第23話
家に着いて、引き戸を開けるも母屋の鍵はかかっていた。
そうだ、母さんはいないと言っていた。
今夜、呪われて死ぬならもう母さんとは会えないことになる。手を振って見送ってくれた母の姿が浮かんで涙が滲んだ。お別れなんてどう伝えたらいいかわからないけど、せめて顔は見たかったし見せたかった。
呪われて死ぬ私の顔はさぞかし、醜いものだろうから。
私はそのまま母屋に隣接する、アトリエへと向かった。
基本的に鍵は掛かっていないのでドアはすんなりと開いた。
父がほぼ毎日を過ごしたこの場所は、まるで時間が止まっているかのように幼い頃のままだ。私がよくここに足を運ぶのは、帰巣本能のようなものかもしれない。
キャンパスに向かう父の背中は眼を閉じればいつだって鮮明に思い浮かぶことが出来た。毎日来ていたのに父と話したことはほとんどない、でも一度だって出て行けと言われたことはなかった。
夜のアトリエは、昼間とは違ってどこか神秘的だった。窓から入る月明かりが室内を照らしていて、時代を巻き戻したような雰囲気を漂わせていた。
いつも座る、脚が外れる細工がされた小椅子のそばを通り、私は部屋の片隅に体育座りをした。幼少の頃はいつもこうしてここに座って時間を過ごした。
そこで私は鞄から塾で使うペンとノートを出した。
本当はもっとちゃんとしたものに書きたかったけれど、仕方がない。
遺書を残そうと思いついた。死ぬまでの気を紛らわしたかっただけだった。でも、これは必要なことだろう。私のしたこと、責任について。信念について。そして呪いについて。
遺書なんていうと仰々しいから、手記なんて言葉がかっこいいかな。
これは、朝宮清佳の手記だ。
ただ錯乱してる女と思われそうだけど、母さんならきっと読み取ってくれると思った。 下敷きがあっても座りながら殴り書きのようになってしまった。でも充分だろう。私は大体を書き終えて、ペンとノートを放るように置いた。
静かな夜だった。でも、耳をすませば幼い頃の時間に戻れる。
鳥のさえずり、風の通り道、葉音は流れる川の音によく似ていた。遠くで犬が一声、何かを知らせるように吠えていた。混じるように木炭の擦れる音が聞こえた。
私は壁に背を預けてゆっくりと眼を閉じた。
バス停での地獄のような苦痛を思い出す。
ポケットの栞は燃えるような存在感を私に向けて放っているのがわかった。
これは私が起こした結果であり、私が背負わなければならない業だ。
それでも、怖いものは怖い。
早く楽になりたい。これから待っているのはどんな苦しみなのだろう。
「…………死にたくないな」
涙が頬を伝うのがわかった。ここでなら拭う必要もなかった。
刻限が迫っている確信があった。
もう少しだ、もう少しで、やってくる。
そこでふと人の気配を感じた。死神かと思ったのは一瞬だけだった。私はこの存在をよく知っていた。
眼を開けると、そこには父の後ろ姿があった。小さな椅子に座って大きなキャンパスに向かって絵を描いている。木炭の擦れる音が私の胸に懐古した。
「…………父さん?」
呼びかけるも振り向かない。私はここからこの人を呼んだことがあっただろうか。
「父さん。私、ちゃんと出来たよね? これで良かったんだよね」
自分の信念に従って。
私はそのおかげで、親友を助けることができたよ。
だから。だから私を、褒めてくれますか?
父が木炭を置いてゆっくりと振り向く。
同時に私の瞼が急激に重くなっていき、父の顔は見えなかった。このまま眼を閉じれば、私はもう二度とこの闇から抜け出すことが出来ない。カタンと音が聞こえた、それは小椅子の脚が外れた音だとわかった。意識が遠のいていくなか薄目に人の両足が見えた。
頭に僅かな重みと熱を感じるのがわかった。ごつごつしていて硬い男の人の掌だ。
最後の力を振り絞って、私は笑みを浮かべた。
なんか言ってよ、ほんと。
「不器用だね」
それが私の最後の言葉になった。
瞼が完全に落ちて視界は暗闇になる。
抵抗した意識は一瞬で葬り去られて、私という存在は何を思うことも許されず、深い闇へと消えていった。
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