ワンナイトコール

貧乏神の右手

ワンナイトコール

 

 朝、目覚ましの音で目を覚ます。名前も知らない鳥の鳴き声とか、近所のおじさんが車庫のシャッターを開ける音とか、そういうものは一切気にならないのに、目覚ましのアラームだけは頭によく響いた。

 もう起床予定の時刻からは幾分か過ぎている。数回アラームを設定しているが、起き上がるのはいつも最後の時刻だ。頭痛がひどい。

 

 気怠い体を起こして寝室から一階へ。洗面所で顔を洗い、居間に向かう。

 ソファにゆったりと腰を下ろす。前までは朝は余裕を持って起きていたので、ばたばたと小学生のように家中を駆け回ることはなかった。ただ最近は余裕のない日が多い。疲れが溜まっているのかもしれない。


 50インチのテレビが視界に程よく映る。男は、いつも見ている地方の情報番組を点けた。テレビは作業をしながら見れるし、どこも時間を表示してくれているのでありがたい。居間の壁掛け時計はいつからか止まったままだった。

 

『今日のテーマはこちら! 夢です! 将来の夢、寝ているときに見る夢、様々ありますが、今日皆さんに紹介したいのは――』


 内容はさほど気にも留めず、コーヒーを淹れることにした。これが無いと朝は完全に目が覚めないのだ。

 食パンをオーブントースターに乗せる間、テーブルの上を片付けていく。昨晩――どころか数日分のゴミが広がっている。これじゃあまともに食事が出来ないだろう。


 それから、用意したものをダイニングテーブルに並べた。といっても、トーストにバターを塗ったものとコーヒーだけの質素な食卓だが。


「いただきます」


 誰に向けて言っているのやら。その小さな呟きは、宙ぶらりんになって天井の方へと消えていった。

 

 味なんてしない。

 朝食後、男は支度をして家を出た。今日も会社に行かなければならないのだ。


「そういや、もうそろそろ一年経つんじゃないか」

「よく覚えてますね」

「だってほら、あのときめっちゃ忙しかっただろ。そんでお前の件も重なってよ、忘れたくても忘れらんないよ」


 上司の言うことはもっともだ。一年前、あの事故があった翌日、会社はトラブルに遭って騒然としていた。パワハラだなんだと言って新卒の社員が出社してこなかったのだ。それだけならよかったのだが、重大な会議を控えていたこともあり、いらついた社員も多く現場はピりついていた。


「家族のことはもう慣れたか?」

「……ええ、まあ。一年も経ってますから」


 あの事故、家族が事故に遭い亡くなってしまった事故。


「そうだよな。ていうかお前、その次の日には普通にバリバリ働いてたしな」


 葬式なども含めて色々としなければならない手続きはあったが、男はそれらを親族に任せて仕事に出ていた。


「ま、休まれても困るか。今後も頑張ってくれよ。お前には期待してるんだ」

「……はあ」


 肩を強めに叩かれて、


「あ、それと、例の試作品、忘れず試してくれよ」

「本当に俺でいいんですか」

「なに言ってんだ。少なくとも社内じゃお前以上の適任はいねーよ」


 それだけ言って上司は笑うこともなく仕事場に戻っていった。


 男は会社からそれなりに期待されていた。課長から昇進する話もあるらしいし、なにより以前よりも言葉にして「期待している」と伝えられることが増えたのだ。役職が上がってきたおかげかもしれない。


 仕事にやりがいは感じない。けれど、生きていくためには働かなければならない。必死で働けば、自ずと成果が出てくるものだ。現にそれは昇格したことによって証明されている。


「帰るか」


 時間ぎりぎりまで残って残業をする。同期から飲みに誘われたが、疲れていたので適当に買い物だけして帰ることにした。

 

 前よりも偉くなったけれど、前よりも残業が増えた気がする。そのため、なかなか飲みに行く暇が作れない。上司に誘われても仕事が残っているためにそう易々と「行きます」なんて言えないのだ。もとより、特段参加への意思があるわけでもないが。


 不参加によって結果的に貯金が増えているものの、今は使い道がない。


 掃除の行き届いていない、埃っぽくだだっ広いリビングを見てぼんやり思う。


 男には家族がいた。活発で明るい一つ年下の妻と、妻に似て元気に育った6歳の娘だ。

 決して裕福ではなかったが幸せだった。ローンを組んで貯金を切り盛りし、なんとか新居を建てることが出来たのだ。娘は小学生になり、毎日元気に登校していた。あれだけ妻にぴったりとくっついていた子が、学校では友達の手を引いて遊んでいるという。


 そんな娘の話を、妻と話す時間があった。幸せだった。

 

 ただ、この思い出の手触りが薄れていく感覚があった。晴れやかな笑顔も、手を繋いだときに感じた熱も、「いってらっしゃい」の声も、時間とともに消えていってしまう。

 それは、面白かった映画を思い出せなくなるような。昔やっていたスポーツの腕が鈍るような。大切なもののはずだったのに、体から抜け落ちてしまう感覚。

 

 映画は、もう一度観れば思い出すだろう。されど、彼女たちはもうこの世には居ない。


「声だけでも聞きてえなあ」


 スマホの写真フォルダからいくつか撮ってあった動画を流す。


『みて! 動画なんていいから!』


 娘が初めて自分の力だけで歩いたときの動画。むっちりとして、それでいて弱々しく不安定な両足で、全身を震わせながら妻の元へと歩き出す。一歩、また一歩と踏みしめる。


『あとで見返したいから撮らせてよ。ちゃんと肉眼でも見てるからさ』


 手振れがひどく、画面は二人の顔でいっぱいだった。


『あとちょっと……』


 妻が大きく手を開いて、娘はそこに吸い込まれるように。


『よくがんばった。えらいぞ』


 妻の優しい声が聞こえてくる。映像は床ばかり映っていて上手く撮れていなかった。


 たまに、心が深く沈んでしまう日がある。疲れたからってお酒を呑むのがいけないんだ。


「でもやっぱり」


 動画が偽物というわけではないけれど。

 男は通話アプリを開いた。妻とのトーク履歴はあの日を最後に止まっている。


『いまから2人でかえるね!』


 娘の誕生日当日は仕事があったので、その数日前にパーティをしようと計画していた。男も珍しく早上がりで、妻も朝から買い物に出掛けて張り切っていたそうだ。

 娘を小学校に迎えにいった、その帰りのことだった。


 通話ボタンを押したって誰も出ないことはわかっている。それでも。


 男は、妻との通話を開始した。すると。

 呼び出し音が鳴った。一瞬驚いたが、妻のスマホはまだ家にあるので呼び出し音が鳴るのは当たり前だ。


 ただ、この広いリビングに無機質に響いていく。


 こんなことをしたって電話が繋がるわけない。


『応答なし』


 画面には、無慈悲にもそう表示された。


「ああそうだ。俺がおかしいだけだ」


 繋がるわけがない。だって彼女は、死んでしまったのだから。

 とんだ茶番だ。すっかり酔いも醒めてきた。


 歯を磨くのも面倒になって、テーブルを片付けることもせずに男はさっさと電気を消して寝室に入った。

 二人で寝るにはちょうどよく、子どもと寝るにはやや狭いダブルベッド。買ってからもう少し大きいものをと後悔したものの、妻も娘も一度だって嫌な顔をしなかった。

 目覚ましをセットして、布団を深く被った。0時を回っている。考え事で頭がいっぱいになる。いい年して不安感に心を蝕まれていた。


「もう寝よう。明日も早い」


 男は目を閉じた。意識が霞がかっていく。眠りは浅く、目を瞑って寝ている感覚はあるのに、まだ眠ることが出来ない。暑い夏の日のような、妙な息苦しさがあった。


 そんなとき、どこか遠くから音がした。体が跳ねる。聞き間違いか、あるいは。


 自分のスマホからではない。なら、一階か。男は、おそるおそる階段を下りた。

 

 プルルルル、と何度も続けて鳴る。次第に音に近づいていた。電話機だ。間違いない。間違いなく電話がかかってきた。こんな時間に誰か。


『090‐×××‐×××』

 

「この番号は……」


 見覚えがある。どころか、知っている番号。

 少しの怯え。それと、高揚感。間違い電話だろうか。でも、そんな偶然があるんだろうか。


 男は受話器を取った。そして、耳を当てた。


「もしもし───」

「しりとり!」

「え」

「し、り、と、り!」


 女の声だ。


「えっと、りんご」

「ごりら!」

「らっぱ」

「ぱん……パイナップル!」

「ルーレット」

「とけい」


 一体なにをしているんだろう。男は訳も分からないまま「しりとり」をしていた。こんな夜中なのに明るい声で、はきはきと返してくる。


「インド!」

「ドイツ」

「つがるかいきょう!」

「ウグイス」

「んーすずめ?」

「メス」

「……ストーブ!」

「ブース」

「あ、いま私のことブスって言った!」

「ブースです。ほら次「す」だよ」

「冗談だし。あいかわらず固いなー」


 間違いない。この声の主は……。

 でもどうして。そんなことを考える暇もなく、女はしりとりを続ける。


「スズメバチかな」

「ちくわ」

「ワニワニパニック! 昔さ、あの子がゲームセンターでやりたいって言うからやったじゃん? でもぜんぜんだめで、あなたが代わりにやったらパパ怖いって引かれてたよね。あの子半泣きだったよ」

「いいとこ見せようと思って力入りすぎたんだ。今やったら次の日には筋肉痛になるかもな」

「そんな年でもないでしょうに」


 女が笑って、男もそれに釣られて笑った。


「ほら次言うぞ。クライマックス」

「えーまた『す』じゃん。んー、スコットランドとか?」

「毒ガス」

「……すべり台!」

「椅子」

「するめ~」

「メントス」

「あーもうやだ! ずるすぎ!」


 こんなふうに「しりとり」をしていると思い出す。まだ結婚も同棲もする前、夜中に会話に困ったときは彼女がしりとりをしようと提案してきたものだ。


「それで、思いついたか」

「待って。もうちょっと待って」


 この声、話し方、それらを内包した雰囲気。電話の相手は、好きだった――いや、今でも変わらず大好きなその人そのものだ。


 電話越しにも悩んでいるのが伝わってくる。きっと悔しさを滲ませながらも口元だけは笑っているのだろう。顔が見たい。そう思ってしまう。


「いつもさ、こうやって同じ文字ばかり攻めてきたよね」

「そうだったか」

「そうだよ。だから早く終わらせたいのかなって思ってた。わたしはずっと遊んでたかったから余計にさ」


 知らなかった。


「そんなつもりはなかった。ごめん」

「いいの全然。それがあなただし」


 それに、と女は嬉々として話す。


「あなたがあの子にね、しりとりをしようと言ってくれたの、嬉しかったんだあ」

「言葉を覚えるのにちょうどいいかなと思ったんだ」

「素直じゃないなあ」

「もうそういう年でもないからね」

「出会った頃から仏頂面で関わりづらかったし、素直じゃありませんでしたー」


 そう言われては否定出来ないのも事実。


「一緒に寝るときは子どもみたいに甘えるくせにさ」

「それを言うならきみだって」

「わたしはいつも甘えてたからいいし」

「はいはい負けだ負けだ。それで、しりとりの続きはもういいのか」


 通話時間はどれくらいになっただろう。長くなり過ぎたらかなりの料金を取られるだろうか。いや、そんなことはどうだっていい。男は今、幸せだった。


「聞いてるか?」


 声がない。音もしない。と思えば、突然物音が響く。


「ごめん。もういかなくちゃ」

「え、どうして急に」

「時間がないの。ごめん」


 意味がわからない。


「それじゃあ、ばいばい」

「待って。待ってくれ」


 男は電話が切れないように必死で繋ぎとめた。


「俺はきみがいなきゃ生きていけない。夜眠れないんだ。朝も頭痛が酷いんだ。そんな感覚のせいで、きみを忘れてしまいそうなことが、なによりも怖いんだ。なにを生きがいにして生きていけばいいのか、わからないんだ」


 突然現れて、突然消えていく彼女に、一年前の事故の日を重ねてしまう。必死に取り繕って、仕事に明け暮れた。あの日々を思い出す。楽しかった思い出と同じくらい、家族を失った喪失感が抜け落ちなかった。


「大丈夫。大丈夫だよ。なにも心配いらないよ。明日からも毎日、いつものように朝起きてご飯食べて会社に行けるよ。

 不安になったらまたわたしが話し相手になるから。しりとりでもして長い夜の暇を潰そうよ」


 大丈夫、大丈夫、と子どもをあやすように何度も繰り返される。


「だから安心して眠ってね」


 消え行くように彼女の声が溶けていく。


「おやすみ、――くん」


 涙が頬を伝っていた。

 

 ※

 

 

「昨晩はどうだった」

「……いい夢が見られたと思います」

「そうか。引き続き頼むぞ。お前みたいな境遇のやつはなかなかいないんだ。期待してる」

 

 あれがもしも夢でなく現実になるんだとしたら。

 男は、今日もバリバリと働く。生きがいがあるとしたら、今はそれになるのだろう。

 

「次は子どものバージョンも試してみたいな」


 今日まで生きてこられたのは、きっとこれのおかげだ。最愛の家族を亡くした痛みなど、最愛の家族以外で埋められるわけがないのだ。

 

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