第8話
息を切らしながら辿り着いて、走る必要はなかったことがわかった。
入学してから一ヶ月と少し、何度も見ていた背中だったからだ。私は実夕の制服姿を思い出すときは、顔の見えない後ろ姿が多かった。
「実夕」
そう呼ぶと、彼女の肩が僅かに跳ねるのが見えた。数秒を要して実夕は振り返る。
「……清佳ちゃん、どうしたの?」
「こっちが聞きたいよ、何してるの? こんなところで」
私が彼女の後ろをを見ようとすると、実夕は防ぐように身体で遮った。
濡れちゃうよ。実夕はそういうと私に近づいて傘を分けてくれた。
「山口さんたちとすぐ帰ったように見えたけど」
「……ん、今日は別々」
私は実夕をじっと見つめる。彼女は逃げるように目を逸らした。
傘に雨音が叩いていた。小雨でも耳を澄ませばこんなにも聞こえるものなんだなと思った。
私たちはしばらく何も話さなかった。お互いに黙り合う。沈黙はときに、雄弁だった。
私はずっと気付いていたんだ。
実夕の上履きがずっと真っ白だったこと。
伸ばしているといっていた髪を突然、切ったこと。
よく、教科書を忘れてくること。
ほんの半歩だけ、実夕の方へつま先を入れれば簡単にわかることだったんだ。
でも、私は傍観した。
私の前の実夕はいつも通りの実夕で、そのいつも通りを、実夕が私に求めていたような気がしたからだ。実夕は徹底して私に隠しているように見えた。
それがどういう意図だったのかはわからない。でも、実夕が望んでいるならと私は踏み込むことはしなかった。
だがここまでだ。これを見てしまったからには引き返せない。
「実夕、私はこれから山口さんの家に行くよ。行動を正す」
「やめて」
食い気味に止められた。実夕の目は、まだ私を見ない。
「限界だよ。やって良いことと悪いことがある」
私はそういうと、実夕の後ろを覗いた。そこには放られたスクールバッグと私物が散乱していた。教科書や筆箱、文庫本につけられたブックカバーは実夕がお気に入りと言っていたものだった。
俯いたままの実夕に、私は続けた。
「なんとなくそうなのかも、くらいに思ってたよ。でも、実夕は触れられたくなかったんでしょ。だから私も付き合った。ほら、一回グループ作っちゃうとさ、なかなか抜けられないところあるじゃん。だから、そんな感じなのかなって思ってた……いやごめん。嘘だな、私は言い聞かせてたんだよ、自分に。ちょっとした友達同士の悪ふざけ程度で済んでるんじゃないかなって」
実夕はまだ、私を見ない。代わりに彼女の手はぎゅっと握り締められていた。漫画だったら血が出るじゃないかというくらい。
「もう付き合わなくていい。明日からは私と帰ろ。興味あるならさ手芸部入ろうよ。私の刺繍の上手さは知ってるでしょ、いま作ってるのも、実夕に」
「出来ないよ」と繊維のような細さの声で、実夕が遮った。
「どうして?」
聞くと実夕は応えなかった。私は彼女を守るという意思を込めて続けた。
「山口さんたちのことなら私に任せて。もう二度と実夕にちょっかい出させないようにするから」
実夕は目から溢れた涙を一筋、流しながら言った。
「……山口さんのお父さん、政治家の偉い人で、お母さんも保護者の中の偉い人で、誰も逆らえないんだよ」
「関係無いよ、そんなの」
私が即答すると、実夕は苦笑した。
「清佳ちゃんは、そうだよね。卑怯なことは許さないんだもんね」
父から唯一、教わった信念。それを話しているのは母と実夕だけだった。
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