鳴らない風鈴
2010年6月10日(木)のブログより一部抜粋
先日、会社の健康診断に引っかかってしまい、今日は有給休暇を取って大きな病院まで検査に行ってきました。
もともと貧血気味で、10代の頃から頭痛、肩こり、倦怠感といった若年寄り三点セットを抱えていた私ですが、ここ最近は常に体が重だるい状態でしたし、昔お世話になった方も体調が芳しく無いとお聞きしたところでしたので、私もこれを機にきちんと調べてもらおうと思ったのです。
病院が好きな人はあまりいらっしゃらないと思いますが、私は大の苦手です。
老若男女がごった返す待合室が、何とも言えない悲壮感と不安感に覆われているように私には見えるのです。
暗示にかかりやすい私は長椅子に座っている間中、自分も何か大きな病気を抱えているような気がしてきて、鬱々とした時間を過ごしていました。
検査の結果が出るのは来週。
またあの場所へ行かないといけないのかと思うと気が滅入りますが、早くお医者さんから「問題ありません」の一言を聞いて安心したいところです。
色々と検査したので半日潰れて疲れてしまいましたが、帰りに立ち寄ったショッピングセンターで可愛らしい風鈴を見つけ、思わず衝動買いしてしまいました。
お店の扇風機に吹かれて優しい音色を響かせていたその風鈴は、まるで夏の海を思わせるかのような澄んだ水色をしていて、疲労感とネガティブな感情に捉われていた私の心に、ひと時の癒しを奏でてくれたのです。
まだ箱にしまったままですが、明日にでも縁側に吊るそうかなと思っています。
※以下は再びブログ非公開と書かれたフォルダー内に残されていた記録になります。
2010年6月14日(月)
先週半ば(木曜日~)の出来事について。
読みかけていた本をあと少し、もう少しだけと読み進めるうちに、とうとう時計は23時を回り、ようやく堪えきれなくなった眠気に観念した私が、欠伸交じりに栞を手に取った時だった。
灯を消していた隣室でピカピカと携帯電話のランプが点滅し、着信音に設定していたパッヘルベルのカノンがループして鳴り響く。
私がちらっと時計に目をやり、体を起こして携帯電話を拾い上げると、そこには桐生さんの名前が表示されていた。
慌ててベッドに腰を下ろし、何事かと電話を耳にあてる。
「もしもし。矢沢ですが」
「夜分遅くに申し訳ございません。桐生です」
「こんばんは。どうされました?」
「実は叔父が、今日の昼過ぎに亡くなりまして……」
「ええっ?」
「すみません、出し抜けにこんな話で。思っていたよりも早かった、いや早すぎて僕もまだ実感が無いのが正直なところです。僕も仕事中だったので臨終には立ち会えませんでしたが、看護師さんからは、眠るように穏やかな最後だったと……」
あまりにも突然の彼の言葉に、私はただ黙って立ち尽くすしかなかった。
「矢沢さんにはお世話になりました。読むことは叶わなかったとはいえ、あの本も叔父の手元に置くことが出来ましたし、本当に感謝しています。ただ、これから通夜と葬儀なども控えておりまして、お約束していた白浜行はまたの機会にさせていただけませんか?」
「そんな、私は何も……。えっ?ええ、もちろんです。あの、この度はご愁傷様です」
「すみません、また落ち着いたら連絡いたしますので」
「大変な時にお知らせいただきありがとうございます。お疲れが出ませんように」
「ありがとうございます。ではまた」
通話が切れた後も私は携帯電話を握りしめ、しばらく向かいの部屋の暗闇を見つめていた。
「榊先生……」
言いようのない喪失感に包まれた私が立ち上がろうとした時、急に天井がぐるぐると回り、私はそのままベッドに倒れ込んでしまった。
目を閉じてもまだ、世界が回っているような感覚に襲われ、私は気分の悪さにしばらく身動きが取れなくなり、そのまま意識を失った。
翌日、いつの間に眠ったのかも分からないまま目を覚ました私は、何とかベッドから這い上がるように身を起こした。
眩暈はもう感じなかったが食事を摂る気にはなれず、とりあえず身支度だけを整え出社したが、自分が思う以上に酷い顔をしてふらふらの私を見て、社長を始め同僚たちは今日は帰って休むようにと促した。
例の声が後ろから聞こえたのは、せめて口当たりの良いものでも買っておかなければと、個人商店に立寄った時だった。
「よう、龍美さん。よく会うな」
「……中村君」
「昨日会ったばかりなのにな。やっぱり俺たちは運命の赤い糸で繋がれているのかもしれないぜ」
相変わらずニヤリとして、くだらない冗談ばかり言う彼に私は少しムッとして答えた。
「あなたって本当に神出鬼没ね。昨日はどうも」
「なんだよ、昨日のこと怒ってるのか?」
「怒ってなんかいません。それよりこんな時間にこんなところで何してるんですか?」
「何って、仕事だよ。ここも俺の大事な取引先なんでな。龍美さんこそ今日は仕事休みなのか?そういや顔色が良くないぜ、風邪でもひいたか?」
「私の顔色が優れないのはいつものことです」
「ならいいんだけどよ、あんまり無理するなよ。明日は白浜はだろ?大丈夫なのか?」
「その件なら、ご心配なく。白浜行は無くなりましたから」
「えっ?なんでまた?まさかあの男の身勝手に振り回されてるんじゃないだろうな」
私はどうも中村君と話すと自分のペースを保てなくなる。この時も後から冷静になって考えれば、言わなくてもいいことまで口走ってしまっていた。
「……相手さんのお身内に不幸があったんです」
「おいまさか、前に言ってた恩師とやらが亡くなったのか?」
中村君の察しの良さに驚きながらも私は黙って目を逸らした。
「そうか……」
そう言ったきり黙り込んでしまった中村君は、やがて大きくため息を吐くと、天井を見上げて呟いた。
「人が死ぬってのは、ツラいことだ」
「そうよ。これで私の気持ちも少しは分かってくれたでしょ。あなたが亡くなったと聞いて、私がどれだけ悲しんだか」
「ああ、それについては本当に申し訳ないと思ってるよ。そこまで考えが及ばなかったってのは、若さだけじゃ言い訳にならねぇ。だけどよ……」
だけど何?
私は黙って彼の言葉を待った。
「自分が死んだときに、心から悲しんでくれる人がいるってのは、ありがたいことだよな」
「そんなこと……」
当たり前じゃないかと言おうとして、私は口ごもった。
本当にそうだろうか?
私がこの世界から消えた時、それを惜しんでくれる人。そんな人が何人いるだろう。
「ああ矢沢龍美はもういないのか。寂しいことだ」そう偲んでくれる人なんて……。
「おい、大丈夫か?」
思わず考え込んでしまった私を見て中村君が声をかける。
「やっぱり今日の龍美さんは何かおかしいぜ。家まで送って行くから待ってろ。今車回してくるから」
「ううん、大丈夫よ。ありがとう、またね」
私は結局何も買わずに、何か言いたげだった中村君を押しのけるようにして店を出た。
家に戻った私は何か食べないと、とは思いながらも、一向に食欲がわかず、しばらくソファーにもたれかかってどこを見るでもなく視線を彷徨わせていたが、そのうちウトウトと寝入ってしまった。
しばらくして目を覚ますと、部屋の窓からはもう真っ赤な西陽が入り込んでいた。
ようやくのろのろと冷蔵庫に向かった時、白い箱に入ったままの風鈴が目に留まった。
……風鈴でも吊るして気分を変えようか。
私が箱から風鈴をガサゴソと取り出しかけた時、鞄の中でカノンが流れていることに気が付いた。
「もしもし、矢沢さんでしょうか」
「はい、そうです」
「私、串本総合病院の看護師、谷川と申します。昨日の検査結果でお知らせしたいことがございまして、お電話さしあげました」
「えっ?ええ、はい。あの、それはどういった?」
私の問いに看護師は一瞬口ごもったが、やがてきっぱりとした口調で言った。
「血液検査のデータに一部異常値が出ています」
「はあ。あの、それは、そんなに悪いのですか?」
「出来れば医師の方から詳しく説明させていただきたいと思っています。可能でしたら明日の朝一番に、ご家族とお越しいただけますか?土曜日ですので受付は……」
その後の話は、何も頭に入っては来なかった。
私は箱に入ったままの薄水色の風鈴を、ただぼうっと眺めていた。
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