第20話

 どうせ死ぬならと、私は老婆に尋ねた。


「……こんな栞一枚が呪いですか」


 老婆は即答し、顔を寄せてきた。


「呪いに形はない。それはただお嬢ちゃんにとって栞だっただけで、それが時計でも服でも、筆でもいい」


「破り捨てたら、どうなるんでしょうね」


「やってごらん」


 私は眼を離せない老婆を見つめながら、本を膝に置いて栞を破ろうとする。しかし、両手は栞を手にした先から動かなかった。何度、試みても最後の一手が動かない。


「お嬢ちゃんは呪われたんだ。それは単なるマーキングのようなものさね。決してお嬢ちゃんから離れない」


「……なるほど」


 全然納得は出来ないが、そういうことだと思うしかなかった。


「呪われた私は、どうなるんですか?」


「残酷な結末を迎えるよ、人にとって極めて残酷な」


「……死ぬって、ことですか」


 老婆は口が裂けるのではないかというくらい、口角を上げて笑った。

 呪われて死ぬ、か。バカみたいだと一笑したいのに出来ない。きっとこれは事実で受け入れなければならない運命なのだろう。私はつまるところ被害者Aというところか。

 運命、運命。心で何度唱えてもまるでリアルにならない言葉だった。

 告げられた死ですら自分の掌の上には乗らない、どこか遠くにあるもののように思えた。異国の地の戦場で子ども何百人が死んでいるとニュースを聞いているような、そんな感覚に近い。

 多分、呪われたなんて事実に想像力が及んでいないせいだろう。

 私が黙っていると、老婆は紫色の吐息が出ているような口を開いた。


「怖くないのかい? 呪われたんだよ? しかもお嬢ちゃんの場合、同級生にだ」


「……まぁそうですね」


 これでわかりやすい激痛とか痣とかがあれば信じようもあるし、ムカついたり泣いたり怖がったりも出来たかもしれない、でもそれ以上に、私は。


「自業自得かなって、思うところもありますから。自己責任ってやつですよ」


「でもお嬢ちゃんは、親友を助けたかったんだろう? いじめっ子を殴り飛ばしただけだ。呪われるほどのことをしたのかね」


 なんでも知ってんな、こいつ。

 私はいろんな意味で苦笑してみせた。


「私は自分の信念に従っただけです。その結果は甘んじて受けますよ」


「信念、信念か。ひっひっひっ」


 老婆は近所のどの家にも聞こえそうな声で笑った。それはもはや奇声に近いものだった。


「いいね。面白いよ、お嬢ちゃん。愉快にさせてもらったお礼に良いことを教えてあげよう」


「へぇ、呪いを解く方法とかだったりして」


「その通りさ」


 ハッとする私に老婆は続きを聞いて欲しそうな顔をしていた。

 なんだか酌だったので、私は違うことを聞いてやった。


「そんな方法教えたら、呪う側が呪う意味なくないですか?」


 呪いに公平も不公平もないと思うが、呪うなら一方的にするのが普通だろう。漫画でも小説でもよく見かけるものだ。


「そうかもしれないね。でも今回は特別さ」


 すると老婆は、長い人差し指を立てると私の心臓の方へ指先を向けた。


 なんだ、と思った瞬間だった。


 体裁も整えられないくらいの激痛が私の身体を襲った。痛みはまるで心臓から巡る血に棘がついたように全身に巡ってくるようだった。私は身体をベンチから投げ出すように地面に転がってうずくまった。自分の喉から出たとは思えない声が聞こえる。どんな体勢をとっても、どんなに悲鳴を上げても、激痛は治まる気配がなかった。


 いつまで続く、いつまで続くんだ。

 いやそれ以前に、本当に、終わるのか? 

 心がどす黒い闇に浸食していくのがわかる。こみ上げて来た気持ち悪さを堪えられず嘔吐すると、口から吐き出されたのは胃液でも吐瀉物でもなく、血だった。地面をブラシで塗れるような量の血を吐き出す。吐き切っても楽にならず激痛は続く。こんな中でも私の右手には黒い栞が握り締められてた。


「呪われた実感が持てたかい? お嬢ちゃん」


 その声は上から降ってきたのに、気付けば老婆の顔が目の前にあった。

 痛みは弱まりつつある。だが、その余韻は凄まじく奥歯を割るくらい噛み締めないと意識を保っていられないほどだった


「ずっと続くんだ。命が尽きるまでずっとね。命といってもお嬢ちゃんが思うものと

は少し違う。肉体が死ぬことだけが絶命ではないよ。ひひひ」


 口から血の混じったよだれが出ているのがわかる。涙も鼻水も出ていて私のいまの顔は短い人生でも一番の醜さだと思った。

 苦しい、痛い、苦しい。なるほど、これが呪いか。

 実にわかりやすい。おそらく対岸の火事のように思えていた私への当てつけだろう。私は老婆を殺すつもりで睨む。恨み節の一つでもぶつけてやりたいが声を出す余裕なんてなかった。

 老婆は愉快すな顔で顔をさらに寄せてくる。


「呪いを解く方法は一つだけだ。眼を閉じてごらん」

 

 なかなか言うことを聞かない私に、老婆はまた人差し指を立てて私の額に置いた。すると急激に瞼が重くなって両眼が閉じていく。逆らうなんて概念が消し去られたように私の視界は暗闇へとなった。老婆の声が告げられる。


「お嬢ちゃんの一番の親友は誰だい?」


 親友。そんなの、一人しかいなかった。


「その子に栞を渡すんだ。期限は今夜まで。それでお嬢ちゃんは呪いから解放されるよ」

 反射的に、軽くなった瞼を開くと私の身体はベンチに戻っていた。地面には私が吐き出した血もない。文庫本もひざに置いてあり、激痛でのたうち回る前に巻き戻ったようだった。それでも疼くような苦痛の余韻が身体に、いや精神に刻まれているのがわかった。

 隣りを向くと、老婆の姿はなかった。

 全ては夢だったのかと考えた瞬間、老婆の声が背後からかかった。


「お嬢ちゃんみたいな、真っ直ぐな子が曲がるところは見物だねぇ。楽しみにしているよ。ひひひひっ」


 振り向くことが出来ずにいると、老婆のおぞましい気配が消えた。身体は硬直してしまったかのように動かず、思考だけ目まぐるしく回っていた。

 

 栞を渡す。一番の友達に。

 

 それで呪いが解放され、私はもうあの地獄のような苦しみを味わうことはないのだ。誰もいないバス停のベンチで、私は身体が震えるのを必死で押さえつけていた。

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