1.2 剥がれる化けの皮。


「なあ。人って0歳からひらがなわかるようになるかな?」


「はあ?今うちらがひらがな勉強してるのに、0歳がわかるわけないやろ。」


至極真っ当な答えが、クラスメイトから返ってきた。


ひらがなを適当に指差して出来上がった文章にしては、まぐれというにはあまりに天文学的な奇跡に近い。

今日は授業中ずっとあの凛香の行動が頭から離れない。

帰ってから、もう一度確かめる必要があるな…。


「月吉!今日とんび公園で野球やるけど来るか?」


「ごめん!今日用事あるんだ!」


僕はランドセルを背負い、クラスメイトに詫びを入れて、帰路へ走った。




「ただいまー!」


「月吉か?おかえりー。庭の掃除手伝ってくれんか?」


おばあちゃんの声が聞こえるが、僕は真っ先にランドセルを右手に持ち、和室で寝転んでいる凛香を左手に掻っ攫う。


「ごめん。今ちょっと忙しい!」


そのまま僕は自分の部屋へと走って向かった。

そして机の上にひらがな帳を開き、凛香をそばに置いた。


「凛香、何か言いたいことは無い?」


宇宙人とでも交流しているのか僕は?

急に自分がしていることのバカバカしさに気づき、恥ずかしさが込み上がってくる。

だけど、気になってしまう。あの朝のことを。


凛香はパチクリとした瞳で僕を見つめた後、ゆっくりひらがな帳に視線を向けた。



そしてまた、凛香は指を前に出す。


「来たっ!」



『だ』



最初に指した文字は『だ』だった。


「『だ』!?『だ』がなんだ?凛香!」



『ま』


『れ』




「え…?」




『き』


『や』


『す』


『く』


『ふ』


『れ』


『る』


『な』



ゾッ。


開けた窓から、生暖かい風がヒューッと部屋に入り込む。

額から冷や汗か、脂汗かが流れ落ちる音さえ聞こえる程の緊張が部屋中に走る。

思わず生唾をごくんと飲んだ。


「お、おばあちゃーーーん!!」


僕は、この場面において、人を呼ぶことしか頭に浮かばなかった。


凛香の目が、鋭く僕の事を刺しているような気がする。


してはいけないことをしたような、触れてはいけない領域に足を踏み込んでしまったような、そんな不安と恐怖が僕の心を脅かし始める。


僕が立ち上がろうとした瞬間、凛香が僕の体によじ登り始めた。


「凛香っ!危ない!」


凛香を受け止め、仰け反った瞬間、凛香は僕の口に左手の人差し指を置いた。

そして、右手の人差し指を自身の口の前に立てた。


「どうしたん?月吉ー?」


おばあちゃんが僕の部屋まで向かってくる足音が聞こえるが、目の前の凛香の行動に僕の体は蛇に睨まれた蛙のように凍りついて動けない。


「ダアダアー。バァブ。」


凛香は、生え揃っていない歯が見えるくらいに口を開き、喃語を発した。

そして、口を閉じ、両方の口角が上がった。



その時だった。



ガラガラ。


僕の部屋の引き戸が音を立て、開いた。


「月吉、返事くらいせな!…っ!!」



僕は大きく木製バットをおばあちゃんに向かって振りかざしていた。



「何してんの!!月吉っ!!」


バットを渾身の力で握り、振り下ろそうとした瞬間、



バッ!!



「きゃっ!!何!?」


いつの間にか狸が縁側から入ってきていて、僕の部屋に侵入していた。物凄い速さで部屋中を駆け巡り、荒らしていく。


「狸か!?あんたのおるとこはここやないよ!あっちいきな!」


おばあちゃんが手で狸を追い払うフリをすると、狸はしばらく部屋を荒らした後に、嵐のように去っていった。


「全く…。こないだの狸やな。どっかで飯でも食わしてもろて味を占めたんやろか?それにしても月吉…。」


「え?」


「いくら狸が入ってきても、バット振り回すやつがおるかい。バットに当ててええのは野球の球だけや!わかったな!」


いつになく真面目なおばあちゃんの顔を見て、僕はハッと我に返る。


「あれ…?僕何してたっけ…?」


「我忘れる程、振り回すか…?狸やで…。」


おばあちゃんは僕の部屋の引き戸を締め、スリッパを履き、パツパツと音を立てながらキッチンの方へ去っていった。


いつの間にか凛香の姿も無い。


……。


何が起きたんだ…?


僕はさっき、とんでもないことをやらかしかねなかったか…?


荒らされた部屋と、自分が握っていたバットを見て、呆然とする。


バットから手を離すと、ビリビリと痺れがやってきた。

手のひらは真っ赤になり、テーピングの跡がくっきりとついていた。


じいちゃんの芝刈り機の音や、セミの鳴き声、風鈴の音色等が僕の耳をしばらく回る。


僕は、おばあちゃんの頭に向けて、バットを振りかざしていた。

あのまま振り下ろしていれば、おばあちゃんの頭は…。


震える両の手を広げ、じっと見つめながら思った。




昨日から夢でも見てるんか僕は…?




トゥルルルルルル…!!




玄関廊下から突然、黒電話の音が鳴り響く。


「月吉!ちょっと出てくれない?今里芋剥いとって手が離せんのよ。」


僕は呆然としながら引き戸を引き、廊下まで向かった。


もっかい、野球の誘い来ないかな…?

この電話に出たら、とんび公園に行こう。

一回野球して、何もかも忘れよう。

そう思い、受話器に耳を引っ付けた。








「ダアダアー。バァブ。」








「うわああああっっっ!!」


「さっきから何をしとるんか!月吉!!」


おばあちゃんの怒鳴り声が聞こえる。

でも今はそれどころじゃない!


「おばあちゃん!!凛香どこ!?ちゃんと見てる??」


「見とる見とるよ。ちゃんとそこでテレビ見とるやないかほら。」


おばあちゃんは顎でクイッと指す。

その方向には僕らを背にしてテレビの前で寝っ転がっている凛香がいた。


「凛香はあんな落ち着いとるのに、全然落ち着きないなあんた!ちょい、里芋の皮剥くん、手伝い。」


僕は直感的にあることに気がついた。

だけど、それは同時にあり得ないことでもあった。



僕は、凛香にからかわれているんじゃないか?



何かしらの方法で、僕の上を行く思考を用いて、何かの意図で、何かしらの手口で、僕はからかわれている気がする。


「おばあちゃん、手伝うよ。」


「お、よしきた。そっちのザルの里芋を水で汚れ落として洗って、そしたらツルッと剥けるでな。」


僕は台の上により、おばあちゃんの手伝いを始めた。





この日から、僕は凛香の秘密を暴くことで、頭がいっぱいになった。









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