最後のページ

「な、何を言ってるの……」

 この人は、自分が発した言葉の意味を本当に理解しているのだろうか。中村君のために生きろって?なぜ身内でも、恋人でもないあなたのために私がそんなことを。だいたいこんなに辛い治療を自分のためでなく誰かのために受けるなんて、それは治療の苦痛をその誰かの、中村君のせいにしろと言っているのと同じだ。

 それに、私の中でとっくに出していた結論を今更ひっくり返せだなんて、それはあまりにも無責任すぎる。桐生さんにも、自分自身にも。

 そんなこと、そんなこと私には出来ない……。

「なぜ?なぜなの?」

 私は布団を払いのけて彼に迫った。

「どうしてあなたは、私にそこまでこだわるの?おかしいよそんなの。もしあなたが本当に私に好意を持ってくれているのだとしても、そこまでする意味がわからない。今までだってそう。あなたはいつも突然現れて、わけのわからない事ばっかり言って、また煙のように消えていく。ねえ、中村君答えて。あなたはいったい何なの?あなたにとって、私は何なの?ねえ答えてよ!」

 声を荒げて肩で息をする私をじっと見つめていた彼は、ゆっくりと私の方に向かって歩み寄ると、窓に体を預けてふうっと大きなため息をついた。

「なあ龍美さん、少し俺の話を聞いてくれるかい?」

 私は返事をせず、ただ彼を睨みつけていた。

 そんな私を気にする様子も無く、彼はいつもの口調でひとり話し始めた。


 昔々の話だよ。と言っても何百年も昔のお伽噺ってわけじゃない。

 俺がガキの頃、そうだな、このサイドテーブルぐらいの背丈だったころの話さ。

 親父とお袋が大喧嘩して、お袋は俺を連れて家を飛び出したんだ。連れてこられたのはお袋の遠い親戚だかが暮らすド田舎だった。

 今となってはどこの田舎だったのかもわからねえ。あるのは森と川だけ。季節が夏だったのは覚えてる。かんかん照りの太陽と、意味わからねえぐらい虫の大合唱が毎日俺の周りに響いてた。

 お袋はそこに世話になる代わりに内職を手伝っててさ、朝から晩までミシンを踏んでたよ。俺は何にもすることが無くって暇だった。

 突然連れてこられた友達もいない山の中で、俺にできる事といったら川に石を投げに出かけるか、庭から見える森を眺めるかさ。お袋には口酸っぱく一人で川や森に入っちゃ行けないって言われてたからな。

 だけど、ある日俺はとうとう我慢できなくなって、親戚の家から伸びる車道を逸れて、森の中に入っていったんだ。

 それからは刺激的な毎日だったよ。毎日が冒険で、俺はトムソーヤにでもなった気分だった。俺は好奇心の赴くまま、どんどん森の中を開拓していった。竹林のトンネルを抜けた先に広がった入道雲を見た時は感動だったな。あの景色は未だに忘れられないよ。


 一体彼は何を言いたいのだろう。そんな思いで私は黙って彼の話を聞いていた。


 ある日、俺はまた新しい森の道を求めて、どんどん奥へと進んで行った。

 ガキの頃の話だからな、実際はそこまで森の奥深くってわけじゃないんだろうが、気づけばお日さんも当たらない暗いところに迷い込んで、一人立ち尽くしていたんだ。

 ヤバいって思ったよ。だけど来た道を戻ろうにも、鬱蒼とした森は帰り道も分からないぐらいに入り組んでいて、完全に俺はそこで迷子になっていた。俺は泣きべそかいて、お袋の名前を呼んだ。だけど、いくら俺が叫んだところで俺の声は喚く蝉達にかき消されて森に吸い込まれていくだけだった。

 俺は泣きながら、どこへ向かっていいかもわからずに森の中を彷徨っていた。そんな時に、ふと顔を上げた先に見えたんだ。絵本を持ってこっちをじっと見つめている女の子がな。

 俺はギョッとしたよ。まさかこんなところで人と出くわすなんて思わないからな。だけどその時の俺にはその子がどこの誰かなんてどうでもよかった。慌てて駆け寄って、助けてくれって泣きながら叫んだんだ。

 その子は何も言わなかった。何も言わずただ黙って、俺の手を引いて歩いてくれた。

 しばらく進んだ先に見えた民家に入っていって、そのうちまた本を持って出てくると、俺の横に座って、「一緒に読もう」そう言ってくれたんだ。

 だけどその時の俺にはそんな悠長に絵本を読む余裕なんて無かった。

 コイツは何を言ってるんだ、俺が迷子になってるのに何が「一緒に本を読もう」だ。

 俺は寂しいのと腹立たしさとで、泣きながら喚き散らしたんだ。

「母ちゃんに会いたい、帰らせろ!」ってな。

 びいびい泣きだした俺を見て、その子は初めはただ困った顔をしてたけど、そのうちだんだんと体を震わせて、俺に向かってこう叫んだんだ。

「男だったら、黙って待ってなさい!」

 俺は呆気に取られて一気に泣き止んだ。何せ女の子に一喝されるなんてことは、初めてだったからな。

 そのうち迎えに来たお袋に、しこたま怒られながら俺は無事に帰ることができた。

 だけどそれから何となくその子の事が気になりだして、俺はちょくちょくその子の家の周りをうろちょろしてたんだ。

 お袋には二度と森に入るなって言われたけど、俺の懲りない性格ってのはその頃から変わっちゃいねえんだろうな。

 今となってはその子がどこでどんな生活をしているのかわかりゃしねえ。だけど、俺の脳みそにはその子の思い出がずっとこびり付いてるのさ。


 龍美さん、あんたをあの高校で初めて見かけた入学式、あんたは本を抱えたまま講堂に入っていった。本を読むのが好きな奴が多いクラスだったけど、あんたは別格だった。飯を食ってる時以外、登下校の時はもちろん、教室を移動する時だって、あんたは本を離さなかったんだからな。

 正直に告白するよ、そんなあんたに俺は幼い頃に見た幻を重ねていたんだ。俺があんたに興味を持ったきっかけはそんなところだよ。

 俺が初めて話しかけた時のことを覚えてるかい?

 あんたはまるで異星人でも見るような目で俺を見ていたよな。今だから言うけど、俺はあの時の面食らったあんたの顔だけは忘れないぜ。

 それから図書室に行って、次に会ったのは俺が学校を辞めた夏だっけか。サ店に行って、何の話をしたのか忘れたけど、あんたを怒らせたのは覚えてる。

 それからしばらく時が過ぎて、次に会った時はお互いもう社会人だったな。街で顔を合わすたびに、俺は不用意な事ばかり言ってあんたを怒らせてたな。

 でもそう、俺はあんたに怒られるたびに、あの時の女の子を思い出してたんだ。

 いや、ひょっとしたらあの子は龍美さんだったんじゃないか?そんな風に思ってたよ。

 そんなあんたが、俺が死んだって聞いてショックだった、そう言ってくれた。

 あの時は茶化しちまったけど、俺にとってはあの時の龍美さんの言葉は、けっこうな衝撃だったのさ。あの龍美さんが、俺が死んだ時には悲しんでくれるんだってな。

 そして考えたんだ。俺達人間にとって、生きるってなんだ?死ぬってなんだ?そもそも人生って何なんだ?そんな正解なんてあるはずの無い問題をぐるぐると、出来の悪い頭で考えてたのさ。


「……………………」

「さっきも言ったが、正解なんて無いだろうし、皆がみんな納得する答えもおそらく出ないだろう。だからこれは自分だけが回答を持ってりゃいい問題だと俺は思う。そして俺が出した答えはな、龍美さん。俺達の人生、それは一冊の本だよ」

「……本?」

「ああ、本だ。そこに書かれてる物語こそ俺や龍美さんが生きた証さ。生まれた瞬間から、その物語は始まっているんだ。色んな脇役が出てきて色んな事が起りやがる。だけど主人公はあくまで自分だ。俺はさ、龍美さん。あんたのその本を、美しい物語にしてほしいと願ってるんだよ。簡単じゃねえよな、わかってるよそんな事は。みんな大変な思いでその物語を毎日毎日紡いでるんだ。嫌な事、苦しい事、この世の中つらい思いすることばっかりだよな。だけどよ、それがそうとも言い切れねえってのも事実だ。生きてさえいれば、そんな救いようのない世界でも、暗闇に射す光のように、嬉しい事や楽しい事が少なからず待ってるんだ。だから人生を悲しい物語にするのか、希望の物語にするのかは、その主人公しだいさ。なあ龍美さん、俺はあんたの人生の物語をほんの数ページしか知らない。だからまだ、その物語がどんな本なのか俺にはよく解ってないんだ。だからよ、もし俺の願いを聞き入れてもらえるのなら、あんたがこれからのページに書いていくはずの希望に溢れた素晴らしい物語を、俺のため書いてくれないか?」


 夕日に照らされた彼の顔を見つめて、私は言葉を失っていた。

 しばらくして、溢れ出そうとする感情を何とか抑え込むように、私は言葉を絞り出した。

「……ねえ、中村君」

「すまねえ、つまらない話をしちまったな」

「いいえ、違うの。あの、私」

 言葉が詰まって前に出ていかない。それでも私は、彼を真っ直ぐに見た。

「あなたが森で見た少女っていうのは……いいえ、今はもうそんな事はどうだっていいわね。あの、ありがとう話してくれて」

 彼は黙って頷いた。

「そうね。私、今は何て言ったらいいのか分からない。でも、分からないなりに心の中を言葉にするとすれば、ええ、本当に難しいんだけれど」

 黙ったまま言葉を待つ彼から目を逸らして、私は自分の掌を見た。

「……あなたに、これからの私の物語を、見せたいと思ってる」

 私がゆっくりと顔を上げると、彼は窓の方を向いて夕日を眺めていた。

 そしてまた、くるりと私の方を向き直ると、

「ふふっ。それでこそ龍美さんだぜ」

 そう言って彼は私の肩をポンポンと叩くと、

「期待してるぜ」ニヤリと笑って病室を後にした。



 それから二年間、私は寛解と再発を繰り返し、そのたびに入退院を繰り返した。

 二年の間に体力の限界が来て、仕事を辞めた。

 ずっと更新が滞ったままのブログも、とうとう閉鎖した。

 中村君は相変わらず時折ひょっこりやって来ては、わけのわからない差し入れを持って来て、わけのわからない話をして帰って行った。

 夏には病室でスイカ割りをしようとビニールシートにバットとスイカを一玉持ち込んで、看護師長さんに怒られていた。ハロウィンの時期にはどこで調達したのか巨大なジャック・オー・ランタンを病院の玄関に寄贈していた。クリスマスにサンタの姿で登場し、小児病棟で人気者になっていた。そんな彼の姿が病院中の噂になって、正月には病院のロータリーで院長と一緒に餅つきをしていた。

 そんな日々を繰り返して、さらに一年が過ぎた。


 もう立ち上がることさえままならなくなった私は、ホスピス病棟に移っていた。

 一日の殆どをベッド上で過ごしていた私はその日、ブログと、ブログには使わなかったフォルダのバックアップを整理しUSBに移し替えると、ノートパソコンをパタンと閉じて、窓から見える景色を眺めていた。

「よう、龍美さん。今日は風が気持ちいい日だな」

 相変わらずの口調でニヤリと笑うと彼は窓を開けて「ほら」と病室に風を吹き入れた。

「ねえ、中村君。お願いがあるの」

「なんだよ、改まって。何でも言ってくれよ」

 私は病室から見える院内にある庭園の、小高い丘にあるベンチを指さした。

「あそこに、私を連れて行って欲しいの」

「へえ、珍しいな。龍美さんが外に出たいなんて。そういう事なら任せてくれよ。すぐ看護師さんに伝えてくるから」

 彼が病室から出て行っている間に私は重い体を動かして身支度をし、車椅子のポケットに一冊の文庫本を忍ばせた。

「看護師さんが先生に許可取ってくれたよ」

 戻って来た中村君は私を車椅子に乗せると、「さあ行こうか」そう言って、ゆっくりと車椅子を押してくれた。


「気持ちがいいな」

「ほんと。いい風」

 丘の上に車椅子を停め、私たちはしばらく5月の風に吹かれていた。

「何か飲むか?」

「そうね、でも飲みかけの紅茶を病室に忘れてきちゃった」

「ええ?しょうがねえな、取って来てやるからちょっと待ってな」

 見上げた空には雲なんてひとつも見当たらず、どこまで目で追ってもひたすらに青い背景の中、穏やかな太陽だけが空にあって、優しく私を照らしていた。

 何もかもが輝いていた。

 風も空も、私を包む全てが完璧で、「生きてきて良かった」その時私ははっきりとそう思った。

 私は少し考えてから携帯電話をポケットから取り出すと、カメラ機能を表示させ、シャッターを押した。


 戻ってきた中村君から紅茶を受け取ってそれを一口啜ると、私は空に向かって腕を伸ばした。

「ねえ中村君、いつかあなたは私たちの人生は本だって言ってくれたわよね」

「ああ、懐かしいな。覚えててくれたのか。そうだな、今でもそう思ってるよ。人生は本だ」

 私は頷いて言った。

「ありがとう中村君。あなたがいてくれたから、私の物語の最後の数ページは、辛いことも多かったけれど、確かに幸せで、美しかった」

「おいおい、最後なんて言わないでくれよ。あんたの物語はまだまだ未完成のはずだぜ」

 ニヤリと返す彼に、私は首を振った。

「いいえ、中村君。私の物語のラストシーン、最後のページはここよ。この景色を、この丘で風に吹かれる私を、どうか忘れないで。いつかあなたが贈ってくれたアサガオの栞のように、あなたもこの瞬間を心の中に閉じ込めていてほしいの」

「おい、たっ……」

 何か言おうとする彼の口を手で塞いで、私は続けた。

「ねえ、中村君。ここで私の物語は終わり。こんなに素敵な結末って無いわ。そう思わない?そしてもし、何年か先にあなたがいつか私の物語を懐かしむことがあったら、その時はこれを、この本を手に取ってほしいの」

 私は車椅子のポケットから「花束を君に」を取り出した。

「これは……」

「そう、私たちの思い出の本よ。この本があればあなたはいつでもこのラストシーンを思い返すことができるわ」

 彼は黙ったまま何も答えなかった。

 

「ねえ、中村君」

 じっと「花束を君に」を見つめたままの彼に私は言った。

「あなたには世話になったから、レモンスカッシュでも奢らせてもらえないかな」

 私は舌をべえっと出して精いっぱい微笑んでみせた。

「……ばか野郎」

 そう呟く彼の目からこぼれ落ちた雫は、太陽に照らされ魔法のように七色に光って、私の手を濡らした。

「俺のセリフを取るんじゃねぇよ……」

 そう言って彼は私の膝元で泣き崩れる。

「だけど、だけどよ……龍美さん、頼むよ。どうか、どうか、どこにも……ううっうう……」

 彼のセリフは涙で言葉にならなかった。

「馬鹿ね、ちゃんと最後まで言ってくれないとお話が締まらないじゃない……」

 私は彼の体をそっと包むように抱きしめた。

 さようなら、中村君。

 彼の体温はその日の太陽のように、優しく暖かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る