第5話

 追い打ちをかけるように、大家さんは言った。

「死ぬから関係ないって言うのに、自分が死んだ後のことを考えちゃうくらい、アオくんは優しいからね。しかも真面目だ。そんな良い子が死ぬんだから、悲しいに決まっているじゃない。すっごく悲しいわ」

「……大家さん」

 ボクは大家さんの顔を見つめる。

「アオくん…」

 大家さんはボクの顔を見つめる。

 ピコーン! と、頭頂部で豆電球を光らせて、ボクは言った。

「確かに、もう死んでるんだから、人の迷惑とか関係ないですね」

「張り倒すよ?」

 自暴自棄になったボクが、山ではなく人の目のある場所で死なないよう釘を刺す。

「大体、アオくんはもう少し人の前に出ないといけないわ。いっつも自分の殻に閉じこもっているから、そんなふうになるのよ。ああ、別に、アオくんの性格を否定しているわけじゃなくてね、でも、もう少し日のあたる場所に行ってもいいと思うのよ」

「へー…」

 僕はなぞるような相槌を打つと、部屋の東側を顎でしゃくった。

「その日当たりの悪いアパートを僕に住まわせている人は誰なんでしょうね」

 大家さんの言う「もう少し日のあたる場所に行ってもいい」というのは、心当たりがあった。それは、傍にいる汗蔵さんや長谷川さんも思っていることで、二人はこくりこくり…と頷いている。

 実はと言うと、僕の住むアパート、通称『バーニーハウス』の東側には、別の人間が所有しているアパートが隣り合っていた。文字通り目と鼻の距離にあり、鉄筋三階建てということから、僕らの部屋には全く光が差し込んでこない。

「昼間でも真っ暗な部屋なんですよ? そりゃ精神も萎みますよ」

「嫌なら他所の住人になりなさい」

 僕らの日照権を求める叫びを、大家さんはお母さんのような勢いで一蹴した。

「ってか、日に当たることなんて、毎日散歩すればいい話じゃない」

「大家さんって、『ダイエットしたい!』って言う人に対して、『野菜食え』って言ってそうですよね」

 などとツッコミを入れると、大家さんはあからさまに不服そうに、手を腰に当てた。

「仕方がないじゃない。私のおばあちゃんが、昔地主と揉めたんだから。私はその土地を受け継いだだけ! 私は悪くない!」

「大家さんって、クレーマーに対して、『私バイトだから!』って言ってそうですよね」

 いや、この人はバイトなんてしたことがないか。

「別に、何もかも放り投げているわけじゃないわよ?」

 大家さんはそう言って、えっへんっ! と胸を張った。

「実はね、裏にあった廃墟、私が買い取っちゃいました!」

「廃墟? あんた、何言っているんですか?」

 大家さんが言っている意味が分からず、僕は眉間に皺を寄せた。

 長谷川さんは気づいたらしく、「ほら…」と言って説明してくれた。

「東側の道に、廃墟の借家があったでしょう? 私らから日光を奪う、憎きアパートの向かいにある建物」

「いや、裏の通りあんまりいかないんで…」

「まあ、とにかく、裏に廃墟があったのよ。昔は、住人がいたんだけど、三年前から人が少なくなって…、二年前には既にもぬけの殻になっていたところ…」

「はあ…」

 まあ、そう言うことにしておこう。

「とはいえ、その物件を買ったのと、ここの日当たりが悪いの、どう関係があるんですか?」

 白けた顔でそう聞くと、百合さんは、ちっちっち…と舌を鳴らした。

「改修工事が終わったら、アオくんをそこに住ませてあげようって話」

「ああ、なるほど」

 確かに、日の光が当たる場所に引っ越せば、今の状況も変わるかもしれない。

「あと、両側から私の物件で挟みこんで、あの憎きアパートを、あわよくば私のものに…」

「オセロか何かですか?」

 大家さんが、手をパシッ! と叩く。

「とにかく、話を戻すわよ!」

 脱線どころか、横転して人的被害を被っている話を、大家さんは無理やり戻すことに成功した。

「ええと、何の話だったっけ?」

 前言撤回。二次被害が発生する。

「僕の自殺の話です」

「ああ、そうだそうだ…」

 三次被害を事前に食い止める。

「大きく考え過ぎよ。人生って言うのは、案外何とかなるの。アオくんみたいに、真面目に生きている人は特にね。だってそうでしょう? 大学に行ってる。お金も自分で稼いでる。早起きできるし、食事だって作れる」

 しなやかな指が、ボクが持っている缶チューハイに触れた。

「こうやって晩酌もできる。そんな子に真っ黒な未来が待ってるわけないわ。きっと報われる時が来るの」

 だからね…と、息を吸い込んだ大家さんは言った。

「もう少し生きてみなさい。あなたは一人じゃないわ。少なくとも、私は味方だから。あなたが死ぬと悲しむし、あなたが生きていると嬉しいのよ」

「大家さん…」

 デジャブのように、ボクは大家さんを見つめた。

「アオくん…」

 大家さんもまた、ボクを見つめる。

 絡み合った視線は、部屋の温度を一度上げた。

「ね?」

 大家がさらに言う。

「そうですね」

 ボクは息を吐き、身体の力を抜いた。

 ああ、そうだよね…って思う。

 出会いは、三年前のことだ。当時のボクは家出をしたばかりで、金も無く、職もなく、とにかく、雨風を凌げる場所が欲しかった。不動産屋に「事故物件でも何でもいいので、敷金礼金要らない、安いところを紹介してくれ」と懇願すると、そんなものは無いと一蹴された。紹介された物件は、安くて五万円。

 橋の下で暮らすことを覚悟した時、丁度、不動産屋に挨拶に来ていた大家さんに出会った。

「うちの部屋が空いてるから来なさい」

 大家さんはそう言って、以前の住人が出て行ったタイミングで、倉庫にする予定だった部屋をボクに案内した。家賃は、何と破格の二万円。築五十年で、資産価値がほぼ無いないためにできる大安貸だった。

「助かるわ。夜中にたまに変な音がするけど、柱が軋んでいるだけだから」

 そう言っていたのが気がかりであるが、「柱が軋んでいるから」と納得した。時々、「アソンデ」って子供の声が聴こえるけれど、やっぱりきっと、柱が軋んでいるだけなのだと思う。

 大家さんはよく気に掛けてくれた。入居した時は、「これを使いなさい」って言って、炊飯器と米をくれた。「ご飯だけじゃダメよね」って言って、漬物を沢山くれた。ボクが二十歳の誕生日を迎えた時なんて、居酒屋に連れて行ってくれて、お酒の飲み方を教えてくれた。

 この人は、いつもボクを助けてくれたんだ。

 ボクはその恩を、忘れていたんだな…。

「すみません、大家さん…」

 ボクは胸に手を当てた。

「ボクは大切なことを、忘れていたようです」

 ボクの人生は、まだまだ輝くのだと思った。

「まだまだダメなボクですけど…」

 大家さんへの気持ちを口にする。

「好きです。大家さん」

「あ、彼氏いるんで」

 突然の裏切り。ボクの後頭部を、ハンマーで殴りつけるような衝撃が襲い、口から食べていた蜜柑を噴き出した。

 飛んできたそれが、大家さんの顔面に掛かる。彼女は意に介すことなく、傍にあったティッシュを抜いて、顔を拭った。

「ごめんなさい、彼氏がいるの」

「そ、そうですか」

 ボクは、この凍り付いた空気を何とかしてもらいたく、傍にいる汗蔵さんと長谷川さんに助けを求める視線を送ったが、二人は気まずそうに視線を逸らした。

 裸のまま大衆の前に放り出されたかのような感覚のまま、大家さんを見る。

 綺麗な彼女は、首を横に振った。

「ごめんなさい、彼氏がいるの」

「なんで二回言うんですか!」

 いや、三回目か。

「いやいや…、なんでだよ!」

 ボクは炬燵に手を付き、周りにある蜜柑を転がす勢いで立ち上がった。

 蜜柑の汁、鼻水、涙まみれの顔で、大家さんを見下ろす。

「あの流れは完全に告白する流れだっただろうが! それをあんたがオッケーしてくれて! 二人は歳の差がありながらも仲良く穏やかに…」

「いや、逆よ。あの流れで告白するのはナンセンスだわ」

 大家さんは冷静にボクを手で制した。

「私はあくまで、若いあなたに頑張って欲しくて励ましたのであって、どちらかと言えばそれは親心よ。それを人間の生殖本能の延長線に位置する愛の告白と結びつけるのはかなり強引よ。空気が読めた行動とは言えない」

「でも好きなのに!」

「あなたもしかして、困っている子がいたら、『どしたん? 話聞こか?』って言ってホテルに誘うタイプ?」

「ぐぬぬ…」

 大家さんの言っていることが否定できなくて、ボクは歯を食いしばって固まった。

 大家さんの追撃は続く。

「まあまあ座りなさい。だからと言って、私があなたを拒むことはないわ。これからも仲良くしましょうね」

 ボクは座らない。

「大丈夫よ。さっきの告白は気にしていないわ。幼稚園児が中学生のお姉さんに告白するようなものよ。幼稚園児も『交際』するということの意味を捕らえていないし、中学生のお姉さんも、その告白を『交際』を促すものだと捉えていない。微笑ましいじゃないの。とっても嬉しかったわ。でも、幼稚園児と中学生が付き合うことが無いように、私とあなたは付き合うことはなくて…」

「もういいもういい!」

 聞いていられなくなったボクは、やっとこさ動き出し、大家さんの言葉を遮った。

 手を下げたボクは、半歩後ずさる。俯くと、空気を喉に擦りつけながら、恨みがましい声を発した。

「はいはい、わかりましたよ。大家さんですら、ボクを拒む…と言うわけですね」

「そう言うわけじゃないわ。でも、一線は超えるべきではないでしょう? だって、私とあなたは、お…」

「まあ、別にいいですよ。もとより、あんたに好かれることなんて想定していなかった。さっきの件は棚からぼた餅みたいなものだった」

 ボクは大家さんの言葉を遮ってそう言った、当然、彼女は声の調子を落とす。

「なんか腹立つわね」

「つまり、ボクがこれからすべきことはただ一つ…」

 ボクは顔を上げた。

 大家さんと目が合った途端、彼女は首を傾けて、にこりと笑った。

「私、彼氏がいるの」

 ボクも首を傾けて、ニコッと笑う。

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