第2話

「あ…」

 台所に、塩を入れたケースが残されていた。

「しまった…」

 捨てるの、忘れていた。

 ゴミ袋は縛った直後。そもそも、プラスチックは燃えるゴミに出せない。

「まあいいや」

 塩くらい、僕の失踪後に大家さんが捨ててくれるだろう。

 塩の処分を諦めた僕は、今度こそ、靴を履いて外に出た。

 旅立ちにはぴったりの、美しい夜だった。雲一つない藍色の空の中央に、黄金の三日月が鎮座し、微睡んでいる。冷えた風が、自殺を前に火照った頬を撫でていって、ボクは幾分かの余裕を取り戻し、階段を降りた。

 管理人室の明かりが点いていた。耳を澄ませると、微かにテレビの音。

 大家さんが夜更かしをするなんて珍しいな…と思ったが、気づかれるわけにもいかないので、足早にその前を通り過ぎ、駐輪場の横にあったゴミ置き場に、ゴミ袋を置いた。

 立つ鳥跡を濁さず。最後の仕事を終えたボクは、温い息を吐き、アパートの方を振り返る。

「大家さん…」

 大家さんには本当に世話になった。時々差し入れもしてもらったし、一緒にお茶をしたこともあった。買い物に付き合ってくれることもあったし、部屋の片づけだって手伝ってもらったことがあった。何よりあの人、凄く綺麗なんだ。三十二歳って言ってたけど、二十代に見えるくらい肌がきれいで、髪も艶やかで、目は凄くおっとりとしていて、声も柔らかいから、一緒にいて落ち着く。でも、あの人は僕だけのものじゃないから、彼女が僕が「死なない」理由にはならなかった。

 でも、ちょっとだけ、惜しいと思う。

 今までの大家さんとの日々を思い出した僕は、アパートの管理人室の方を見ながら、決して届かない別れの言葉を口にした。

「さようなら…、大家さん」

「初めまして、アオくん」

 その瞬間、ボクの背後から大家さんの声が聴こえた。

「おぼゲバババババババっ!」

 ボクは口から心臓を吐き出すと、電気に触れたみたいに跳び上がった。

 着地に失敗し、盛大に尻もちをつく。背中を突き抜ける痛みに悶絶し、硬い地面の上を、打ち上げられた魚みたいに転がった。

 パニックを起こすボクを前にして、ジャージの上に半纏という恰好をした大家さんは、楽しそうに手を叩いた。

「あらあ、アオちゃん、ねずみ花火のモノマネかしら? もう少し捻りが欲しい所ね。脊椎の一つ一つを稼働させるくらいの」

 ボクは、駐輪場の柱に後頭部をぶつけて止まると、落ちていた心臓を拾い上げ、飲み込んでから聞いた。

「大家さん! なんでこんなところに居るんですか! ってか、ちゃん付けしないでくださいって!」

「なんでって…、ここ、私の家だし」

 大家さんは黒髪を揺らして首を傾げると、持っていたナイロン袋を掲げた。

「金ローやってたからね、近くのコンビニに、お酒とおつまみ買いに行ってたの」

 ほら…と言って、袋から取り出したのは、缶チューハイとピーナッツだった。

「帰ってきたら、なんかアオくんが、深夜なのにゴミ出ししてるし、泣きそうな顔でアパートを見上げて、さよなら…って言ってるし」

「す、すみません…」

 大家さんは口を膨らませると、ボクの額を小突いた。

「全く、ダメだよ。ゴミ出しは朝の六時から八時までっていう決まりがあるでしょう?」

「はい…」

「ちなみに私も深夜に出してるわ。よかったわね、罪悪感が薄れて」

「代わりに失望が生まれましたよ」

 夜のうちにゴミ出しをしたことへのお咎めはナシとして…。

「そんなことより、どうしたの? リュックなんか背負っちゃって。今から何処かに行くの?」

「あー…」

 まあ、そうなるよね…と思う。

 どうしよう? 今日の自殺は中断すべきか? いやダメだ。三日後には、大家さんのもとにボクからの遺書が届く。今日、部屋を出ないことにはいけないのだ。

 ボクは軌道修正を試みた。

「いや、その、実は…、ちょっと、旅行に行こうと思って…」

「旅行?」

 大家さんは無垢な顔で首を傾げた。

「死にに行くの?」

「おぼゲバババババババババッ!」

 せっかく定位置に戻っていた心臓が、再び喉の奥から飛び出した。

 卒倒しそうになったのを、大家さんが腕を掴んで支えてくれる。

「大丈夫? 手筒花火のモノマネなら、もっと勢い持った方が良いわよ」

 気を取り直す。

「な、な、な、な、なんで死にに行くんですか! 変なこと言わないでくださいよ!」

「いや、だって、最近ずっと、アオくんの部屋の方から、『死にたーい』『早く楽になりたーい』って声が聴こえてたから…」

「ぎくーっ!」

 大家さんにそう言われて、ボクはいよいよ終わりを悟る。

 全部お見通しの大家さんは、にこりと笑っていた。

「旅行にかこつけて、自殺しに行くのかと」

「うう…」

 確かにそうだ。自殺を決意するまでの一か月、ボクは人生に絶望し、精神が不安定になる度に、部屋の中で発狂していた。「死にたい」「楽になりたい」と。ここは家賃二万のアパートなんだ。その声はきっと、外に筒抜けだったことだろう。

 恥ずかしさと絶望で、視界が歪んだ。

「いや、それは、その…」

 でも、必死に踏みとどまる。

「そんなわけないじゃないですか! 電車に飛び込んでみろ! 一体どれだけの人に迷惑が掛かるのか! ボクはそんな傍若無人じゃない!」

「だから、山に入るの?」

「ぎくーっ!」

 これには脱力し、転げるしかなかった。

「なんでわかるんですか!」

「私は大家よ? 住人が考えていることなんて手に取るようにわかるわ」

 大家さんは腰に手を当てて、えっへん! とふんぞり返って言った。

「一体何日アオくんの面倒を見ていると思うの? あなたが苦しんでいるのなんて、声聞くだけでわかるわ」

「く…」

 これには感服せざるを得ない。

「あと、『×××!』とか、『××××!』って筆舌に尽くしがたい、情欲を煽る悲鳴も、アオくんの部屋から聴こえて…」

「そこは聴かないでいただきたい!」

 孤独を拗らせて、借りたり買ったりしたDVDで自分を慰めていたことがバレていたということに、全身が焼けるように熱くなった。

 大家さんがふんぞり返る。

「そう言うのばっかり見てると、脳が委縮するって聞くよ? もう少しソフトなやつにしなさい。ダメよ…、『××××』なんてハードなDVD買っちゃ」

「何で知ってるんですか!」

「アオくんの部屋に掃除に入ったから」

「おかんみたいなことをするな!」

 ああ、もう…。

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