螺旋

8月~9月末までの非公開ファイルより一部抜粋


 名古屋から戻ってしばらく落ち込む日々を過ごした後、私は再び入退院を繰り返しながら、治療を続けていた。

 しかし、8クールの治療中、私は殆どと言っていいほど副反応に苦しめられること無く治療は終了となった。私にとってそれは有り難いことであったが、医師の顔は深刻だった。

「治療効果が出ていないのかもしれません。一度全身の画像検査をさせて下さい」

「えっ?それは一体どういう検査になるのでしょうか」

「まあ簡単に言えば、全身の画像を撮って悪いところがあれば光るんですよ」

 私は科学の進歩に感心しながらも一抹の不安を抱え検査を受けたが、翌日に聞いた結果は拍子抜けするものだった。

「結論から申し上げて、治療効果はあったようです。散らばっていた悪い細胞が消えお腹の辺りに限局しています。これはあまりない症例です。うん、あまり無いことなんですよ。ふしぎだなぁ」

しばらく首を捻っていた医師だったが、私の方を向き直ると、

「まだ油断はできませんが、今がチャンスです。お腹に集まった悪い細胞を一気に叩いてしましましょう」

 そう言って右手を差し出した。

「今度の治療は照射療法と言います。通院で行えますので一旦退院して頂いて、また来週お越しください。頑張りましょう」

 相変わらず凄まじく力のこもった握手は、手を離したあとも小一時間ほど私の右手を痺れさせた。


 ともあれ退院となった当日、私が精算を済ませボストンバックを抱えてエレベーターでロビーに降りてきた、その時だった。

「龍美さん!龍美さん!おーい俺だよ!こっちこっち!」

病院のロビーに響く馬鹿でかい声に、そこにいた全員が一斉に声の方を向いた。

 ロビーの注目を一身に集めたその男は、上下緑色のスーツに赤色のネクタイという漫才師のような恰好をした中村君だった。

 ギョッとした私はすぐに今降りてきたエレベーターに乗り込もうと踵をかえしたが、無情にもエレベーターはすでに上階にあり、ボタンを連打したにも関わらずエレベーターは一向に降りてくる気配が無かった。

「おーい龍美さん!どうしたんだよ!」

 中村君はなおも声を張り上げ、そのまま私の方に近づいて来る。

 近くにいた数人の視線が私に突き刺さり、私は恥ずかしさと怒りで全身を震わせながら、病院の裏手にある緊急搬送口を見つけると、そこに向かって一目散に逃げだした。

「あっおい!」

 小走りでどうにか院外に出たところで、中村君に腕を掴まれた。

「なんで逃げるんだよ!」

「なんであんな所で大きい声で呼ぶの!恥ずかしいじゃない!」

 お互い息を切らしながら叫ぶ。

「なんでってデカい声出さなきゃ聞こえないだろ、あんな人の多いところ」

「あなたには羞恥心ってものが無いんですかっ」

「気にすんなよ、どうせみんな赤の他人だ」

 なっと笑って私の肩をポンポンと叩く彼に私は、この人と議論しても時間の無駄だと首を横に振って歩き出した。

「おいおい待てって。人が心配して見舞いに来てやったってのに」

「お生憎さま。もう退院しましたのでどうぞお気遣いなく。えっ?お見舞い?どうして私が入院していることを?」

「おお、退院したのか!そうか、そりゃ良かった。いやー心配したぜ。たまたま不動産屋の近くに仕事があって寄ってみたら、社長が矢沢さんは入院してるって言うじゃないか。慌てて飛んできたんだぜ。ほら、差し入れ」

 ……社長も余計なことを。彼が差し出した紙袋には数冊の本が入っていた。

「実録!本当にあった裏社会の掟、日本にもある呪いの心霊スポット10選、月間プロレスリング……何?このチョイス」

「ん?いや何も考えずに読めるかと思ってな」

 確かに、一切頭は使わずに読めそうではあるけど。

「それと、ほらこれ」

 彼は鞄から大事そうに封筒を取り出した。

「これは?」

「へへ、開けてみろよ」

 糊付けされた封筒を開いた私はその中身を見て驚いた。

「ど、どうしてあなたがこれを?」

 中に入れられていたのは栞。それもただの栞では無い。

 母も愛用していた、押し花が挟まれた手作りの栞だった。

「どうだい?綺麗な栞だろ?なんてったって俺のオリジナルだ。気に入ってくれたかい?」

 私はもう一度同じ事を聞いた。

「どうしてあなたがこれを?」

「ふふ、仕事で白浜に行った時にふらっと立ち寄った店で見つけたんだ。店員に聞いたら自分でも作れるって言うもんだから、プレゼントにと思ってな」

 アサガオの花が押された栞は少し大ぶりではあったが、中村君が作ったとは思えないほど綺麗な色合いで作られていた。

「ど、どうも。ありがとう」

 私が栞をしげしげと見つめて礼を言うと、彼は満足そうに頷いた。

「それにしても水くさいじゃないか。入院したなら連絡してくれてもいいだろ」

「連絡するも何も、私たち電話番号もメールも知らないじゃない」

 まあたとえ知っていたところで連絡なんかしませんけどね、と心の中で呟く。

しかし彼はハッとした顔になって、慌てて携帯電話を取り出した。

「そういやそうだったな。ほら、これが俺の番ご……」

「結構です」

 彼が言い終わらないうちに私は歩き出し、慌てて後を追う彼を置いて、通りかかったタクシーに手を上げるとさっさと乗り込んだ。


 照射療法のための検査を行い治療方針が決まると、私は月、火、水、木の週4日通院で照射療法を行うことになった。金曜日は診察を受け、また翌週と翌々週に同じことを繰り返す。

 計12回の治療ののち例の画像検査で効果を見る。お薬での治療と同じく副反応が出る場合があると説明を受けていたが、12回目の治療の後も、特に私の体調に変化はみられなかった。

 しかし、その日外来診察室に入った私を待ち受けていたのは、予想外の結果だった。

「先日の画像診断なのですが」

 何やら重苦しい雰囲気の中、医師が口を開く。

「照射療法自体は効果がありました。ですが、これを見て下さい」

 医師が指し示した先のフィルムには、下っ腹の辺りに白いものが無数に点在していた。

「下腹部の辺りに小さな散らばりが多数見えます。分かりますか?」

「え、ええ」

「どういうわけか、また悪い細胞が現れているんです」

「また、ですか」

「矢沢さん、お気持ちはお察しします。ですがここが頑張りどきです。前回と同じく薬物療法になりますが、またご入院して頂いて治療を始めましょう。それに、前回同様副反応も無く治療成果をあげれるかもしれませんし」

「……そう、ですね」

 なんとか作り笑いをして、そう答えたが私の気分は沈んでいた。

 いくら前回は副反応が出なかったからといって、入院がツラくなかったわけでは無い。それに生活の事もある。治療費に入院費。保険に入っていてもそれらを賄うお金は小額では無い。仕事だって、今は社長や同僚に甘えて長期休養させてもらっているが、いつまでも迷惑をかけるわけにもいかない。かといって辞めてしまえば収入は無くなってしまう。

 どうすればいいのか分からなくなって、家に戻った私はソファーに寝転んで天井をぼうっと眺めていた。

 ネガティブな感情が頭の中に浮かんでは消える。ぐるぐると渦のような模様の天井の木目が思考と重なって気分が悪くなり、私は横を向いて目を閉じた。


 目が覚めると全てが夢だった。

なんてことは無く、現実は容赦なくやってくる。気持ちの整理もつかないうちに私は再び入院となり、ベッドで静かに横になっていた。

 やがて、私の病室に向かって足音が響いてきた。

 ああ、看護師さんが点滴を挿れにきてくれたんだな。そう思った私がカーテンを開いておこうと体を起こした時だった。

「おっここだな」

 聞き覚えのあるその声に私の体は固まった。

「噓でしょ」

 私が思わず呟くと、声の主は豪快に扉をノックして返事も待たずに部屋に入ってきた。

「やあ、龍美さん!お見舞いに来たぞ!」

 今日の中村君はスーツでは無く、背中に虎の入ったジャージを着ていた。

 呆気に取られながらも、私はかろうじて口を開く。

「あの、聞きたいことは山ほどあるんですけど。中村君がなぜここに?」

「なぜって、そりゃ入院したって聞いたからだよ。あとは何だ?聞きたいことって?」

「……いや、やっぱりいいです。聞く気も失せましたし」

「ほら、差し入れ。こないだの本はイマイチみたいだったから今日はDVDを持ってきたぞ。『仁義なき戦い』の全シリーズだぜ!」

 嬉しそうにニヤリと笑う彼に私は返す言葉も無かった。

「あの、本当に結構ですので。どうか私のことは永遠に忘れてくれると助かります」

「おいおい、龍美さんらしくないぜ。俺たちの間にそんな気遣いは無用だよ」

 ダメだ。この人にはもう何を言っても。

「あっあのお取込み中すみません。お邪魔してよろしいでしょうか?」

 いつの間にか点滴の準備を持って立っていた看護師さんが、申し訳なさそうに話しかけてきた。

「あっ大丈夫です看護師さん!中村君、私これから点滴やら検査やら大変なんです。どうぞお引き取り下さい!」

「おおっそうか。悪いな忙しい時間に来て。じゃあまた近いうちに来るからな。看護師さん、龍美さんをどうぞよろしく!」

 手に持っていたDVDの束を置くと、中村君は手を上げて帰っていった。

「あの、矢沢さん。失礼ですがあの方は矢沢さんの……」

「赤の他人です!」

 私は恥ずかしさのあまり、布団を頭から被って看護師さんに背を向けた。


 二回目の薬物治療が始まった。

 決して甘くみていたわけではないが、今回の治療は想像を絶するほど過酷だった。

 毎日微熱が続き、ひどい吐き気と立ち眩み、食欲は失せ水すら飲みたくなくなった。

 枕元だけでは無くベッドのあちらこちらに散らばる髪の毛を、看護師さんは検温のたびに丁寧に掃除してくれた。

「すみません、ご迷惑をおかけして」

「そんな、お気になさらないでください」

 弱弱しく俯く私に看護師さんはみな親切に接してくれたが、毎日ごっそりと抜けていく髪の毛に悲しむ気も起らないほど、私の体は疲弊していた。

 しかし、その時の私にはこれだけ辛い治療を受けたのだから今度こそ良くなっているはずだという淡い期待があった。

 だが、何とか治療を終えた私に医師が告げたのは残酷な現実だった。

「残念ながら、今回はあまり治療の効果が得られたとはいえない状況です。医局でも相談させて頂きますが、もう少し薬を増やしてあと2クール治療を継続したいと思っています」

「少し、考えさせてもらえませんか……」

 その時の私にはそれだけを言うのが精いっぱいだった。


「やあ、龍美さん。どうだい調子は」

「帰ってもらえませんか」

 夕方になって現れた中村君に、私は彼の方を見ずに答えた。

「ん?どうした、元気無いじゃないか」

「今は独りでいたいんです」

「そうか、治療が思うようにいってないんだな」

「…………」

「なあ龍美さん。ならこれだけは言わせてくれ」

「……何?」

「龍美さんは、誰かのために生きる気はあるかい?」

「なっ」

 突然の言葉に私の心はざわつき、あの日の桐生さんとのやり取りを思い出した。

 私は彼を拒絶するために虚勢を張って、自分自身に言い聞かせるようにその事を否定した。私は自分のためだけに生きていると。

「もし、そんな人が心の中に一人でもいるのなら、龍美さん。あんたは治療をあきらめちゃいけない。その誰かのために、あんたは生きなきゃいけないんだ。でも、そんな人は一人もいないって言うのなら……」

 彼は私をじっと見据えて言った。


「あんたは俺のために生きてくれないか?」

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