第6話
次の瞬間、ボクは踵を返すと、足元にあったリュックを掴むとともに走り出していた。
負け犬の遠吠えのように、涙で震えた恨み言を吐き捨てる。
「死んでやるわああああああああっっ!」
「ああ、アオくん!」
三歩進んでもう玄関。上がり框に腰を掛けると、揃えて置いてあったスニーカーの紐をほどいて、右足を通した。使い古しているおかげで、型が崩れて履き心地が悪い。踵をとんとん…として整える。
「追いかけて来ないでください! ボクはもういいんですから!」
紐をしっかりとちょうちょ結びにする。ほどけないよう、わっかの部分を摘まんで、もう一回結ぶ。
「だから! 追いかけて来ないでくださいよ!」
左足も同じようにした。紐を解いて、履いて、踵をトントン。しっかりと結ぶ。
「もう! 良いんですって! ボクはもう! 追いかけて来ないでくださいよ!」
走り出す…、その前に準備運動。しっかり足首周りをほぐし、ハムストリングも伸ばす。その後、大家さんの方を振り返った。
大家さんは炬燵に入り、剥いた蜜柑を頬張りながら、ボクの方を見ているだけだった。
「嫌よ、寒いんだから」
大家さんの冷たい視線が、ボクに突き刺さる。
ボクは歯を食いしばると、まるで人質を取る様に、玄関のドアノブに手を掛けた。だが、大家さんは動かない。蜜柑を次々と口に放り込むだけだ。
いよいよボクは絶望し、「この野郎!」と暴言を吐き捨てると、タックルするような勢いで外に飛び出した。そして、今度こそ叫ぶ。
「死んでやるわあああああああっ!」
走り出した時だった。
「待ちなさい!」
大家さんの声が、ボクを引き留めた。
急ブレーキを踏むが如く、前のめりになりながら立ち止まったボクは、顔を明るくして振り返る。そこには当然大家さんがいて、彼女は着の身着のまま、白い息を吐きながらボクを追いかけてきた。
「大家さん!」
ボクは大家さんの胸に向かって走り出す。
ボクが抱きつくよりも早く、大家さんは持っていた紙袋を、ボクの眼前に突きつけた。
「はいこれ、帰って食べなさい」
「え…」
中に入っていたのは、大量の蜜柑だった。
「蜜柑…」
「うん」
大家さんはボクの顔を覗き込み、にこりと笑った。
「アンチストレスよ」
すると、汗蔵さん、長谷川さんが遅れて出て来て、それぞれのナイロン袋をボクに握らせた。
「失恋して傷ついているんだ。蜜柑食って治せ」
「そうよお、葵ちゃん。私蜜柑嫌いだから食べてね」
「ありがとうございます…」
ボクは蜜柑を受け取ると、頭を下げたのだった。
部屋に戻る前に、一応、大家さんに伝える。
「あの、三日後に、違約金と今月分の家賃と、遺言が入った手紙が届くと思うので、忘れてください」
「わかったわ。お金は来月と、再来月の家賃に回して、遺言の方は額に入れておくわね」
「はいはい」
もうどうでもよくなって、ボクは頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます