2章
第11話
再び訪れた、真っ暗な世界。
地面はふわふわしている。だが、どこか落ち着かない。堅いアスファルトのほうがよっぽど寝心地が良いくらいだ。
目の前に佇む、白い服の天使が口にした言葉――、
「世界は……、崩壊してしまいました」
さっぱり意味が分からない。
世界が、崩壊? どういうことだ? だったらここは何なんだ?
それよりも、分からないのは……。
――鹿野が人を刺したあの光景だ。
左手に持った包丁、滴り落ちる血でできた池に突っ伏す男。
オレはこれまでに幾度となく似たような残虐な光景を目にしてきたはずだ。いや、もっと残虐な光景を自らの手で創りだしてきたと言うべきか。
なのに、この胃腸をひっくり返すような吐き気は何だ――。
「なんで、鹿野が……」
それだけの言葉をひねり出すのが精一杯だった。
「驚くのも無理はありません。ですが、これは事実です」
頭が痛い。
セラは天然気味な天使だが、嘘を吐くようなことはしない。
オレは一旦体制を整えて、真っ直ぐにセラを見据えた。
――そういえば。
「なぁ、セラ」
「はい」
「お前、やたらと鹿野の幸せにこだわっていたよな? あれは何故だ?」
「えっ……」
今思い返せば、セラはずっと鹿野が幸せになることを望んでいたように見えた。
玉越リカに幸せを与えようとしていたときもそうだ。勿論、玉越の行動は決して褒められたものではないが、それにしてもあまりにも鹿野のほうを優先させすぎていたように感じる。
「もしかして、鹿野は特別な存在なのか?」
オレが思い切って尋ねると、
「……そうです」
セラはポツリと答えた。
「なるほどな。やはり……。つまり、その世界が崩壊したというのも、鹿野が……」
セラは頷き、
「ひとつずつご説明いたします。まず、この世界は幸せと不幸のバランスによって成り立っています。それはよろしいでしょうか?」
いきなり哲学的な話になったな。正直理解出来ているのかいないのか微妙なところだが、黙って続きを聞こう。
「幸せが増えすぎると、同時に大きな不幸がどこかで起こります。経済なんかは分かりやすい例でしょうか。誰かが儲かれば、その分誰かが損をするように」
「幸せにもインフレデフレってものがあるわけか」
誰かの幸せは、誰かの不幸、というのはよくある話だ。考えてみれば当然の話である。
「私たち天使は、その幸せのバランスを上手く取っていくのがお仕事なのです。誰かが幸せを独占しないように、誰かが不幸を背負いこみすぎないように」
それは実際やってみてなんとなく理解した。単純に幸せを与えるわけではなく、誰かの幸せを少しだけ分けて平等にしていくのだ、と。
「……それと鹿野が何の関係があるんだ?」
セラは少しだけ俯いて、
「鹿野佳音さんは、この世界の中でも特に不幸や幸せのエネルギーを顕著に影響させやすい体質なのです。我々はそのような方を“
楔、だって?
道理でセラが鹿野の幸せにやたらと拘る理由が分かった。
「そんな……。一人、だけで、か? 鹿野一人の不幸だけで世界が崩壊してしまうなんてことがありえるのか?」
「……ええ」
――馬鹿な。
そんなことがありえるのか? この地球上にどれだけの生命体が存在しているのだろうか、そしてその中に何人“楔”などと呼ばれる者がいるのか。考えて物を発しているのか。
「そりゃセラも細心の注意を払っていたわけだ」
「本当にヒヤヒヤしたんですからね! タクトさんがあのままいじめを放置するんじゃないかって!」
「結果的には正解だっただろ」
「それは、まぁ……」
「それに……」オレは頭を掻きながら、「どうやら本題はもっと深いところにありそうだぜ」
そう言うと、セラは黙り込む。
世界が崩壊したというのに、セラの態度が妙に気になる。コイツの場合、「せ、せ、せ、せ、世界が崩壊しちゃいましたよおおおおおおおおおッ!」とか慌てふためきそうなものなのだが、ただひたすら悲しそうな顔で落ち着いているようにも感じる。
そもそも、本当に世界が崩壊したのであれば何故オレたちはここにいる? 世界の崩壊と同時に消滅するのではないのか?
もしかして……、
……。
いや、その前に聞いておくべきことがある。
「なぁ、セラ」
「はい……」
「鹿野は何故、あんなことをしてしまったんだ?」
セラは少し怪訝な表情を浮かべた後、
「分かりません……。あれは我々にとっても予想外の出来事でしたから」
予想外、ねぇ。
いくら天使でも、コイツは別に世の中の事象を全て把握しているというわけではないらしい。笛木のストーカー行為も知らなかったぐらいだし。あくまでも知っていることだけ、ってところだろう。
さて――。
ここからどう切り出すべきか。
「で、世界は崩壊しちまったわけだけど、ここからどうすればいいんだ? まさか、これで終わりってことはないだろうな?」
「はい、勿論終わらせるわけにはいきません」
セラが随分と強気に言い放つ。
「やれやれ……。ま、オレとしては世界が崩壊したままでも構わなかったんだが……」
「タクトさんッ!」
セラに怒鳴られて、オレは背中を萎縮させてしまう。うん、今のは完全にオレが悪いな。
「悪かったよ。で、何をするわけだ?」
「これを見てください」
セラがそっと掌を差し出してくる。その上には、淡く光るボールのようなものが見える。
「これって、もしかして先生の……」
「幸せ、です。正確には先生から分けてもらったものと、玉越さんの膨れ上がったものが混じった形ですが」
なるほど、確かに先生から分けてもらった時よりは幾分か形が大きくなっている。
「ていうか、玉越の幸せもちゃっかり貰っていたのか」
「そうです! 悪いですか! 言っておきますが、これがなかったら世界はこの崩壊した状態のまま混沌に沈んでいくだけです!」
「そいつを使って世界を再生させる、ってことか? 随分と簡単に再生できるんだな」
「簡単じゃありません! いいですか、チャンスは一度っきりと考えておいてください。相応の幸せを消費しますから、本来は禁じ手みたいなものなのですよ。今度こそ、鹿野さんをしっかりと幸せにしてあげてください」
流石にセラの目は真剣そのものだ。これ以上は皮肉とか言っていられないな。
「分かったよ。ただ、これだけは言わせてくれ」
「なんですか?」
「幸せにするのは、“鹿野”だけじゃねぇ。そうだろ?」
そう言うと、セラは少し黙り込んだ後、
「……そうですね。私としたことが迂闊でした。鹿野さんが不幸にならないようにするのは勿論ですけど、我々は天使ですからその本分を忘れないようにしてくださいね」
「はいはい」
忘れかけていたのはお前だろ、と言いかけていたが口を閉じた。あまり皮肉を言ってもいられない状況のようだ。
どこまで世界軸が戻るのかは分からないが、まずは鹿野が殺人を犯すあの光景を回避しなければならない。
あのとき、もしオレが無理矢理にでも鹿野を引き留めていたら――。
後悔がないわけではない。だが、流石にあの結末は予想はできなかった。
「なぁ、もしまた世界が崩壊したらどうなるんだ?」
我ながら弱気なことを尋ねてしまう。
「……それまでにしっかりと幸せを集められたら再生させることは可能です。けど、先ほども言いましたがこれは本来禁じ手なのです! そう都合よく幸せが集められるとは限りませんし、そもそも何度も世界を崩壊なんてさせないでください!」
「そりゃごもっともで」
「分かったならいきますよ」セラはふぅ、っと深呼吸をした後、「ルルルンルルルン世界を再生リボンでリボーン!」
意味不明な呪文のせいで、張られていた緊張感が一気に崩壊したのだった。
――お前こそ、真面目にやれ。
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