第4話

 そこまで言った大家さんは、悪戯っぽく笑った。

「だって、私は大家よ? 大家はね、住人の悩みを聞くのだって仕事なんだから」

 その言葉に、ボクは胸がドキリとするのを感じ、上目遣いに大家さんを見た。

 大家さんは女神のような笑みを浮かべている。その顔を見ていると、ボクのことを捨てた両親だとか、大学での人間関係だとか、将来の不安だとかから来る苦しみが、ほんの少しだけ和らいだような気がした。

 この人に、胸を割って話をしても良いのではないか? と思えた。

 いや、言ってしまおうか。

「大家さん、実は…」

「あ、ちょっと待って」

 話し出そうとすると、手で制される。

 次の瞬間、大家さんは何処からともなく取り出した、家賃の請求書をボクの前に置いた。

「今月の家賃ね。まだ払ってもらってないから」

「家賃を払わない奴は住人じゃないってか」

「当たり前でしょう。そこはしっかりしないと」

 三日後に送られてくる手紙に、家賃も違約金も入れていたんだけどな…。

 まあいいや。たかが二万円だ。二十時間バイトすれば稼げる。

 リュックから財布を取り出したボクは、大家さんに二万円を手渡した。

 改めて、大家さんに悩みを打ち明ける。

「ほんと、色々なことが重なって、死にたくなりました。さっき、大家さんが言った通りですよ。学費稼いで、勉強して、でも、将来は真っ暗で、自分が何になりたいのかわからなくて…。友達との関係も上手くいかなくて…」

 すると大家さんは、視線を落としつつ、首を横に振った。

「死ぬのはダメよ」

「死ぬのはダメだぜ、百合の葵」

「死んだらいやーよ。葵ちゃん」

 汗蔵さん、長谷川さんが続いた。

 隣のテレビで、ハリーが呪文を唱えていた。

「はいはい、出た出た、魔法の言葉『シヌノハダメヨ』」

 ボクは卑屈にそう言う。

「なんで死んだらダメなんですか?」

「そりゃあ、アオくんは世界でたった一人の、かけがえのない存在だからね」

「って、バイト先の店長も言ってましたねえ…」

 炬燵の上に置かれたピーナッツの袋に手を伸ばすと、大家さんが開けてくれた。

 香ばしいナッツをカリッと齧り、ボクは続ける。

「かけがえのない存在って何なんですか? ボクが死んだら、世界は困るんですか?」

 鼻で笑う。

「そんなわけないでしょ? だって、ニュースで赤の他人が事故死したところを報道していても、悲しくもなんともないのに」

 何処からともなく、「人の死を悲しまないなんてけしからん奴だ!」と聴こえたような気がした。

「その人のために献花するんですか? 法事に行くんですか? 行かないでしょ。どうせすぐに忘れる。実際ボクは、今まで見た死亡事故で、誰が死んだだとか、どう死んだだとか、どんな顔をしていたかなんて全く憶えていない」

「はいはい、お酒飲みなさい」

 段々と早口になっているボクを黙らせるためか、目の前に、開いた缶チューハイが置かれる。蜜柑に酒は合わないだろう…と思ったが、柑橘系のやつだったから、意外に美味しかった。

 更に早口になって言った。

「赤の他人を悼んで悦に浸る奴よりも良いと思いますけどね。ボクにとって、ニュースで流れてる人の死なんてどうでもいいんだ。その時点で、世の中にかけがえのない人間は存在しないってことでしょ。世界から一人、ボクが消えたところで、何の支障もなく世の中は巡るんだ…」

 そこまで言うと、天井を仰ぐ。

「だから死んでも良いでしょうがあ…。死なせてくださいよお…。なんでそんなきれいごと言うんですかあ…。わかっていても、ためらっちゃうでしょうがあ…」

「おおっ! 葵ちゃんってお酒弱いの?」

「よっしゃ、もっと飲ませろ!」

「汗蔵さんと、長谷川さんは黙ってて」

 後ろでやいやいという二人を手で制し、大家さんがボクの顔を覗き込んだ。

「死ぬの…、ためらいはするんだね」

「そりゃね」

 ボクは缶を振った。

「ボクは馬鹿真面目だからね。優しい言葉を掛けられたら、応えたくて躊躇しちゃうんです」

「自分で言うんだ」

 ボクは炬燵に伏した。

「これは自虐ですよ。何事もやりたいことをやるべきだ。幸せに生きている奴は大抵、自分がやりたいことをやってる奴なんです。例えそれが、褒められる行為じゃなくてもね」

「いるよねー、人に迷惑かけても、自分が幸せならそれでいいって人」

「ボクはそれが出来なくてね。死にたいと思っても、色々考えちゃうんです。ボクが死んだあとの影響をね。ボクが死んだあと、死体は誰が処分するんだろう? とか、アパートの手続きは誰がするんだろう? とか」

「私よ」

「人の目は汚したくないな…とか」

 そう言うと、大家さんは腕を組み、こくりこくりと頷いた。

「わかる。私も、東京に行った時に、電車での飛び込み自殺を見たことあるんだけど、それは酷いものだったわ。しばらくご飯食べられなくなっちゃったし、今も思い出すとぞくぞくする。だから、そういうことは止めて欲しいわ」

「……………」

 ボクは伏したまま、大家さんを見上げる。

「どんなでしたか?」

「思い出させるなっつってんでしょうが」

 そう言いながらも、大家さんはボクに当時の様子を教えてくれた。飛び込み自殺の惨状は、一言で説明するならば、血抜き処理をしていないミンチだそうだ。

 凄惨な話を聞いて、ボクと汗蔵さん、そして長谷川さんが慄いていると、大家さんは肩を竦めた。

「しかも、その後、霊感がついちゃってね…。幽霊が見えるようになったの…」

「へえ、大家さん幽霊が見えるんだあ!」

 そう言って目を輝かせたのは、長谷川さんだった。身を乗り出した彼女は、管理人室のあちこちを指した。

「ねえ、今、何処に幽霊がいるの? ねえねえ」

「私の目の前ね。ウザイ悪霊がいるわ」

「えええ~」

「まあ、それは冗談で。今はこの部屋にはいないわ。事故があった場所とか、あと、心理的瑕疵物件とかね、そう言うところでは頻繁に見えるようになったわよ。霊障で肩こりもするから、結構不便よ?」

 それを聞いたボクは、震えあがる。

「やっぱ、自殺は一人で死ぬに限りますね。誰の目にも触れられたくない」

「深夜の釣りは一人に限る…みたいなテンションで言うのはやめなさい」

「人から忘れられるように死ぬのが一番だ。やっぱ山だよ。樹海だよ」

 山で死ねば、人にその醜態を晒すことはない。

「ダメよ、死んだら。マジで」

 大家さんは口調を強めていった。

 それから、甘えるような声で言う。

「だって、アオくんが死んだら、私が悲しんじゃうから」

「俺も悲しむぞ!」

「私も―!」

「二人は黙ってて」

 再び後ろのチンパンジーを黙らせてから、大家さんがボクの頬を撫でた。

「ね? 悲しいの」

 その言葉に、ボクは背筋にぞくぞくとするものが走るのを感じながら、大家さんの顔を見た。

「…ボクが死んだら、悲しむんですか?」

「そりゃね」

 間髪入れず、そう答えた。

「どのくらい、悲しみますか?」

「一生悲しむわよ」

 せいぜい一週間だと思っていたために、その答えは不意打ちで、頬が熱くなった。

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