第26話

 間違っていてほしい、勘違いであってほしい。


 下駄箱には、それぞれ名前のシールが貼られている。

 私は五十音順に並んだ下駄箱の名前プレートを順番に確認していた。

 

 や。や。や。や。

 

 下駄箱の一番端のちょうど一番下は、山村だった。まだ話したことがない男子だ、小学校も違った。

 

 その上は、三浦だった。


「清佳ちゃん? どうしたの?」


 身体が冷たくなっていく。

 私は、ここにあるはずの名前を想像しながら口を開いた。


「…………実夕、山口千晶を、知ってる」


「え?」


 私は顔を上げて実夕を見た。

 実夕のことはよくわかっている。だから確信した、この子は嘘はつけないから。


「知らない、けど。清佳ちゃんの友達?」


 私の心はついに、底へと落ちた。

 絶望という言葉を現実に使うことになるとは思わなかった。私はこのとき本当に絶望というどん底に突き落とされてしまった。

 

 私は一目散にその場を後にして走り出した。

 後方で実夕が私の名前を呼んでいた。履き替えた上履きのままで、登校してくる生徒たちの流れを逆走する。校門で先生に止められたけれど、気にしなかった。確認しなくちゃいけない。


 残酷な結末という意味を。呪いとはなんなのかということを。


 息が切れて、脚にも疲労が蓄積していっていた。

 でも、私は目的の場所まで走る、走る、走る。

 

 それは母さんとついこの前、一緒に歩いた道だった。私はまだ悪夢の中にいるのだろうか。だとした覚めてほしい。こんなのはあんまりだ。だってこれは。

 

 激しく息を切らしながら、私は目的の場所まで辿り着いた。そこにはただ思った通りの光景が広がっていた。

 

 住宅街の一画にあった山口さんの家は、住宅同士に不自然に挟まれた空き地になっていた。赤い字で売り地と大きく書かれた看板は古く、最近のものではない。場所は合っている、間違えるはずがない。ここは山口家の豪邸があった場所だった。

 

 推測通りだったのに、私はまだ、頭の中で承諾のサインを出せなかった。


「お見事。お嬢ちゃんの勝ちだ」


 待っていたかのように、老婆が姿を現した。その手には作り物のような赤いリンゴを手にしていた。


「……どういう、こと? 山口さんは、どうなったの?」


「ひひっ、人を呪うなんて代物はタダでは出来ないよ。あの娘は交換条件を差し出すことが出来なかった。だから、呪いが跳ね返ったんだよ」


 老婆は愉悦に浸るような顔で笑いながら続けた。


「お嬢ちゃんの伝言はちゃんと伝えたよ。でも聞いていたかどうかはわからないね、死にたくない、死にたくないと泣き喚くだけだったからねぇ。お嬢ちゃんに比べたら実にみっともなかった」


 私は、老婆を睨み付けながら言った。


「山口さんが……差し出せなかったものって何?」


「気付いているんだろう?」


 震える身体を抑えるのに必死だった。ただの可能性だ、選択肢だ、私は自分の頭に浮かんでいたものに蓋をしていた。

 老婆はそんな私を見ながら答え合わせをした。


「呪いには種類があるんだ。ちょっと怪我をさせるものから命を奪うものまで。だけどそれ以上を求める最上級の呪いがある。その条件は至極簡単だ」

 

 そうだ、簡単だ。けれど何よりも残酷な条件だった。

 私は、言った。


「……呪う相手が、誰かに呪いを押しつけること」


 老婆は私にこれでもか顔を近づけて、ニタリと笑った。


「本来なら先払いの条件を、後払いにしたうえで呪う相手に委ねるんだ。代わりに呪いは強力になる、なんといっても失敗すれば、自分に呪いが降りかかるんだからね」


「……」


 そうだ、そもそも変だったんだ。

 人を呪うなら呪われていることをわざわざ教える必要はない。でもこの老婆は私の前に現れた。それは必要なことだったからだ。


 私が呪われていることを伝え、私が人に呪いを押しつけることが条件。


 なら、もしあの時実夕に栞を渡していたら、私は今ごろ。


「この呪いが行使されたのは何十年ぶりだった。けれど、お嬢ちゃん側が勝ったのは初めてのケースさ。みんな死にたくないからねぇ、誇っていいよ、たいした信念だ」


 老婆は口角を上げに上げて笑った。その口端は眼に届くのではないかというくらいの裂けぶりだった。

 

 唾を飲み込む。

 実夕は山口さんのことを知らなかった。あるはずの下駄箱の名前もなかった。転校したという可能性もあった、他のクラスにいるかもなんてもことも考えた。でも、家が丸ごと無くなっていたらその可能性は全て潰える。

 

 山口千晶という人間が、ごっそりと社会から消え去ったのだ。まるで初めからいなかったみたいに。なら両親はどうなったのだろう。その家族は。親戚は。


「家系全てが消えたよ。遡って遡って、あの娘の血縁はすべて無くなった」


 私の思考を読むように、老婆がいった。


「そんなこと、あり得ないっ。急に人がいなくなったら」


「混乱はないさ、世界に補整がかかるさまはいつ見ても美しいね。ひひひっ」


「誰も、覚えていないの? 山口さんのこと」


「私たち以外は。でもそれも時間の問題だ。お嬢ちゃんもすぐに忘れる」


「もし、私が実夕に栞を渡してたら……母さんも」


「消えてたよ、死んだ父親の存在もね。そういう呪いだったんだ、ちょっと嫌がらせをするくらいのものだったら自分の安い代償だけですんだのにねぇ。他人の選択を代償にする呪いを選ぶとは、無知で愚かで面白い子だったよ」


 ほんの短い付き合いだ、彼女との思い出なんてひとつなくて、嫌なことばっかりだった。そんな山口千晶という人の記憶が少しずつ、少しずつ、砂時計のようにパラパラと落ちて消えていくようにいくように感じた。


 こんな結末があっていいのか。

 こんなの、死んだ方がずっとましじゃないか。


「あんたのせいだ」


 私は苦し紛れにいった。


「あんたが呪いなんてもの、渡さなければっ!」


「手段を与えただけさ。数ある呪い全てを見せてそれぞれリスクも説明した。選んだのはあの子さ。もちろん、その責任を負うのもね。あの子はただ賭けに負けたんだよ」


「そんなのっ!」


 何かから逃げたいがために、私は目の前の得たいの知れない老婆を責めた。けれど、老婆はナイフを突き付けるように笑いながら言った。


「原因を作ったのは、お嬢ちゃんだろう?」


 時間が静止したような気がした。


 そうだ。わかっている。わかってるんだ。

 すべての原因の、発端は。


 老婆は私の顔を満足げに見ながらいった。


「良い人生を。朝宮清佳ちゃん」


 瞬きをした瞬間、老婆の姿は消えた。


 一人になり、私はもう一度空き地となった場所を見つめる。

 仕方なかった。私は実夕を助けるために、自分の信念を貫くために、見て見ぬ振りなんて出来なかった。

 後悔はない。後悔はない。後悔はない。


「……っ」

 

 私はこみ上げてきた胃液を吐き出した。立っていられずに両膝をつく。

 

 私は親友を、実夕を救った。もう世界の誰も知らなくても私はそれを知っている。

 だけど。山口さんは、ここまでの仕打ちを受けるほどの悪い人間だっただろうか。これを自己責任だと断じていいのだろうか。

 答えが見つからなかった。そしてその問いはすぐに問われることすら無くなってしまう。もう山口さんの顔が朧気になっていくのを自覚出来た。


「あああぁぁぁぁぁっっ!」


 誰にも届かない悲鳴を上げる。


 私は苦しまなければいけない。誰が良いとか悪いとかではない。これはもう私にしか出来ないことだった。


 記憶がある今しか、出来ないことだった。

 

 

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