第二章『ある交通事故の話』

第7話

 とりあえず、ボクは部屋に戻った。

 扉を開けて仰天する。部屋には何もないではないか。大量の本が収納されていたはずの本棚も、大学の勉強には欠かせない机も、リサイクルショップで買ったぼろぼろのパイプ椅子だって無い。冷蔵庫はあったのだが、コンセントが抜けて、当然中の食糧は消えていた。

 畜生! 誰だ! こんなことをしやがったのは!

「ボクだな」

 などと独り言を呟きながら、ボクは背負っていたリュックと、貰ってきた紙袋を放った。紙袋は倒れて、中の蜜柑が転げ出る。

 蜜柑を紙袋の中に戻している間も、ボクは、生まれてから今日までに起こった嫌なことを一つ一つ思い出していき、その虚しさと悔しさから、顔を顰めて頭を掻きむしった。

 ガリガリガリガリ…。

「いてっ!」

 見ると、指に髪の毛が絡みついている。

「ああ、もう」

 とりあえず、お風呂に入ろう。身体を温めればきっと、この悶々とした気持ちも収まることだろう。

 …とは言え、うちには風呂がない。身体を洗い、温めようと思えば、すぐ近くの銭湯に行かなければならなかった。

「………」

 腕時計を確認する。十時ちょうど。残り一時間で閉店。三分で歩いて行って、二分で服を脱いで、残り五十分で間に合うかな? あそこの番台のジジイ、閉店時間が近づくと、中を覗いてくるから嫌なんだよなあ…。見られて恥ずかしい体はしていないとはいえ、気分をリセットするための風呂なのに、また気分が悪くなる。

「まあ…」

 四の五の言っていても仕方がないか。

 ボクはリュックを開けると、中からシャンプー、リンス、ボディーソープ、洗顔、タオルの順に取り出し、折り畳みナップサックを広げて入れた。下着は…まあいいか、出る前に着替えたばかりだからな。

 リュックのファスナーを閉めようとした時だった。

「………」

 中に入っていたあるノートが、ボクの目に留まる。

 なんとなく掴んで、引っ張り出した。

 開く。


『死ぬまでにやりたいことリスト』


 最初のページには、そう書いていた。

「……………」

 「一日中眠る」「酒を飲んで泥酔する」「同窓会に行く」「旅行に行く…」「美味しいご飯を食べにいく」「東京の遊園地に行く」「友達を作る」「趣味を見つける」「本を買いあさって読みまくる」「好きなバンドを見つける」「温泉に行く」「二郎系ラーメンを食べる」「キャンプをする」「車の免許を取る」…等々。

 その名の通り、そのページには、ボクが死ぬまでにやりたいことが書き綴られていた。まるで重病の少女が書きそうなことだが、そのうちいくつ達成できたのか? と言えば、三つほどである。ほとんどが未達成だった。

「そうだよな…」

 ボクはそう洩らして、ノートをリュックに詰め込んだ。

「結局、ボクの人生なんて、こんなもんなんだ」

 何も達成できないから死ぬ。

 スマホを右ポケットに。財布を左ポケットに入れると、ボクは外に出た。途端に、冷えた風が吹きつけて、ボクの体温を掻っ攫っていく。雨降りを急ぐように肩を竦めると、足音なんて気にしないで階段を駆け下りた。

 管理人室には、まだ明かりが点いていた。テレビの音も聴こえる。汗蔵さんと、長谷川さんの笑い声も。

 その前を通り過ぎると、ボクは道を歩き始めよう…としたのだが、立ち止まった。

「……………」

 アパートの前に、黒いバンが停まっていたのだ。本当なら無視して通り過ぎるところだが、運転席の窓にはスモークが張られていて、フロントガラス越しに、サングラスを掛けたがたいのいい男の顔が見えた。

 明らかに不穏な雰囲気を漂わせた男に、ボクは一瞬身震いをする。

 汗蔵さんの借金取りかな?

 そんなことを思いながら、バンの横を通り過ぎた。

 道を歩き始める。もう町は夢に片足を突っ込んでいて、歩いていても誰ともすれ違わなかった。ボクのサンダルがアスファルトを踏みしめる、ひたひたという音が響くだけだ。

 時々、強い風が吹く。その度にボクの髪の毛が舞い上がり、視界を遮った。鬱陶しくて、指で掻き上げる。そのついでに、苛立ちを発散するかのように、頭皮をガリガリと掻いた。

 思い出すのは、先ほどの告白。

「ったく、大家さんめ、ボクの純情を踏みにじって。おかげでもっと死にたくなった」

 いや、純情…ではないか…と思う。

 あれはただの性欲。大家さんの言う通り、優しくされたからコロッと落ちただけだ。人を好きになる理由ならこれで十分だが、人と交際しようとすればこうはいかない。もっと現実的な理由が必要だ。例えば、「週二回はデートに行きたい」とか、「一緒に歩くときは手を繋ぎたい」だとか、「毎日一緒にいても決して嫌な顔をしない」だとか、そういう、交際に足る理由。「自分はあなたのために、このくらいの時間を捧げることができます」っていう条件を提示することが必要だ。

 それを想像していないのに、「好きです」だの「付き合いたい」だの口走るなんて、自分が性欲に突き動かされた単細胞だってことを実感して嫌になる。

 でもまあ、悪い事ではないとは思うよ。望ましくないだけで。実際この世界で子孫を残している人ら全員が、そんなくどいことを考えて生殖行動に望んでいるか? と聞かれれば、それはきっと否なのだから。恋とは衝動。直感で子孫を残している奴だって多々いる。

「いや、やっぱり嫌だね…」

 一人で思考を巡らせ、一人で言葉を発した。

 やっぱり、告白も交際も、よく考えてするものだよ。ボクは絶対に嫌だ、人と触れ合う時に、そこに「性欲」が混じるのが。難儀なものだよ。人を好きになると、必ず延長線にそいつが存在する。

「ほんと、なんでかね…」

 考えすぎたのがいけなかった。

 信号機の無い交差点に差し掛かった時、ボクは左右を見ずに、右に曲がろうとしていた。しかも、俯いていて、自分の爪先を見ていた。

 その時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る