第15話

「ゆっちゃん、日焼け止め貸して~!」

「実はさ、あたしバタフライ泳げるようになったよ」

「早く着替えて入ろう!」

 更衣室内に女子たちの喧騒が入り混じっている中、オレは呆然と服すら脱げずに佇んでいた。

 こればかりは元男として流石に恥ずかしい。水着を手に持って硬直してしまう。

「拓斗さん、まだ着替えないの?」

「あ、うん……。ちょっと心の準備が……」

『早く着替えましょうよ』

 傍らからせかしてくるセラに、オレは聞こえない程度に舌打ちで返した。

「それじゃ、お先に」

 その間に、更衣室はオレを除いてすっからかんになってしまう。流石に焦りが生じたオレは、ようやく上着に手を掛けた。

『私的には男子のほうがよっぽど恥ずかしいと思うんですよねぇ。あんな上半身裸のパンツ一丁でよく泳げますよね』

「うるせぇ、黙ってろ!」

 男と女の違いだろうか。とにかく、早いところ着替えないと授業に遅れてしまう。

 ――ええい、ままよ!


「……やっぱり恥ずかしい」

 女子用の水着に着替えたオレは、周囲を見渡しながらせわしなく腹部を押さえていた。

 布切れ一枚、妙に突っ張った感触が違和感しかない。脚も無駄に剥き出しになっているから日光がやたらと当たってじりじりと暑い。こんなのでよく泳げるな、女子という生き物は。何の気負いもなく着れる連中が羨ましい。

 プールサイドには他の児童たちがガヤガヤと騒ぎ立てている。先生はまだ来ない。

「拓斗さん?」

「のわっ!」

 背後から突然声を掛けられ、思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。

「……そんなにびっくりする?」

「あ、いや……。急に呼びかけられたから」

 後ろにいたのは鹿野だった。他の児童とは違い、何故か体操着姿だ。

「さっきから落ち着かない感じだったから、どうしたのかなって思って……」

「な、なぁんだ。うぅん、久しぶりの水着だったからちょっと恥ずかしくて……」と言いかけたところで、オレは鹿野をまじまじと眺めて、「それよりも鹿野さん、水着は?」

「実は……、今日は見学で……」

「見学? 体調が悪いとか? それともまさか、また玉越さんが水着を隠したとか!?」

「そうじゃなくて……」

 鹿野はもじもじと俯いたまま赤面している。余程特殊な事情なのだろうか?

『タクトさん、空気読んでください。入れない日なんです』

 セラがボソっとオレに囁きかけてくる。

「入れない日……」

 ……って。

 あぁ、そうか。

 もしかして話に聞く女の子の日というものか。

『やれやれ、やっと分かったみたいですね』

「うるせぇ。オレはまだ女子初心者なんだよ」

「……初心者?」

 鹿野が不思議そうにこちらを見てきた。

 セラだけに聞こえるように呟いたつもりだったが、その箇所だけ聞こえてしまったようだ。危ない、気を付けよう。

「何でもないよ。そっか……、ごめんね、鈍くって。今日は暑いから日陰で休んでね」

「……そうする」

 そう言って、鹿野は物陰のほうに向かっていった。

 ――ふぅ。

 やはり女子のデリケートな話題は流石に気を遣うな。

『他人事だと思わないでくださいね。あなたも今は女の子なんですから』

「お前がオレを女にしたんだろうが。他人事だと思うな」

 セラのあっけらかんとした態度は時々腹が立つ。

 ――そういえば。

 天使はまだしも、何故オレは女子にさせられたのだろうか。

 そもそも、何故わざわざオレを天使にしたのだろうか。

 元死刑囚という立場のオレは、控えめに言っても一般的な天使のイメージとは程遠い存在のはずだ。それをわざわざオレを蘇らせてまでこのような姿にしたのにはどういう事情があるのだろうか?


 ――このセラって奴も、何を考えているんだ?


 オレの猜疑心が働いたところで、もう一度深呼吸をした。ただでさえ考えることは多いのだから、あまり余計なことで脳味噌を酷使するのも阿呆らしい。そろそろ授業も始まるし、一旦考えるのはやめておこう。

 っと、オレが首を振っていると、

「あっ……」

「おっと……」

 偶然、オレの傍らを見知った顔が横切った。

 笛木だ――。

「えっと、その……」


 ――気まずい。

 昨日のことがあったばかりだというのに、コイツと顔を合わせるのは少々気が引ける。

「そういえば、今日は三組と合同で授業やるんだっけ?」

「そ、そうだよ……」

「そっか……」

 なんとか他愛もない会話で間を持たせようとするが、すぐに沈黙が訪れる。無理に話しかける必要もないのだが、どういうわけか挨拶してしまった。

「あの、拓斗さん。昨日のことは……」

「き、気にしないで、ね。預かっているアレもちゃんと手元にあるから安心して」

 小声でオレは話すと、笛木はほっとしたような表情を浮かべた。

 ――参ったな。

 まさかこのタイミングで合同授業だとは思わなかった。まぁ、別段コイツに関わる必要性はないのだが。ただ、顔を合わせづらいときほど何か話さなければ、と思考が働く。この心理は一体何なのだろうか。

「あ、ふーえーきくううううううううん!」

 どこからともなく陽気な声が呼んできた。全く、更に面倒な奴が来やがったな、とオレはため息を吐いた。

「玉越さん!」

 案の定、玉越リカの声だ。しかもやたらと派手な白いワンピース水着を着用ときている。胸元がかなり露出しているが、授業にそんなものを着て大丈夫なのだろうか。

「ねぇねぇ、リカぁ。今日はやっぱり笛木くんとペアになっちゃったりするのぉ?」

「手とか繋いだりしちゃってぇ!」

「きゃあああああッ! 激アツッッ!」

 更に奴の仲間たちが次々と群がってくる。一気に周囲が騒がしくなった。

「やだぁ、照れるぅ!」

「ほらほら、みんな。そういうのは後にしよっか。そういえば先生たちが少し遅れるから、準備運動だけ各自で済ませて待ってて、だってさ」

「はぁい」

 ――おいおい。

「笛木……、くんさぁ。そういう大事な連絡はみんなに聞こえるように大声で言って欲しいな」

「……ふん、何よ!」

 オレが嫌味ったらしく言うと、玉越リカがオレを睨みつけてくる。一気に敵視しやがって。その規定外の水着と落としていないネイルもついでに注意してやりたいところだったが、まぁオレには関係ない。ここは敢えて何も言わないでおいてやろう。

「拓斗さん……。後で、アンタに話があるから」

 玉越がオレの耳元にボソッと囁いてきた。

「……今じゃダメなの?」

「後で、って言ってるでしょ。それじゃ」

 やれやれ。何のことか分からんが、大方笛木か鹿野のことで何か言われるのだろうか。

「笛木くぅん、いきましょう!」

「あ、うん……」

 玉越は一気に猫なで声を発したかと思うと、笛木の腕を掴んですたこらさっさと向こう側へ行ってしまった。

 気を取り直して、オレは軽く準備運動を済ませる。やはりこの水着で身体を動かすのはどこか違和感があるな。

「そうそう、実はあたしぃ、飛び込みスタートできたりするんだよね!」

「へぇ、凄い!」

「えへへ、これでもスイミング習っていたからさぁ。ま、もうやめちゃったけど」

 玉越たちの声がこちらまで聞こえてくる。わざとか偶然かは知らんが、正直煩い。

 なんとなく奴らの姿を遠目に眺めてみる。笛木は一応真面目に体操をしているようだが、玉越はお喋りばかりで何もする気配はない。

「でも、先に準備運動を……」

「笛木くんに見せてあげる! ちゃんと褒めてね!」

 そう言って、玉越はおもむろにスタート台に上がった。

「お、おい……」

「玉越さん、いきなりは危ないよ!」

 笛木たちが呼び止める間もなく、ドボンッ! と水しぶきを挙げて玉越はプールに飛び込んだ。

 ――オイオイ。

 そのまま奴はクロールへと繋げて泳いでいく。一応できるというのは本当のようだが……。

 十メートルほど進んだところで、突然玉越の動きが止まった。かと思いきや、手足をバタバタと忙しく動かし始めた。

「ちょっと……」

「あれヤバくない!?」

「リカああああああッ!」

「あ、脚が……、つって……」

 間違いない。溺れている!

 玉越の動きはあっという間に止まり、どんどん沈んでいく。オレたちは唖然とその場に立ち尽くした。

「待ってて、玉越さんッ!」

 そう言って、笛木はプールにすぐさま飛び込み、彼女の身体を支えながらプールサイドまで連れてきた。

「大丈夫、なの……?」

「マズいな、大量に水を飲んだみたいだ。意識がない」

 横たわる玉越を支えながら、笛木は指で口の中の水を出す。

「私、先生を呼んでくる!」

「笛木くん……、どうしよう?」

「僕に任せて。これでもボーイスカウトの経験はあるんだ」

 笛木は玉越の顎を上げて気道を確保する。そして、ゆっくり彼女の口に息を吹き込んで人工呼吸をおこなう。

 皆が神妙にその光景を眺めていると、

「げほっ、げほっ!」

 玉越が咳込みながら、水を吐き出していく。

「……良かった。本当に、良かった」

 笛木はそう言って、玉越をそっと抱きしめた。その瞳に、うっすらと涙が滲んでいるのが見える。


「笛木……」

『笛木さん、なんだか変わりましたね』

 オレもセラも、目の前にいる笛木の姿に感心してしまう。

 そこにいたのは、昨日までのストーカー男じゃない。ただ純粋に、好きな人のことを心配する一人の男の姿だった。

 ――っと、そうだ。

「もしかして、今なら……」

『はい。笛木さんの幸せ、少しだけ分けてもらうことはできます』

 セラはにっこりと微笑み、手を翳した。

 静かに目を閉じて、再びあのおかしな呪文と共に、幸せの光が集まっていくのだった。

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