扉
2010年6月28(月)のブログより一部抜粋
以前、健康診断で引っかかってしまい病院で検査をしたとお伝えしましたが、少し治療が必要な状態のようで、今後更新がままならないかもしれません。もともと不定期更新なこのブログですが、ますます更新頻度が下がる可能性があります。
読者の皆様、申し訳ございません。暖かく見守ってくだされば幸いです。
※以下は6月中旬~7月末までの非公開ファイルより一部抜粋
「おう、姉貴」
10時には行く。そう言っていた弟が玄関の引き戸を開けて現れたのは、11時を少し回った頃だった。
「はい、これ」
「ん、ありがと」
手渡された封筒を受け取って、私は中に入っていた書類の束に目を通し、記入漏れが無いかを確認する。
あの日、看護師からの電話ですっかり気が動転していた私は電話の内容を殆ど覚えておらず、翌日病院に出向いた際、医師から説明を受ける前に今日はお身内の方は?と聞かれ、思わずハッとなった。
「今日はあいにく私一人です」
医師は看護師と顔を見合わせたが、すぐに私の方を向き直ると、優しい口調で丁寧に私の病状を説明してくれた。
医師の話は想像していた以上に深刻なものだった。しかし、その時の私はなぜか嫌に冷静で、今後起こりうるであろう事態にもふむふむと頷き、予測される過酷な治療内容についても淡々と聞き入っていた。
「では、週明けにご入院して頂きます。より詳しく検査したのちに治療方針を決めます。これから長い闘いになるかもしれませんが、一緒に頑張りましょう」
そう言って差し出された医師の手は思いのほか力がこもっていて、病院から帰ったあともしばらく私の右手は痺れていた。
検査の結果、私は手術を受けることになった。
弟はその際の同意書やら諸々手続きに必要な書類にサインをして持ってきてくれたのだ。
「何だこりゃ。親父の書庫もお袋の本棚も、ほとんど姉貴の本になってるじゃん」
元々のんびりとした性分なのもあるだろうが、病気のことに触れてこないのは、弟なりの配慮なのだろう。麦茶を片手にまるでルームツアーでも楽しむかのように、彼は元自宅をぐるりと見回って、ソファーに腰を下ろした。
「千夜夢が会いたがってたぞ。龍美お姉が最近遊んでくれないって」
可愛い姪っ子の名が出て、私の心がチクリと痛む。
「そうね、千夜夢ちゃんに長いこと会えてないから私も寂しいわ。そうだ、彼女にこの本を渡してあげて」
私は彼女用にセレクションしてあった本を数冊、本棚から取り出した。
「いつも悪いな。俺も嫁さんも本なんて滅多に読まないから千夜夢の読書好きは完全に姉貴の影響だよ。持って帰りやすいように何か袋にでも入れておいてくれないか」
私は程のいい紙袋を探しに部屋を出たが、しばらくして私が戻ると、弟は自分の部屋に入ってアルバムを眺めていた。
「懐かしいなあ。俺、こんなに可愛かったんだな」
「そうね、昔のあなたは目元もクリッとして、こばと幼稚園のマッチなんて呼ばれていたのにね」
「こんなはずじゃ無かったんだけどなあ」
苦笑いしながら見るたびに膨らんでいく腹をさする弟のそばに、私はぎっしりと本の詰まった紙袋を置いた。
「はい、じゃあこれ千夜夢ちゃんに」
「おお、こんなにたくさんサンキューな。見ろよ姉貴、この写真。親父もお袋も若いなあ。おっ、この犬名前なんだっけ?」
「リリでしょ。覚えてないの?まあ、あなたが小さい時に死んじゃったから無理もないけど」
「ん?おい姉貴」
「えっ?」
「なあ、俺の写真によく写ってるこの子は誰だ?」
私は弟が指さした写真を覗き込んだ。
見ると母が1歳ぐらいの弟を庭先で抱き、少し離れたところで私が当時飼っていた犬と戯れていた。そのすぐ後ろには、見知らぬ男の子が写っている。
弟の言う通り、確かにこの時期に撮られたであろうページの写真には、いつも隅の方に、浅黒く日焼けした少年が写っていた。
「本当だ。誰だろうこの子」
滅多に弟のアルバムなど開く機会の無かった私には、弟に言われるまでその少年の存在に気付かなかった。
当時、私は4歳ぐらいだろうか。同じような年頃にみえる男の子は、その夏の間に撮られた写真にだけ存在していた。
「隣の兄ちゃんじゃないよな」
「違うわよ。お兄さんなら、この頃もう小学生のはずだし」
私は腕を組んでしばらく考えてみたが、私の記憶には一片も残っていなかった。
だが、その何とも言えない、はにかんだ笑顔に私は僅かに既視感を覚えた。
そう言えばつい最近、夢でこの男の子を見たような気がする。
いや、夢以外にもどこかで……。
「姉貴が覚えていないんじゃあ、もう分かりようがないな」
「うーん、そうね」
思い出せないことをいくら考えても仕方がない。
誰かの知り合いか遠い親戚がたまたま遊びに来ていたのだろうと適当に結論を出してアルバムを閉じると、弟は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
紙袋を掴んで玄関まで向かうその後ろを私もついていく。
「当日は俺も仕事早めに切り上げて立ち会うからな。15時からだったよな手術」
「悪いわね。忙しいのに」
「いいんだよ、そんなこと。それより……」
「ん?」
「いや、いい。やっぱ何でもない」
言いかけて靴ひもを結び直す。
「馬鹿ね」
そんな弟の頭を、私は軽く小突いた。
「でも、ありがと」
弟は小さく頷くと「じゃあまたな」そう言ってこちらを振り返ることなく帰っていった。
弟を見送ったあと、私は部屋に戻りもう一度アルバムを開いてみた。
写真の中にいる少年。
その時私は写真の笑顔を眺めて、くだらない妄想を抱いていた。
「もしそうだったら、本当にあなたの言う通りかしらね」
呟いた独り言が部屋に響いて急に恥ずかしくなり、私はパタンとアルバムを閉じた。
桐生さんから四十九日も滞りなく終わったと丁寧なお礼の電話が来たのは、手術も無事に終わり、投薬治療が開始されてしばらく経った頃だった。
手術のあとも、私はスケジュールごとに一時的に入院し、体の中に薬剤を流し込まなければならなかった。投薬期間と休薬期間。その二つが1クールとして、計8クール。
医師からは、投薬期間の副反応の厳しさと、休薬期間中は血液検査をして免疫力が落ちていないかを十分確認してから一旦退院と説明を受けていたが、3クール目を終えた時点ではそこまで激しい副反応に苦しむこともなく、血液データもまだそこまで気にする必要のない値だと医師からは言われていた。
医師の許可を受けてから、私は桐生さんに先生のお墓参りに行きたいと申し出て、彼も快諾してくれた。
私は退院した翌日に特急に揺られ、一人名古屋へと向かった。
7月の終わりにしてはそこまで日差しも厳しくない昼下がり、霊園の入り口で桐生さんと合流した私は彼に案内され小高い丘を登っていく。
高台にある墓地は風通りがよく、先生の墓前には誰かが手向けた花がさわさわと風に揺れていた。
私は先生が眠るお墓の前で、じっと手を合わせ心の中で生前の礼を述べた。
「ありがとうございます」
私が顔を上げると同時に桐生さんが声をかける。
「先生は今頃、天国で本を読んでらっしゃるでしょうか」
「ええ。きっと大好きだった本を並べて、さあどれから読んだものかと思案していることだろうと思います」
「そうですね。ええ、私もそう思います」
私がクスリと笑ってスカートの膝元を払い立ち上がると、私と桐生さんの間を夏の風が吹き抜けていった。
「先生には本以外にも、もっとたくさんの事を教えて頂きたかった」
「そうですね。今となっては僕も、もう少し叔父に教わることがあったのではないか、そう思いますよ」
私はもう一度、先生の眠る榊家の墓と刻まれた墓石を見た。
「そういえば矢沢さんは、叔父の最後の教え子になるんですね」
「ええ、そうなりますね」
彼の言葉に、私は少し気になっていたことを尋ねてみた。
「桐生さん、なぜ先生は急に学校をお辞めになってしまったのでしょうか」
「ああ、叔父はその頃相当悩みを抱えていたようでして。私も詳しい内容まではわかりませんが、後から聞いた話では私の祖父母など周りの人間はかなり心配していたようです」
「そうだったんですね。私は何も気づけ無かった」
「無理もないですよ。矢沢さんはまだ子供じゃないですか。なにより叔父の方も、生徒に悟らせるようなことはしなかったでしょう」
「そうですね。先生はどんな時でも穏やかでした。私たちを叱る時も決して声を荒げたりせず諭すように話してくれる、そんな先生でした。でも、きっと私たち生徒には知る由もない心労があったのでしょうね」
「まあ想像でしかないですが、教職というのも大変な仕事なのだろうなとは思います。色々と考えなければならないことも多いでしょうし。叔父はきっとそんな日々の悩みを誰にも打ち明けられずに抱え込んでしまっていたのではないでしょうか。でも、ある日とうとう限界がきたのかもしれません。自分でもこのままではよくないと思って、退職という決断に至ったのではないかと」
あれ?
彼の言葉を聞いて、私の頭の中で何かが開くような音がした。
何だろう?彼の言葉に引っかかるようなことがあったとは思えなかったけど。
先生は何かしらの苦悩を抱えて、あの夏、私が3年生の夏休みに学校から去ってしまった。
「でも、叔父は本当にあの小学校を忘れられなかった。それは明らかです。僕も何度も教師時代の話を聞いていましたしね。そして感謝もしていました。あの時の生徒のお陰で、今の僕はあると」
生徒の、お陰で……。
頭の中で、閉ざされていた重い記憶の扉がゆっくりと開いていく。
「叔父にも誰か、悩みを打ち明けられる人がいたら良かったのかもしれません。いや、人でなくても、例えばあの雄大な自然の中で、山や川を眺めながら自分を癒せる時間があれば、彼の人生はまた違ったのかもしれませんね」
川?あの年の八月のその日。私は、川原にいた。
「読書だけが、そう本を読むことが叔父の唯一の慰みでしたから。それはその当時も同じだったでしょう」
そう、父に買ってもらった本を持って。私は川原で本を読んでいた。
そうだ。あの時、私は暑さに読んでいた本を置いて、川の方に向かった。
そこで、
そうだ、そこで私は……。
「ああっ!」
「えっ!?」
私の叫び声に桐生さんも驚いて声をあげた。
断片的だった記憶。
その記憶の扉が開き、私は今、全てを思い出した。
私は、私はあの時、
先生が服を着たまま川に入って行くのを見たのだ。
私は子供ながらにこれは良くないことだと気づいた。
そして叫んだ。
「先生!ダメ!行っちゃダメ!」
驚いた先生は振り返って私を見た。
私は無我夢中で先生に向かって泳ぎ出した。
泳いでいるのか、もがいているのか。自分でもわからないままに、私は先生に向かって必死に叫んだ。
「先生!死んじゃダメーっ!」
そして次の瞬間、私は溺れた。
私を岸に引き上げたのは、先生だった。
その後、私は病院のベッドで目を覚まし、その翌日には何事も無く家に戻った。
父も母も、私が川に入っていったことに対して咎めることはしなかった。多少はお叱りを受けたような気はする。だけど、川原で本を読んでいて溺れた。そんな娘の説明に、それ以上のことは何も聞かず、その事についてあまり多くのことは語らなかった。
そしてそのまま私とは顔を合わすことなく、先生は学校から去って行った。
「……矢沢さん、矢沢さん!どうしたんですか、突然叫んだと思ったら急に黙りこくってしまって」
桐生さんの声に我に返った私は、彼の両腕をハシッと掴んだ。
「桐生さん!先生は、学校を辞めた後もお元気にされてたんですよね!」
「えっ?ええ。名古屋に戻ってからは、しばらく実家で療養していたみたいですよ。そのうちに近所の学習塾で、講師のアルバイトをしていました。なぜそれを急に?」
「…………」
「あの、矢沢さん?」
先生は生きていてくれた。
……当たり前だ、今日ここで私は先日亡くなった先生のお墓参りに来たのだから。
きっと先生はあの日のことで責任を感じて、学校を辞めてしまった。
私は先生にどんな苦悩があったかは分からない。ひょっとしたら教師を辞めたあとも、毎日が苦悶の日々だったのかもしれない。
だけど、先生は生きぬいた。生きて人生を全うした。
そこには喜びや希望が、少なからずあったはず。
私はそう信じたかった。
「矢沢さん、あの……」
ようやく私はほったらかしにしていた桐生さんの存在に気が付いた。
「あ、あの、すみません桐生さん。私、何だか一人で突っ走ってしまって」
途端に気恥ずかしくなって俯いた私に、それまで呆気に取られていた桐生さんは優しく微笑んだ。
「どこか、涼しいところでお茶でも飲みませんか?」
霊園から少し歩いた先の、古民家を改装した和風カフェに私たちは腰を落ち着けた。
「今日はありがとうございました」
銘々が注文を済ませたあと、あらためて頭を下げる桐生さんに私も礼を述べる。
「私の方こそ。先生にご挨拶が出来て良かったです。ありがとうございました」
ほどなくして運ばれてきた冷たい緑茶と、上品な甘みのバニラアイスが体に沁み込んでいくのを感じながら、私はカフェの個室から見えるよく手入れされた庭園を眺めていた。
「矢沢さん」
「はい?」
桐生さんの声に、ぼうっとしていた私は慌てて向き直る。彼は姿勢を正し、いつになく真剣な表情で私を見ていた。
「あなたにお話があります、聞いていただけますか?」
「えっ?ええ、はい。なんでしょう?」
ただならぬ雰囲気に私も思わず背筋を伸ばす。
「僕と、結婚を前提としたお付き合いをしていただけませんか」
「…………えっ?」
「急な申し出であることは承知しています。まだ出会って間もないのに何を言うかと思われるでしょうが、だけど、僕は本気です。本気なんです」
真っ直ぐに私を見るその目は彼の言葉に偽りが無い事を物語っていた。
私は彼の言葉に驚き、しばらく声を出せずに固まっていた。
だが、そのうち言いようのない感情に心は揺れ、私は目の前にある世界が歪んでいくような錯覚に陥った。
「本当に、急ですね……」
目を伏せて私は、自分の運命を呪った。
なぜ?なぜ今なの?なぜこのタイミングで……。
叫びたい気持ちを抑え、眩暈にも似た感覚に襲われながらも、私は目の前にいる彼を見据えた。
……私が悲嘆に暮れるのは、後からでいい。
今は彼のことを。彼のために今、私ができることを……。
「桐生さん、ありがとうございます。私なんかには勿体ないお話です。あなたにそこまで思っていただけるなんて、本当に光栄です」
彼は黙って私の言葉を待った。
「ですが私はあなたのお申し出を、お断りしなければなりません」
静まり返った店内で、私は瞬きもせず彼をじっと見つめた。
長い沈黙のあと、彼はいつも通り穏やかな声で私に尋ねた。
「理由を、聞かせてはいただけませんか」
「理由……そうですね。あなたが真っすぐに私に気持ちをぶつけてくださったから、言いたくない。では通りませんね。ですから私も、包み隠さずにお伝えいたします」
黙って頷く彼を見て、私は続けた。
「私は、もう決めているのです」
「決めている?」
「ええ、そうです。はっきりと申し上げます。私は人生の時間を、他人に割くつもりはございません。言い換えれば、人生において伴侶というものを必要としていないのです。世の中の多くの女性はきっと、男性とお付き合いをして愛情を育み、いずれは結婚して、愛する人と一緒に幸せな時間を過ごす。そんな人生を思い描く方が大半でしょう。ですが、私はそうではありません。私は自分のためだけに生きているのです」
「……………………」
「私はそんな人間なんです。あなたが思うような女性とはかけ離れた存在です。ですので、私はあなたの気持ちにおこたえすることが出来ません。申し訳ございません」
私は深々と頭を下げた。
「そ、……いや、……」
何か言いかけて言葉を失った彼は、私が頭を上げたあとも、しばらく片手で口覆ったまま動かなかった。
あなたの気持ちが嬉しかった、本当に。
だけど私は今、病に侵されている。そしてそう遠くない未来、私の魂と身体は別々になってこの世から消え失せてしまう。
それだけは、伝えてはいけない。それを口に出してしまえば、優しい彼はきっと残りの時間を一緒に過ごそうと言ってくれるだろう。
そして、私が消えた後も、彼の中に私という存在がくっきりと残ってしまう。
そんな事はあってはならない。私なんかのために彼が縛られるということがあっては。
彼には彼の人生がある。
今日のことも、私と出会ってからのやり取りも全て、一日でも早く過去の記憶の中へ埋もれて忘れられるように、私は今日、彼を拒絶しなければならない。
やがて彼はゆっくりと顔をあげた。
「矢沢さん、はっきりと仰って頂きありがとうございました」
そう、それでいいの。
「こちらこそ、ありがとうございました」
あなたはどうか、前だけを見て生きてください。
改札を通り抜け、私は振り返って街に向かって頭を下げた。
電光掲示板を見上げて、乗り込む電車が表示されたホームにとぼとぼと歩いていく。
肩に掛けていたカバンを降ろし、ベンチに腰かけた途端に零れ落ちた涙は、どれだけ拭っても拭っても止めどなく溢れだし、私はハンカチを顔に押し当てて、ただ声を殺して泣いた。
何本やり過ごしただろうか。特急を待つホームには絶えず人の波が押し寄せる。
その喧騒が、その時の私には何よりもありがたかった。
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