった人の葬式の時に、例え恩人だとわかっていても、胸の前で手を組み、冷凍された死体を見ると、なんだか嫌悪感を抱いたものだ。

 一度死体から離れた百合さんは肩を竦め、首を傾け、脊椎をポキリと鳴らした。それから、指を折り曲げて、これまた丁寧に一本一本鳴らしていく。

「よっしゃ、いくか」

 己に気合を注入した百合さんは、ボクの死体を背負った。だが、これでも重いようで、「おっとっと…」とよろめく。何とか踏みとどまった彼女は、苦痛に歪んだ顔をボクに向けて言った。

「悪い、葵。死体を抱えてるって思うと気分が悪いから、移動の間しゃべり続けてくれ」

『なんじゃそれ』

 まあ、言いたいことはわかったボクは、百合さんの言うとおりにした。

『うう…、痛いよお…、痛いよお…、ボクをどこに連れて行く気なの? 痛いよお…、痛いよお…、怖いよお』

「やめろ! もっと楽しい事話せよ! 食べ物の話とかさあ!」

『最後の晩餐は蜜柑です』

 自分の死体を遺棄せんとする者に対し、怨嗟の声を吐き続けるボクに、百合さんは「もういい!」と言って歩き始める。ボクは彼女の横に並ぶと、普通の調子で聴いた。

『それで? 何処にあるって言うんですか、その底なし沼ってのは』

「確か、この辺りなんだ…」

 十メートルほど進んだ百合さんは、左側のガードレールの向こうを注視する。

 ボクも見たけれど、木が鬱蒼と茂っているだけ。きっと、この何処かに、彼女の言う「底なし沼」へと続く道があるのだろうが、青臭さが鼻を突いて、探索する気にはなれなかった。

「あった」

 百合さんがまた声をあげる。

「ほら、あそこ」

 そう言って指された方を見ると、ある木に、赤色のリボンが括りつけられていた。

『なんですか? あれ』

 意味が分からなかったボクは、首を傾げるしかなかった。

 百合さんは「よいしょ…」と言って、ガードレールを乗り越え、膝まである草むらに踏み入れていく。

『ちょっと、危ないですよ』

「大丈夫だ」

 ボクの忠告を無視して、百合さんは木の枝を潜り抜け、奥へ奥へと歩き出した。

 当然、足元は舗装されていない。異臭を放つ草木、巣を張って息を潜めるジョロウグモ、黒い土からゴロゴロとした岩が顔を出して、総出で「この先に道は無いよ」と警告しているようだった。けれど、百合さんは意外にもしっかりとした足取りで進んでいく。

 まるで、一度来たことがあるかのように。

『あの…』

「ここは殆ど使われていないよ」

 聞こうとするより先に、百合さんが言った。

「基本的に、ヤクザは死体を海に捨てたり、火葬場と関係を持って焼かせたり、豚の餌にしたりする。死体が見つかりにくいからな。でも時々、底なし沼に沈めたりもするんだ。これは、死体が浮かんでこない…って言うのもあるけど、見せしめの意味も込められている」

『見せしめ?』

「底なし沼にハマると何故抜け出せないのか、わかるか?」

『…さあ』

 一秒と経たずに匙を投げる。

 そんなボクに、百合さんは張り合いの無いような顔をしたが、答えてくれた。

「底なし沼を構成するのは、水分を多く含んだ流砂だよ。一見地面に見えるのだけれど、少しでも圧力が掛かれば、流砂が崩れて、対象は底へ底へと沈んでいく。踏ん張りが効かないから、抜け出すこともできず、後は窒息するだけ…」

『……そう、ですか』

 なんか、当たり前のことを難しく言われたような気がするのは何故だろう?

「こいつの何が良いかって言うと、恐怖を覚えるからさ。ゆっくり、ゆっくり沈んでいくわけだからね。誰も助けてくれない。自分はまだ生きているけれど、数分後には体の全てが沈んで窒息する…。自分が死ぬ過程を自分の身で感じるんだ。非効率にも思えるけれど、殺す側としては良い余興になりはしないか?」

『ボクは殺された側なのでわかりません』

「悪かったな」

 ふっ…とため息をつく百合さん。気を取り直して言った。

「どんなに反抗的なやつでも、一度沼に落としちまえば、そのうち恐怖で泣き始める。あいつらは暇なときにそうやって楽しんでいた…」

『そうやって楽しんでいたって…』

 まるで見たことがあるかのような口ぶりに、ボクは嫌なものを覚える。

 百合さんはボクの視線に気づくと、ニヤッと笑い、口元に指をやった。

「安心しな。あいつらと関わっていたのは、大した期間じゃないし、私が手を下したわけじゃない。私は、『殺される側』だった。それを、土下座して、金払って、人にゃ言えないことヤって…、惨めにも生き残っただけだよ。だから、仲良くしようじゃないか」

『はあ…』

 彼女の過去については気になるところだったが、まあ、ボクには関係ないか。

 それ以上追及することを止めたボクは、口を噤んで、百合さんの後を追った。

 周りには、樹、樹、樹…。本当に樹しかない。足元の黒い土からは、岩やら樹木の根やらが剥きだして、人の歩く場所とは到底思えなかった。実際百合さんは、何度か足を滑らせて、盛大に尻もちをついていた。その度に立ち上がり、ボクの死体を背負い直し、進んでいく。

 てっきり、やみくもに進んでいるのかと思ったが、そうではないようだった。

「よし、これだな」

 道中、様々な樹に赤色のリボンが結び付けられていた。どうやら彼女は、これを頼りに進んでいるようだった。

 どのくらい進んだだろうか?

 無事に帰れるのだろうか? と不安に思い始めた頃、百合さんが声をあげた。

「あった」

 てっきり、また赤いリボンを見つけたのだと思ったボクは、欠伸交じりに言った。

『あとどのくらいかかりそうですか?』

「もう着いたよ」

『え…』

 そう言われて、前を見る。

 そこには開けた空間があって、黒ずんだ木々に囲まれるようにして、半径二十メートルほどの、黒い地面が広がっていた。所々、コケのような短い草が生えていて、一見「沼」には見えない。水が腐ったような臭いが漂っていて、嗅ぐだけで吐きそうな気分になった。

「それ以上近づくなよ。足を取られる」

『ああ、はい』

 とは言え、ボクは幽霊だから大丈夫なのだが…。

「さっさと終わらせるよ」

 百合さんはそう言って、背負っていた死体を下ろした。よく見ると、この辺りは底なし沼の延長らしく、彼女の靴が、数センチ沈んでいた。

「あー、気持ち悪」

 なんて言いながら、彼女はショルダーバッグからアーミーナイフを取り出す。

『何するんですか?』

「毛布から取り出す」

 シャキンッ! と、刃を突出させた。

『えー、そのまま沈めれば良いじゃないですか』

「死体が腐りやすいだろう? まあ、微々たる違いかもしれないけど」

『ええー…』

 ボクは不満げな声を発した。

 血まみれで、頭蓋骨が陥没して、眼球をガラス玉のようにした自分の死体なんて、死んでも見たくはない。いやまあ、死んでいるのだけれど。

『まあ、その方が腐りやすいって言うなら…』

 骨だけになってしまえば、例え発見された時も、そこまで人の目を汚すことはないだろう。だって、みんな理科室の人体模型で、骸骨は見慣れているだろうから。

「よし、切っていくぞ」

 百合さんはそう言って、アーミーナイフの刃を、毛布を縛るビニール紐に押し当てた。

 ブツンッ! と、紐が切れる。残る紐は四本。百合さんは、戸惑うことなく、残りの紐を切っていった。

 すべて切れたところで、死体を包んでいた毛布が、少し緩まる。百合さんは縁を掴むと、弁当風呂敷でも開くみたいに、毛布を剥ぐった。

 中から出てきたのは、当然遺体。そしてその遺体には、当然、事故の痕跡が刻まれていた。

 衝突時に砕けたようで、腕の形は歪。その肉は、地面を滑ったために削げていた。頭も強く打ったようで、髪の上からでも頭蓋骨が砕けているのが分かる。見開かれた目は充血して真っ赤。苦痛に歪んだ口の中で、黒い血がゼリーのように固まっていた。

『これが、ボクの死体…』

 死体を見つめて、ボクはそう洩らす…。

『これが、ボクの死体かあ…』

 ぐちゃぐちゃになってしまった死体ながらも、生前の面影は残っている。

 寒いから、少し分厚いセーター。その上には革調のジャケット。足首まで覆っているロングスカート。そして、背を高く見せるためか、厚めのブーツ。

『………ん?』

 しなやかな首。くっきりと浮かんだ鎖骨。腕は枝のように細く、けれど、胸はお茶碗のように大きく、母性すら感じる。

『んん?』

 男性の生殖本能を刺激するかのような、なだらかな腰回り。

『んんんっ?』

 髪は血まみれであるが、よく見ると紅葉のような赤茶色で、背中まで伸びているのが分かった。

 死ぬには惜しい、綺麗な女性の肉体が、そこにあった。

 瞬間、限界まで膨らんだ違和感が、ボクの喉の奥で爆発した。

『はあっ!』

「ほべっが!」

 急に大声を出すものだから、百合さんもまた変な悲鳴を上げる。

「な、なんだよ急に…、びっくりさせやがって!」

『いやいや、そりゃこっちのセリフですよ!』

 ボクは声を上擦らせながら言うと、目の前にある若い女性の死体を指した。

『誰ですか! この人は!』

 開かれた毛布。その上に倒れていた死体は、ボクとは似ても似つかない、見知らぬ女性の死体だった。

「はあ?」

 パニックに陥るボクとは対照的に、百合さんは冷めた目で死体を見る。

「…こいつは、葵じゃないのか?」

『ボクじゃないですよ! そもそも、声でわかるでしょうが!』

「声って言ったって、お前の声、ハスキーだから…」

 腕を組む百合さん。それから、ボクと死体を交互に見た。

 そしてようやく、大変なことが起こっていることに気づき、青ざめる。

「え…、この死体、お前じゃないの?」

『ボクじゃありません』

『じゃあ、お前、誰だ?』

 こいつはとんでもないことになってきたぞ。

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