第19話
いつもなら小走りしていた道のりも、足取りが重かった。
塾が五時で、待ち合わせは四時。
設定時間が早めなのは実夕とお喋りをするためだ。通い始めた当初、塾は億劫で嫌々行っていた覚えがある。でも、それは実夕と知り合うまでのほんの少しの間だけだった。塾で話すようになって一緒に帰るようになって、いつしか親友と呼べるようになっていた。
振り返ってみれば、私の思い出には実夕が隣りにいた。
想像する未来にも、実夕は変わらずそばにいた。
右隣から聞こえる物静かな声は囁いているようで、私は自然と耳をすましていた。それは鳥の鳴き声を聞いているようだったな、と今になって思う。
あの子はいつだって慈愛に溢れていた。決して誇張したものではない。私はとにかくいつも何かしらにささくれだっていたけど、実夕と話していると、苛立っていた全てのことがバカみたいに思えてくるのだった。
近くてよかったといつも思っていたバス停が今日は憎い。
もう着いてしまったけれど、そこには誰の姿もなかった。時間は四時をちょっと過ぎたあたりで、実夕はいつだって先に着いていたのにバス停は廃棄されて誰も座ることがなくなったような、物寂しさが感じられた。
「休むよね、そりゃ」
ほっとするように、私は呟いた。
あまりの情けなさに自己嫌悪する。実夕に嫌われた自分の想像がここまで足りなかったとは。それだけ私にとって実夕の存在が大きかったということだろう。
私は誰もいないバス停の長椅子に座り、鞄から文庫本を取りだした。気が滅入ったり、苛ついた時は読書に限る。通して読んでまた最初に戻った赤毛のアンの第一巻だった。実夕に勧められた本なのがまた女々しくなるが、物語には関係のないことだ。さっそく使い始めた黒い栞をはずして一行目に目を通したときだった。
得体の知れない感覚が、私の身体に奔った。
それは今まで経験のない恐怖よりも更に上のもので逃走の意志を根こそぎ奪ってしまっていた。おぞましい何かが私の命に向けられている。いつの間にか、隣りに誰かが座っていた。
バス停には誰もいなかった。
やってきた気配なんてなかった。それは最初から私について回っていたといわれた方が自然なくらいだった。
「そんなに怯えなくても、何もしないよ。お嬢ちゃん」
私が気付くのを待っていたように、それは声を発した。嗄れていて喉からどす黒い煙を出しているような声だった。怯えるなという方が無理である。
なけなしの勇気を絞り出して、私は自分の隣りに目を向けた。
声の主は、真っ黒いローブを着た老婆だった。そのまま絵本に入れば魔女になれそうな格好である。皺だらけの手に大きな眼、長い白髪を乱暴に束ねている。清潔感は皆無で見た目の印象は最悪といえた。
老婆は私を見てニヤリと笑う。存外に生えそろった歯が、そこだけ別の人の口に見えて余計に気持ち悪かった。
「はじめましてだね。朝宮清佳ちゃん」
老婆は当たり前のように、私の名前を呼んだ。
ホラー小説は嫌いだった。いかにもという陰湿さやグロさを出すだけで全然感情移入できなかったからだ。私は、ほど良く自分の世界の延長線にある物語が一番好きだった。
ここで名前を呼ばれるということは、私はこれから犠牲者となるのかなと自分の命を読者感覚で見ることができた。
そう思えたら、少し冷静になれた。
「リンゴ……持ってたら最高のビジュアルですね」
「そうかい? じゃあ次はとびっきり赤いのを持つことにしよう」
冗談のつもりだったのに、意外とのってきやがった。
すると、老婆の眼球が私の手元に向かった。
「しかし、良い物を持っているねぇお嬢ちゃん」
黒い栞のことだと何故か確信が持てた。私は老婆を見つめたままで眼を離すことが出来なかった。何か不思議な力で強制させられているのか、いや、私がただ恐怖しているだけかもしれない。そんな私を愉快そうに見ながら、老婆は続けた。
「それはね、呪いだよ」
「……呪い?」
老婆は皺だらけの顔を更に皺を増やして笑う。
「とても強い呪いだ、最高級の代物だよ。使われるのは何十年ぶりだろうねぇ。その相手がこんなに若いとは可哀想に。誰かに恨まれた心当たりはあるかい?」
先週までだったら首を傾げていただろう。拳の傷が疼いてきた。
私は一度深呼吸をしてから、老婆に問いかけた。
「その恨みを持った子に、私が呪われたって言いたいんですか」
「あぁそうだよ。お嬢ちゃんがいま思った相手さ」
まるで私の心を読んだように、老婆は言った。
いきなり現れて君は呪われたなんて言われたら、非科学的だ、ナンセンスだと探偵物の第一発見者ばりに悲鳴を上げてやりたくなるが身体は魂を掴まれているように突拍子な動きができなかった。やはり、これはミステリーではなくホラー展開のようだ。
これは先輩が言っていた呪いのホームページというやつなのだろうか。
実在したのかと同時に、山口さんは本気で私を呪いたかったのだなと他人事のように思った。
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