第10話

「車、乗っていくかい?」

「うん……」

 オレが呆然としている間に、鹿野は車の助手席に乗り込んでいった。

「それじゃあ、また……」

「あっ、ちょっと待って……」

 オレが呼び止める間もなく、車はエンジンを掛けて走り去っていく。数秒と経たないうちに姿が見えなくなり、オレは愕然とした。

 ――あのまま、車に乗せてはならない。

「おい、ヤバいぞセラ……」とオレが呼びかけるも、「セラ? セラ! せらあああああああああああああああああああああああッ!」


 返事がない。


 さっきまでふらふらと飛び回っていた天使が、いつの間にか消えている。

「セラ? 一体、どこへ……」

 周囲をいくら見回してもセラはいない。このままでは埒が明かない、仕方がない、と思ってオレは急いで車を追いかける。

 はぁ、はぁ、と息が上がってくる。

 車はどこだ? 鹿野は、一体……。


 まばらにしかない記憶の断片を辿っていく。

 あの男――確か真喜人と呼ばれていたか――の顔を、オレは知っている。

 どこで? と聞かれても全く覚えていない。だが、いつ会ったかはほんの微かな記憶に残っている。


 前世だ――。


 何故だろうか、更に記憶を呼び起こそうと思っても背筋がゾクっ、と震える。恐怖というか、嫌悪感しかない。まだ完全に前世のことを思い出し切れていないオレが本能的に記憶を封じ込めようとしている。

 とにかく、現状ひとつだけ確実に言えることは――、


 鹿野が、危険だ。

「クソッ!」

 オレはおもむろに走っていった。流石に車に追い付けるとは思っていなかったが、それでも追いかけずにはいられなかった。

 鹿野が乗った車はもう見えない。けど、オレはがむしゃらに走る。鹿野の家に急がないと、取り返しのつかないことになる。


 ――あれ?


 そういえば何故オレは知っているのだろう?

 行ったことのないはずの、鹿野の家。脚が迷うことなくまっすぐ向かっていく。息は荒げるが、周囲の景色もほとんど見覚えのある場所だ。

 しばらく走っていると、古いマンションにたどり着く。ゆっくりと歩幅を緩めて、階段で二階、三階と向かっていく。

 三〇二号室。ここだ、間違いない。

 元死刑囚のオレだが、決してストーカーや性犯罪はしたことはない。あんな本能剥き出しで下劣な連中とだけは一緒にしないで欲しい。これはあくまで尾行だ。やましい気持ちなど微塵もない。

 ドアの取っ手に触れて、そっと引く。鍵は開いていなかった。

 玄関から細い廊下の先に、リビングが広がっている。靴を脱いでおそるおそる入っていく。


 異様だった。他人の家など得てして慣れない匂いが充満しているものだが、これは明らかにおかしい。

 生臭い、鉄が混じったような歪な匂い。

 何度も嗅いで慣れたはずだが、まさかこんなところで……。


 これは――、

「血……?」

 オレはリビングまで足を進めると、そこで立ち尽くした。


「えっ……?」

 ギロリ、と誰かが睨みつける。

 その左手はだらんと下げた先に包丁を握っている。しかも、切っ先から真っ赤な血を滴り落として。

 床には誰かが倒れている。血の池に身体を溺れさせるように、ピクリと動くこともなく突っ伏している。倒れているのが誰かは分かった。さっき鹿野を車に乗せた男、真喜人だ。

 そして、オレを睨みつけたのは……。

「……拓斗、さん?」

 嫌な予感が的中した。

 信じたくはなかった。

 だが、その人物が発した言葉で、それが誰なのか脳がはっきりと認識した。

「鹿野、さん? これは……」

「あっ、あっ、ああああああああ……」

 言葉にならない声。

 鹿野は包丁を血まみれの床に落として、膝から崩れ落ちていく。

「鹿野さ……」

「あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」

 鹿野のけたたましい叫び声が、部屋中、いや、部屋の外まで突き抜けそうなほどに響き渡っていく。


 ――なんだ?


 ――何が一体、どうなっているんだ!?


 鹿野が、男を刺した⁉ 彼女と別れて、ものの数分の間に、一体どういう状況になってしまっているのか。

 さっぱり理解できない。困惑のあまり、オレも身体の力が抜け落ちてしまいそうになる。


 だが……。


 理解できない状況は、これで終わることはなかった。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああッ!」


 ピキッ――。


 何かがひび割れるような音が聞こえてくる。更にもう一回、ピキッ、という音。

 それは決してマンションの老朽化などではない。古いマンションとはいえ、流石にこれしきの声で崩れ去るはずもない。

 そう――。

 ひび割れているのは、オレの視界そのものだ。

 まるで絵画が割れていくかのように、視界が瓦解していく。

 もう、パズルのピースが外れていくよう、という比喩のほうが正しいのかも知れない。瓦解した視界がどんどん黒くなっていき、部屋の光景が見えなくなっていく。同時に鹿野の声も次第に掠れていく。

「たす、けて……、わ、た……し――」

 視界が完全に真っ暗になる前に聞こえた鹿野の声。


 同時に、オレの意識も完全に遠のいていった。



 消えていく意識の中、オレの脳裏にいくつもの光景が浮かび上がってくる。


 男、福音タクトだった頃のオレの記憶だ。

 誰かがオレに優しく話しかけてくる。見覚えのある少女だ。

「……プリン、あげる」

 一度も話したこともない少女。彼女の学年が一個上だと知ったのはそれからしばらくしてからだった。

「いい、の……?」

「うん……。給食で余ったやつ貰ったから」

 甘いものはさほど好きではなかったが、どういうわけか素直に好意を受け取ってしまった。

「貴方、いつもつまらなさそうにしているよね」

「……うん」

 つまらなさそう、ではない。つまらないのだ。

 この世界の何もかもが、崩れ去ってしまえば良いと考えていた。腐った大人たちに辟易としていて、ずっと深い闇の中にいたような気さえした。

 その後は彼女とどんな会話をしたのかさえ覚えていない。お互い無口すぎて内容もほとんどなかったのだけは覚えている。

 だが、オレにとっては一番楽しかったといえる記憶だ。あの後で食べたプリンの味は、生まれて初めて旨いと思えた。


 そうだ――。

 オレと鹿野は、前世で出会っていた――。



「――クトさん」


 ……。


 ……ん?

 誰……だ?

「タクトさん、起きてください」

 真っ暗な視界に、誰かがオレを呼び続ける。


 この声……、セラ、か?

「タクト……さん」

 悲しそうに呼び続けられて、オレもようやく思い瞼をゆっくり開こうとした。

「セ、ラ……?」

「良かった、意識が戻ったんですね!」

 にこやかなセラの顔がオレの視界に飛び込んでくる。

「……なにが、起こった?」

 身体をゆっくりと起こしてオレは尋ねる。

 空間が暗い。床も天井も、壁さえも一切見えない、まるっきり真っ暗な部屋だ。

 その中でセラの白い身体だけがくっきりと浮かび上がっている。逆に気持ち悪い感覚に陥るが、最早それどころではない。

「すみません、私の力不足で……」

「――謝罪はいいから説明しろ」

 オレは強めの口調でセラに尋ねた。

「分かりました。落ち着いて聞いてください」

 ごくり、とオレは唾を飲み込む。


 次の瞬間、真っ暗な空間に、信じられない一言がこだまする。

「えっ……」

 呆然と、オレは身体を強張らせて聞いてしまった。


「タクトさん……。世界は……、崩壊してしまいました」

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