第3話
大家さんに何もかも知られているこの状況。衝撃よりも羞恥心が勝り、泣きなくなる。いや、実際右目から、一滴の涙がぽろりと零れた。
決行は断念した方が良いのでは? と思い始める。嫌なことが一つ起これば、その日のうちに百起こるものだと、ボクは今までの人生で学習していた。
ボクの意思が揺らぐのに気づいてか、大家さんはボクの手を握ると、甘い声で言った。
「ほら、飛び出した心臓拾って、一緒に金ロー見ましょう? 今日はハリーポッターだって」
「もう何回も見ましたよ」
悪あがき。
当然、大家さんは意に介さず、ボクの手を引っ張った。
「ハリーポッターは何回見ても面白いんだよ。ヴォルデモートの死に顔が判明した時なんて、私、鳥肌が立っちゃって…」
「小説版じゃねーか!」
まあいいか。大家さんと二人きりになれるのだから…。
諦めたボクは、大家さんと一緒に、管理人室に入った。
中は照明が煌々とし、まるで天使の羽に包まれているかのような温かさがあった。加えて炬燵。その上に蜜柑。そして、大家さんが買ってきた缶チューハイにピーナッツ。この時点で、ボクの脳を支配していた自殺願望は、麻酔銃を撃たれた象のように落ち着いた。
靴を脱いで入っていこうとして、固まる。
「んげっ! なんであなたたちがいるんですか!」
炬燵の右側と左側に、同じアパートの住人がいたのだ。
右側に座って、熱燗を啜っている恰幅のいい髭面のおじさんが、二〇一号室の汗蔵さん。そして、左側に座って缶チューハイを飲んでいる綺麗なお姉さんが、一〇三号室の長谷川さんだ。二人とも酒が回っているのか、顔が赤い。
ボクの方を振り返るなり、声を揃えた。
「「葵ちゃーん! 呑もう呑もう!」」
「嫌ですよ。飲みたくなんて無いから」
と言いながらも、ボクは靴を脱いで畳に足を掛けた。
「ってか、二人とも、ボクの事『ちゃん』付けするのやめてくれませんか? ボク、男なので」
「そーお? 似合ってると思うけどねえ、ちっちゃくて」
「やめてくださいよ」
身長百五十二センチであることを気にしているボクの胸が、チクリと痛む。
せっかく大家さんと二人きりになれると思ったのに、思わぬ邪魔者が入った。
「大家さんって、いっつも部屋に誰か招きますよね」
恨みがましく大家さんの方を振り返ると、彼女は満面の笑みで、ボクに炬燵に入るよう促した。
「座りなさい。みんなで仲良くするのが一番よ」
「はいはい」
吸い込まれるようにして炬燵に入り、身を縮こまらせる。
「ああ、あったかい…」
「ほら、百合の葵。酒を飲め、酒を」
目の前に、飲みかけの熱燗が置かれた。
「そうよお、葵ちゃん。寒い日は飲むに限る!」
そう言って、長谷川さんが飲みかけのチューハイを差し出してくる。
「要りませんよ」
うるさい彼らの手には乗るまいと、ボクは首を横に振った。
すると、大家さんがボクの前に、傷のついた蜜柑を置いた。
「ほら、蜜柑食べなさい」
「…………」
指が冷えていたから手を出さないでいると、ボクが拗ねていると思ったのか、大家さんは皮を剥いてくれた。更には、「はい、あーん」と言って、口に押し込んできた。
ボクは甘酸っぱい果実を咀嚼する。
「おいひい…」
「いっぱい食べなさい。×××なDVDばっかり見てると、肌荒れするからね。ビタミンCは効果があるの」
「自殺願望退ける効果があって欲しいんだけど」
「もちろん、アンチストレス効果だってあるわよお。この私に食べさせてもらっているんだからね」
否定できないのが、なんだか腹立たしかった。
「ほら、どんどん食べなさい。若いんだから、もっと食べなさい。吐くまで食べなさい。無くなるまで食べなさい」
そう言って、大家さんは次々とボクの口の中に蜜柑を詰めてくる。
口の周りを果汁でべたべたにしながら見ると、部屋の隅に段ボール箱が置いてあって、中に大量の蜜柑が詰まっているのがわかった。
よく見ると、汗蔵さん、長谷川さんの脇に、蜜柑が大量に詰まったナイロン袋が置いてあった。
飲み込んでから聞く。
「ノルマは、何個ですか?」
「二十個。全部市場に出せない訳あり蜜柑だから、早めに食べてね」
「任せてください」
大家さん直々に、貰い物の蜜柑の排除を依頼されたボクは、ようやく炬燵から手を出し、黴が付いていたり、傷が付いていたりするそれの皮を剥いていった。
白い筋は嫌いだから、念入りに取り除く。ひたすらに、剥いては口に放り、剥いては口に放りを繰り返した。
ハリーポッターなんてそっちのけで食べていると、大家さんが笑った気がした。
次の瞬間、手が伸びてきて、ボクの頭を撫でる。犬でも愛でているかのような、くすぐったい力だった。
それを見て、汗蔵さんが歓声を上げた。
「おっ! 良いねえ! 良かったな! 百合の葵」
「葵ちゃん可愛がられて嬉しいねえ」
長谷川さんも便乗してボクを茶化す。
ボクは皮を剥く手を止めて、恥ずかしさを拭うように聞いた。
「どうしたんですか?」
「いや、アオくんはちゃんと頑張ってるよ…って、伝えたくて」
ボクの顔を見て、にこりと微笑んだ大家さんは、それから、ボクの頭をぽんぽんと叩いた。
おかげで、ボクの心臓の鼓動が逸る。
「な、なんですか」
「だって、大学通ってて、その学費は全部自分で稼いでいるもんね。生活費も、光熱費も、携帯代も、全部、自分の力で賄っているからね。それって、凄く凄い事なんだよ」
「そうだそうだ! すごいぞ! 百合の葵!」と、汗蔵さん。
「葵ちゃんはよく頑張ってる!」と、長谷川さん。
ボクは褒められることに慣れていない。
大家さんの優しさを足蹴にするように、首を横に振った。
「い、いや、それは当たり前のことでしょ」
すかさず、大家さんがボクの頭を鷲掴みにし、首を触れないよう固定する。
「そんな事ないわ。遊び惚けている人だっているし、親に頼りっきりの人だっているわ。そんな中、アオくんは一人の力で成し遂げようとしているんだもん。とっても立派よ」
ね? と言って、汗蔵さんの方を振り返る。
赤ら顔だった汗蔵さんは、途端にばつが悪そうな顔をして首を横に振った。
「借金はもう返したよ。今だって頑張って働いてる。そんな、俺がダメ人間みたいな言い方はやめておくれ」
向かいにいる長谷川さんを指した。
「長谷川のねえちゃんの方を咎めろよな。こいつ、毎日男に金貢いでもらっているんだからさあ。楽して生きてる奴の典型だよ」
「なによお汗蔵さん。そんなに貰ってないから! 大体、金あったらこんなオンボロアパートに住んでないし!」
などと、大家さんの前で長谷川さんが反論した。
大家さんが「ね?」と首を傾げて、言い合いをする二人を顎でしゃくった。
「適当な生き方をしている彼らよりも、アオくんは頑張ってるの」
「そんなことありませんよ」
「だから、ちょっとつらくなって、死にたくなるもの仕方がないわ」
ギリギリ…と、大家さんの指の爪が、頭頂部の頭皮に食い込む痛みが走った。
「でもね、そういう時は、私を頼っていいのよ? こうやって、管理人室が空いている時はここに来て、何でも打ち明けちゃいなさい」
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