第21話
「清佳ちゃん?」
名前を呼ばれるまで、自分が何をしているのかわかっていなかった。私はベンチに座って考えているようで何も考えていなかったのだろう。バスはとうに来ていたはずなのに、それすら覚えていなかった。
顔を上げると、心配そうにこちらを見ている実夕がいた。
咄嗟に、私は握っていた栞をポケットに突っ込んだ。
「お家行ったら、おばさんにもう出たって聞いて……間に合わないと思ったんだけど」
時計を見ると、すでに五時前だった。老婆と話していた時間をカウントしたとしても一時間いかないくらいここにただ座っていたことになる。
時間感覚がバカになっていた。体感ではほんの数分だったように感じる。
「今日は塾、お休みかなって思って。私もそうだったから」
それでも何も応えない私に、気まずさを覚えるよう実夕はおそるおそるといった動きで隣りに座った。私の隣りに座る気配が老婆と被り、冷や汗が滲んだ。
全部夢だったと済ませられればどれだけ良かっただろう。
私はポケットの中の栞をずっと握っていた。このまま無くなってしまえばいいのにと願うも栞は確かに手の中にある。捨ててやると思いつつも身体は相反して握り締めてしまう。しかし、実夕に栞を渡すという行為は簡単に出来る、そんな確信があった。
沈黙が続く。バス通りのくせに車の往来はほとんどなくて、演奏前の劇場のような雑音が一切なかった。その痛いくらいの静寂を最初に切り裂いたのは、私だった。
「ごめんね、実夕」
どう転んでもここでの会話が最後になる。私は本心を垂れ流すように言った。
「……実夕のためだったよ。実夕には笑っていてほしくて、だから私はあいつを殴った。実夕に嫌われる覚悟もしてたんだ。でもさ、本当のところわからないんだ。私は実夕を言い訳にして、自分が気に入らないことをぶつけただけだったんじゃないかって。実夕には助けてなんて言われてないのにさ。そう考えたら実夕に合わせる顔が見つからなくて、逃げてた。卑怯だね。はは」
私は力無く笑う。
自分で言った卑怯という言葉が身体に心に重くのしかかる。
卑怯でしかないんだ。私は実夕が望まないことを勝手にやった。
そして、自分が背負うべきその責任を、いま実夕に背負ってもらおうとなんて考えているのだから。
手放せない栞を握り締める。
死にたくない、苦しみたくないという気持ちが抑えられなかった。
私は、もっと自分が強いと思っていた。
皆が好きなものを好きにならず、皆とお揃いの物を欲しいと思ったことがない。孤高に生きていた父のように、それが誇らしいとすら思っていた。なのに。それなのに。
俯く私に、実夕は私の手を握りたかったのか手を寄せてくる。けれど、私はそちら側の手はポケットに入ったままで、手を出すことが出来なかった。実夕は代わりに私の袖を小さくつまんだ。
「……毎朝、下駄箱にない上履きを探すのが大変だった。似合わないって言われて、髪を切られて、仕方ないからそこに合わせて短くして……覚えてる? 長い方が可愛いって清佳ちゃんが言ってくれたんだよ。だから私」
私は覚えているというように頷く。
実夕の声は、とても細くて耳をすませていないと見失ってしまうようなほどだった。実夕は私のつまんだ裾を少しだけ引っ張る。
「中学受験ね、受けなかったの。公立がいいってお母さんにお願いした。私立に行けば山口さんたちとは離れられるって思ってた。それで終わりに出来るって」
「だったらなんで」
「だって、清佳ちゃんならそんな逃げるみたいな卑怯なことしないでしょ」
拳に力が入る。実夕の言葉がするりと身体の中に入って流れていく。
「ずっと、ずっと死にたいって思ってたんだ。なんでこんなに辛いんだろうって、苦しいんだろうって。でも……清佳ちゃんがいたから私、頑張れたんだよ」
「……私が?」
実夕を見ると、彼女はぽろぽろと涙を流していた。
「週に二回。塾で清佳ちゃんとここで待ち合わせしていろんなお話するのが楽しみだった。みんな山口さんが怖くて、私とお話してくれる人誰もいなかった。ううん、それ以前に本当に心から誰かと笑って話せる人はいなかった、清佳ちゃん以外は」
実夕は涙でグチャグチャの顔で精一杯の笑顔を向けてくれた。
「卑怯なことは許せないっていつも言ってたよね。私はそんな清佳ちゃんに憧れてたんだ。だから、自分の力で勝って中学では清佳ちゃんと仲良くしたいっていうのが私の目標だったの。でも……全然ダメダメで、結局、助けてもらっちゃった。私の、一番の友達に」
一番の友達。
一番の、友達。
「私からお礼いわないといけないのに、ごめんね。なんか急に色んなことが変わって戸惑っちゃってさ。堀越さんと仁科さんが私に謝ってくれて。いいのにね、逆の立場だったきっと私は何も出来なかったから。それでお弁当一緒に食べるようになって……清佳ちゃんが帰ってきたら、皆で一緒に遊ぼうって約束してるんだよ。だから」
そして実夕は震える声で、それでも力強く「ありがとう」と言ってくれた。
実夕の言葉が、想いが私の心にまとわりついていたものを、剥がれ落とすように流れていった。
気付くと私の頬には涙が流れていた。涙は弱い証のように思えて嫌いだったのに、抑えることが出来なかった。
きっとこの涙は、二つの意味を持つ。
友達に友達だと思ってもらえていた幸福感。
その友達を捨てようとしていた罪悪感。
ああ、そうだ。私は危うく後悔するところだった。私は私の信念に従った、後悔はなかったんだ。そしてそれは親友を助けていた。
言葉にされるのは大切だ。言葉にするのも大切だ。
「ありがとう、実夕」
私は栞から手を離して、実夕の手を握る。
間違っていない。私がしたことは間違っていない。
どうするべきなのか、もう答えは決まっていた。
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