第9話

 実夕は流れた涙を掌で拭いて、初めて私を見た。


「清佳ちゃん。私、自分でなんとかしたいの」


 きっとそれが、模範的な解決方法なのかもしれない。

 世の中の多くはやめてと言えない相手を選んで酷いことをしている。そう強く主張すれば、興味を失う相手もいるはずだった。

 山口さんがどう受け取るかわからないけれど、問題解決に本人の言葉は必要だ。

 だが、しかし。


「本当にできる? やめてって言えるの?」


 私は高見実夕という人間を弱いと思っていない。

 彼女はいつもストイックでやると決めたことは誰よりも頑張れる子だった。でも、人に言葉を向けることを怖がるきらいがあった。

 傷付けてしまうのではないか。怒らせてしまうのではないか。嫌われてしまうのではないか。そんな思いが先行して、実夕はいつも言葉に詰まって結局流されてしまうところがある。

 将来、大人になったらこれは致命的な弱点になるのかもしれない。

 

 でも、私はそんな実夕が好きだった。

 だってそれは誰よりも、優しく人のことを考えられるってことだから。


「実夕。もう入学して一ヶ月以上経ってるんだよ」


 実夕の表情で、中学が始まりじゃないことがわかった。

 いつからだったんだろう。思い出しても塾で会ったときの実夕は楽しそうな笑顔しか思い浮かばなかった。


「それなら私と一緒に行こ。二人で行って、実夕がもうやめてって言うの」


 良い案だと思ったけれど、実夕は首を横に振った。


「一人でやる、大丈夫だから」


「でも、実夕」


「放っておいてっ!」


 はじめて聞いた実夕の大きな声に気を取られ、実夕は走り去ってしまった。投げ出された傘が地面に転がって音を立てた。

 振り返るも、実夕の背中に拒絶の意思を感じて足は動かなかった。追うべきだったのだろうけれど、これ以上何を言えばいいのかわからなかった。


 私は細かい雨を被りながら傘を拾って閉じる。使う気にはなれなかった。


「……くそ」


 言い方を間違えたかもしれない。

 私は傘を綺麗に畳んでバネホックで止めてから、散乱した実夕の私物を一つ一つ拾っていった。

 教科書にペンケース、文庫本にハンカチ、手鏡や櫛、リップクリームがが入ったポーチは中身が全て出ていた。あえて出したのだろう。奥歯が割れそうになるくらい怒りがこみ上げてきた。


 教科書や文庫本に落書きはなかった。乾かせば使えるかもしれない。できるだけ泥をはたいてから、仕方なく濡れたバッグに入れていった。

 実夕が好きだと言っていた猫のような恐竜のようなぬいぐるみキーホールダーも転がっていた。実夕はこういう可愛いのが好きな子だった。

 たくさん持っているのに、恥ずかしいからと毎日いつも一つだけ選んでつけていると言っていた。今日はどんなものかと、私は密かに楽しみにしていた。


 拳で地面を叩く。

 もう一度、叩く。もう一度。もう一度。もう一度。


 どうすればよかったのだろう。自分で解決すると言っているなら、静観するのが正しかったのだろうか。

 でも、誰よりも優しいあの子が、悪意を向ける他人と戦えると思えなかった。

 その私の不安が、実夕を傷つけることになるなんて思わなかった。


 何が悪かったのかと必死で考えていると、私の頭上に傘を分けられた。見上げるとそれは見知った顔だった。


「朝宮さん、大丈夫?」


 そう声をかけてくれたのはクラスメイトの堀越さん。その後ろには仁科さんもいた。いつも一緒に行動している印象の二人組だった。一人で弁当を食べている私を見かねて誘ってくれて、昼食はいつも一緒に食べていた。


「ありがと……大丈夫だよ」


 何が大丈夫なのだ、と自己嫌悪した。でも彼女たちには関係のないことだ。

 私が立ち上がると、後ろにいた仁科さんが私のスカートについた土を払うのを手伝ってくれた。


「それ、高見さんのだよね?」


 仁科さんが、全て拾い終わったバッグを見て言った。


「いまさっき、高見さんが走っていくのが見えて……来た方角からもしかしたらって」


 私は無言で頷いた。注目して見れば、山口さんのグループで実夕の立場が良くないのはわかることだ。ただ、この二人に関してはそれだけではないのかもしれない。

 私は尋ねた。


「二人は、大和小だよね」


 私の質問の意味がわかったのだろう。二人はばつがわるそうに黙った。

 堀越さんたちは一度顔を見合わせてから、掘越さんが話してくれた。


「五年生くらいのときに、みんなで誰かを無視しようっていうゲームが流行ったんだよね、女子のなかで」


 私は頷いた。こっちの学校でも流行っていたから当然といえば当然だった。私が六年の時に孤立した原因でもある。


「当番制で、一週間くらいで交代だった。それを決めるのは山口さんだったの」

 

 隣りの仁科さんが鼻を鳴らして「母親がPTAの会長だったんだよ」と気に入らなそうに続きを引き取った


「それで高見さんの番になったんだけど、高見さん……こういうのやめよって山口さんに言ったらしいんだよね」


「…………え?」


 このとき私は、相当間抜けな顔をしていたと思う。それは私が実夕に出来ないと決めつけた行動だった。

 仁科さんは、私のそんな様子に気がつかずに続けた。


「そしたらゲームは終わってた。代わりに山口さんのグループに高見さんが入ったの。それが五年生の終わりくらいの話。高見さん、私立行くって思ってたから終わると思ったけど……これは、いくらなんでも酷いよ」


 二人の目線は私の持っているバッグへ向かっていた。

 私の表情に気付いてか、堀越さんが弁明した。


「ごめん。でも私たちも山口さん怖くて」


「私たちも見て見ぬ振りするのは、いやだったけどさ」


 仁科さんも自分の気持ちを付け加えた。


 二人は勘違いしていた。

 私は責める気はなかった、そんな資格だってなかった。

 

 実夕は一度、戦っていたんだ。そして、実夕の自己犠牲のおかげでくだらないゲームの幕は下りていた。その結果がこれである。

 

 そんな彼女がもう一度戦うことができるのだろうか。

 私が出来ることは、なんだろうか。

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