2話 遭遇+1

 温かい、と思った。森に絶えず吹いていた、あの感触の悪い風じゃなくて。もっと優しい、頭を撫でられるような温い風。


「母さん……」

「誰が母さんだ、気色悪い」


 バッと目を開けた。


 板張りの天井が見えた。体が横になっている。青臭い香りが鼻をついて、顔をしかめた。手をついて、上体を起こす。ふかふかしてる。ソファの上だ。

 視線の先に窓があって、その外に森が見えた。


「少年よ、好きな数字はいくつだ」


 黒い──黒いというより、違う、なんというか光をまったく反射しない、そういう黒さの──ケープを羽織った女の人が、鍋に突っ立てた木の棒をくるくる回しながら言った。薄着のシャツからはヘソが出てるし、やたら短いズボンから伸びた足もほとんど素肌で寒そうな格好をしていた。床につきそうなくらい長い髪は、不思議なことに銀色にきらめいていて、砂糖をまぶしたみたいだった。


 コン、と棒が鍋の底を打つ。


「数字はわからないか?」

「あ、いやえっと……じゃあ、八です」

「ふぅん、教育は受けてるのか」


 女の人は呟くと、後ろの棚から尖った草を八本取り出して、鍋にぽいっと放り込んだ。鍋の中の液体はとろみがあって、不気味な藍色をしていた。

 彼女は機嫌良さげに鼻歌なんか歌いながら、液体をくるくる混ぜる。じゃぷ、とお玉で液体を一掬いすると、それを木の椀に注いだ。


 で、オレに差し出した。


「飲め」

「嫌です」


 腕を掴まれた。


「飲めったら飲め。この私が丹精込めて作った呪……ハッピースープだぞ」

「ハッピーじゃない単語が聞こえた!」


 飲めや飲まない。押し問答は続き、しかし大人の力には勝てず、無理やり藍色スープを口に流し込まれた。吐いた。この世の悪意を煮詰めて濾して純化したような苦味のパレードが高速で口内を駆け抜けていった。


「ちっ、失敗か」

「毒味もしてないもん人に食わせるなぁぁあ……」

「ルールを破ったなら、それ相応のペナルティを受けるのは当然だろ」


 どきりとした。


「村の人間なら聞いていたはずだ。『西の森には入るな』……口承が途絶えたか?」


 聞いていた。でも嘘だと思ってた。三百年も生きてる人間なんているはずがないし。


「どうなんだ?」


 ズイッと顔を寄せて聞かれる。どうしよう。どう答えれば良いだろう。毒スープ飲ませてくる人だし、下手に答えると殺されるかもしれない。

 オレが答えに窮していると、薄着の女は唇に指を当てた。


「一日魔法」


 ふう、と息を吹き出す。すると、指の間から藍色の煙がゆらりと現れ、オレの顔にかかった。煙は木の香りがした。


「話は聞いてたのか?」


 やっぱ変だ、この人。嘘つこう。


「聞いてた」


 え?


「なんだ、やっぱり聞いてるんじゃないか。クソガキめ」

「な、なんで今……オレ、言うつもりじゃ」

「『言わせた』んだよ、私が。一日使ったけどな」


 目の前の女を見上げる。やたら薄着の、そのくせケープをまとった寒いんだか暑いんだかわからない女。人の住まない森に住む女が使う、妙な力。


「──魔法」

「ククク」


 彼女は不敵な笑みを浮かべた。


「魔女を見るのは初めてかね、少年」


 魔女。命を食らう、魔女。

 おとぎ話じゃなかった。伝説じゃなかった。いたんだ。本当に、いた!


「魔女様ー、あっ」


 扉が開いて、森で会った茶髪の女の子が入ってきた。


「おー、おかえりウェナ。お前が連れてきたクソガキ起きたぞ」


 ウェナと呼ばれた子は腕にかけたカゴをテーブルに置いて、オレの前にとてとて走ってきた。そしてバッと頭を下げる。


「こんにちは、ウェナです! 魔女様の弟子です!」


 で、キラキラした瞳でオレを見つめる。な、なんかやりづらい。

 でも名乗ってもらったし、こちらも名乗るのがマナーだろう。


「オレ……シウ。森の外の、村に住んでる」


 ウェナはなんだかワクワクした様子で足をトントン鳴らし、「よろしくね!」とオレの手を取りブンブン振った。なんだかやたらに距離が近い。

 後方で腕を組んだ魔女はうむうむと頷く。


「歳の近い友人が珍しいんだ。仲良くしなかったらコロス」

「オレに選択権ないじゃん……」

「ねーよ。自業自得だろ、ルール破って入ってきたんだから。ウェナみたいなカワイイ子とお近づきになれてお前も嬉しいだろ。嬉しいよな。嬉しいって言えクソガキ」

「ウェナ、本当にこの人の弟子なの……? やめた方がいいよ、絶対に修行と称して理不尽なことしてくるよ」

「失礼だな。カワイイ弟子にそんなことするか。な、ウェナ」

「あはは」

「はははは、見ろこの愛想笑い。最高。キュート」


 思うところはあるらしい。そりゃそうだ、いきなり人に呪いのスープ飲ませてくる人だぞ。そんな人と森の中二人で暮らしているとしたら……


「毒が!」


 ウェナが言ってた。森の空気は人間にとって毒だって! じゃあヤバい! 死ぬ! 死ぬ!

 ……あれ、でも全然苦しくない。


「毒っていうのは、正確に言えば私の魔力だ」


 魔女は鍋の火にふっと息を吹きかける。ごうごうと燃え盛っていた火は瞬く間に消えた。


「私の魔力が染みついた空気が滞留していて、いるだけで命を吸われる。だから人間にとっては毒なんだ」

「今は……」

「今は薬を飲ませたから平気だ。人間の魔力抵抗を増加する、私の自信作だ」

「ま、まさかさっきの藍色のスープが……!?」

「あれはただの試験品だ」

「実験台だったチクショウ!」飲まされ損!

「まぁ、ウェナに感謝することだな。倒れたままだったら無限に命を吸われ続けて、今頃お前の寿命はすっからかんだ」


 縁起でもない。ていうか怖っ。怖いよ命の魔女。名前に偽りなしだ。

 ということは、ウェナに救われたことは確からしい。とりあえず「ありがとう」と告げると、ウェナは元気よくピースを掲げた。


「ウェナもお薬飲んでるよ!」


 なるほど、だから森の中で山菜採りに勤しむこともできる。……じゃあ、ウェナは人間なんだ。魔女じゃなく。いや、弟子って言ってた。ということは、修行中なのかな。


「薬の効果はだいたい五時間だ。切れる前に帰りな」


 ぶっきらぼうに言って、魔女は草や謎の肉塊なんかが積まれた方に歩いていく。また、鍋で何か作る気なのだろう。


「待って!」


 オレは急いでそれを引き止めた。魔女が足を止める。

 黒い瞳がオレを睨んだ。ぞくりと体が震える。つい直前まで話していた雰囲気とまるで違う。──三百年を生きる人間の黒い波動が顔を打った。この人は魔女。命の魔女。

 生物としての格が違う。

 そう──直感させられた。


 でも、


 だからこそ、


 だからこそ、言わなきゃいけないんだ。魔女だからこそ、人間を越えた存在だからこそ。そういうものにしか、もう頼れないんだ。


 オレは声を絞り出した。


「母さんを助けて」


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