予期せぬ再開

2010年6月6日(日)のブログより一部抜粋


 そんなわけで、昨日はずいぶんと盛りだくさんな、濃厚な一日となりました。

 人生の10年分がいっぺんにやってきたような気がするほどで、帰って来てからはすぐにダウンしてしまう有様。

 おまけに気疲れからなのか、ここ数日「豆太郎のちえばなし」ばかり眺めていたからなのか、おかしな夢を見ました。子供の頃の私と誰かもう一人、浅黒い肌の男の子が森の中を探検していて、そこに光り輝く宝物があるのに、どれだけ腕を伸ばしてもあと少しで届かない。そんなもどかしい夢でした。

 朝起きてからも何だか体が重だるくって、一日中ベッドの上でごろごろ。

 不毛な一日でしたが、明日からはまた仕事。切り替えていきたいと思います。

 



※以下はブログ非公開と書かれたフォルダー内に残されていた記録になります。


2010年6月6日(日)

昨日の出来事を残しておく。


 待ち合わせ場所に指定したカフェまでは徒歩で20分。

 明け方まで降った雨が、アスファルトのいたるところに水溜まりを作っていた。

 私はそれを避けながら、ふらふらと歩く。

 眠れなかったのは、激しく窓を叩いた雨音のせいだけじゃ無い。

 本日私に課された「知らない人と会い本を手渡す」というミッション。

 メールではやり取りしていたので全く知らない人という訳では無いけれど、いざ面と向かってとなるとやはり緊張してしまう。

 こういう時、私はいかに自分が小心者で神経質な人間であるかを思い知らされる。

 別に人嫌いという訳でも無いのに、なぜか初対面の時は構えてしまうのは何故なんだろう。

 億劫になる気持ちに合わせるように重くなる歩みと、責務を果たすために歩き出さないと行けないと思うアンバランスな心の揺れは、寝不足気味の私の足取りをますますふらつかせた。


 約束のカフェまでどうにかたどり着くと、私は一つ大きく息を吐いた。

 忘れ物は無い。本も小奇麗な紙袋に揃えて入れた。化粧はいつも通り。顔色が良くないのもいつものこと。服装だけはいつもより少しマシ。

 時計の針は約束の5分前。

 大丈夫、緊張する必要なんてない。

 そう言い聞かせて、もう一度大きく息を吸って、足元に向かってそれを吐きだす。

 扉を開き、満面の笑みで迎えてくれる店員さんに私も曖昧な笑顔で応えると、すでに待っていてくれていた彼のテーブルまで案内された。


 一番奥のテーブル席に、こちらを背にして座っている男性が見えた。

 水色のサマーセーターを着た、小ざっぱりとした清潔感のある髪型。

 後ろ姿からも漂う穏やかな佇まい。

 窓の外を見つめる優しそうな眼差し。

「えっ?」

 見覚えのあるその横顔に、私の思考は一時停止フリーズした。

 それはかつての恩師、そのものだったのだ。


「…榊、先生?」

 思わず出た小さな私の声は、薄茶色のソファーに腰掛けていた彼には届かなかった。

 彼は近づいてきた私に気づくとすっと立ち上がり、

「初めまして。桐生礼司と申します」 

 そう言って丁寧に頭を下げた。

 一瞬の沈黙の後、我に返って私も頭を下げる。

「あっあの、矢沢龍美です。本日はよろしくお願いいたします」

 緊張と驚きのあまりトンチンカンな事を口走る自分に私はしまったと思ったが、

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 彼はそう言って私を対面のソファーに促した。

 まだ落ち着かない私は、柔らかなソファーに体を預けているようでいて、空気椅子でも強いられているような感覚でカチコチに固まっていた。

 そんな私に、彼は柔和な笑顔を向ける。

「なんだか緊張しますね。本を頂きに来ただけなのに」

 そうだ、今日は本を渡しにきただけ。

 彼のその一言で心は幾分か軽くなり、私はわずかばかり冷静さを取り戻した。

「こちらが、ご希望頂いた本になります」

「ありがとうございます。頂戴いたします」

 手は若干震えていたけれど、どうにか手渡すことが出来て安堵感とともに心に余裕が広がる。

 彼は受け取った紙袋の中を検めると、また丁寧に頭を下げた。

 授与式も無事に終わり、さあこれで無罪放免かと思ったその時、店員さんが注文を取りに来た。

 彼は私の方にちらっと視線を送ると、受け取ったメニュー表を私に開いて見せた。

 そりゃそうだ、カフェに入って何も注文しないで帰るなんて非常識極まりない。

 メニュー表を見るふりだけして、私はアメリカンのブラックを注文した。

「僕も同じものを」

 店員にメニューを手渡しながら、彼は興味深げに私を見た。

「女性は甘党だとばかり思っていましたが。いや失礼、人それぞれですよね」

「私、自分で言うのも何ですけど変わってまして。小さい頃はそうでもなかったのに、大人になるにつれてだんだんと甘い物が苦手になってしまって」

「へえ、僕は子供のころからずっと苦手でしたけどね。誕生日になると母はいつもケーキでは無く、ちらし寿司を用意してくれてました」

 そう言って笑う彼につられて私も笑う。

 私たちは運ばれてきたコーヒーを受け取ると、二人同時にカップに口をつけた。


 窓の向こうに目をやると、空にはいつの間にか薄い雨雲が広がっていた。

 また降り出すのだろうか。私はコーヒーを飲みながら、ぼんやりとそんな事を考えていたが、私がカップをテーブルに置くのを見計らって、彼が口を開いた。

「この度はご迷惑をおかけしました。気を揉ませてしまってすみません」

「いえいえ、無事にお渡しできてよかったです」

「実は、この書籍は叔父へのプレゼントなんですよ」

「へえ?」

「叔父は、昔そちらの小学校で教鞭を執っていたことがありまして」

 ああ、やっぱり。もしかしてとは思っていたけど。

 私は無礼を承知で彼に尋ねた。

「あの、つかぬ事をお伺いしますが、もしかしてあなたは榊先生のご親族ですか?」

 私から出た榊という名に彼は驚いた顔をした。

「なぜその名を?ご存じだったんですか?」

「いいえ。でも、きっとお身内の方なんだろうなと思いました。だって、あまりにも先生に似てらっしゃるんですもの。私は20年前の榊先生の教え子です」

「そうでしたか。なるほど、それなら納得です。おっしゃる通り、榊浩二は僕の叔父になります。でも僕、叔父に似ていますかね?あまり言われたことは無いですが」

「ええ、とてもよく。私の記憶の中の先生が、あの時のままの姿で現れたのかと思うぐらいです」

「そこまでハッキリと言われると、本当にそうなのでしょうね。それにしても、まさか叔父の教え子の方だったとは。なんだか不思議な縁を感じます」

 彼は少しはにかんで、また一口コーヒーを啜った。


「それで、先生はお元気でしょうか」

「いや、それが」

 私の質問に、彼の表情が少し曇った。

「それが、あまりよくないのです。数年前に心臓を患いまして、それから食事制限や禁煙など頑張っていましたが、再び倒れたのが書籍を送って頂いた日の数日前です」

「まあ…」

「叔父は倒れる前に、よくこちらの小学校の話をしていました。よほど思い出深かったのでしょう。話の中に、『豆太郎のちえばなし』も出てきましてね。叔父自身もお気に入りの本だったようです。なんでも子供たちにも勧めていて、熱心に読まれる生徒さんも多かったとか」

「きっとその中の生徒の一人が私です。私も先生に勧めていただいた、この『豆太郎のちえばなし』が大好きでした。お読みになったことは?」

「もちろん。もう何度読んだかわかりませんよ。大人顔負けの推理力が魅力ですね。謎を解く時の鮮やかさといったらもう。中でも『鍵』がキーワードになる話が好きでした」

「正直の頭にカミ宿る。ですね」

「そう、それです!いやあ懐かしい。叔父に渡す前に僕ももう一度読んでみようかな」

 彼はまた紙袋の中の背表紙を見つめ、優しく本を撫でた。

「私は謎解きも好きでしたが、主人公たちの冒険にワクワクして、なぜか遠い記憶の中で私にもそんなことがあったような、そんな気にさせてくれる本でした」

 私たちはその後しばらく本の思い出を語り合い、話題はまた先生の話に戻った。


「叔父は定年を待たずにと言うよりは、随分早くに小学校を退職しましたが、その後は故郷である名古屋で塾の講師をしていました。それでも時々は小学校の事を口にしていたので、思い入れはあったのだと思います。僕はある時、叔父が勤めていた小学校のホームページを偶然見つけました。廃校になったと知って驚きましたが、図書室の本の寄贈先を探されてるのを見て、僕は真っ先に『豆太郎のちえばなし』は無いかと検索したんです」

 そうだった。先生は二学期が始まる前に突然学校を辞めてしまったのだ。

 …どうして忘れていたんだろう。

「『豆太郎のちえばなし』を見つけた時は興奮しました。すぐにあなたにメールをして、叔父に送って喜ばせてやろうと思ったんです。叔父は独身でしたので両親の、つまり僕の祖父母の家で暮らしていて、祖父母亡きあとは独りで家を守ってくれていたのですが、僕も知らない間に家の方を処分していましてね。搬送先の病院ではまだ意識はあったので、そこでその事を聞いた時はショックでしたよ。せっかく思い出の本をプレゼントしたのにって。いや、それよりも誰にも相談せずに処分を決めたこともそうですが。まあ、今となっては何を言ってもあとの祭りです。ひょっとしたら叔父は自分の死期を悟っていたのかもしれませんね」

「それは、何と申し上げればよいのか…。私も、もう一度先生にはお会いしたいと思っていたのですが…。先生の病状はそんなに悪いのですか?」

「医師からは、かなり厳しい状態だと言われています」

「そんな…いえ、すみません。そうですか…」

「とにかくこちらの事情であなたには迷惑をかけてしまって申し訳ない。バタバタしていたのでメールに気づくのも遅くなってしまって」

「いえ、私の方こそ事情を知らずにいたとは言え、申し訳ございません。どうか無事に、先生にお届けください。そして先生の一日も早いご回復を祈っています」

「ありがとうございます。病室の、枕もとにでも置かせて頂きます。またきっと目を覚ますと信じて」

 窓の外は、いよいよ振り出しそうな雲行きへと変わっていった。

 ここに来る前はあんなに億劫だったのに、現金な私はなんだか名残惜しい気になって彼に尋ねた。

「今日はこのままお帰りですか?」

「ええ。この足で叔父の病院に向かいます。本当は小学校へも行ってみたかったのですが、それはまた次の機会に」

「ぜひまたお越しください。ご案内させて頂きます」

「それはありがたい。もしよろしければ来週末はどうでしょう?」

「えっ?来週?」

「すみません。急すぎましたか?」

「いえ、特に予定は無いですけど…」

「僕はあまり社交辞令でモノを言わないタイプなので、正直に言いますね。今日は貴女に会えて、話が出来て嬉しかった。貴女さえ良ければ、僕はまたぜひお会いしたいと思っています」

「そ、そうですか…。あっいえ、私も、楽しかったです。私で良ければ、はい。ぜひ」

「良かった。じゃあまた来週の同じ時間に。そうだ、他に行きたい所があれば僕で良ければご一緒しますよ」

「行きたいところ?うーん、そうですね」

 ふいに言われて、私は無い頭をフル回転させたがどこも思いつかなかった。

 こういう時に働かない自分の頭が本当に腹立たしい。

 考え込む私を見て、彼が助け船を出した。

「では、白浜なんてどうでしょう?ここからだと遠いんですか?」

「えっ?白浜ですか?そうですね、車ならたぶん、1時間ぐらい?でしょうか」

「確かパンダがいるんでしたっけ」

「ええ、パンダ、いますね。私は好きじゃないですけど」

「ハハハ。パンダに何か怖い思い出でも?」

「いえ、私には白と黒のクマにしか見えないだけです。すみません、変な女で。でも白浜なら、誰もいない海をぼおっと眺めるのは好きです。今はシーズンオフですし」

「決まりですね。白浜の海が見える所に行きましょう。それこそカフェか公園か、良さそうなところを調べておきますよ」

「嬉しい。楽しみにしておきますね」

 私たちはそのあと、会計をどちらが出すかで一悶着し、自宅まで送って行くと言う彼と、申し出を固辞する私とで二悶着したが、結局私は彼の意見に従い、支払いを 済ませた彼に礼を言って、前を歩く彼の後ろをのろのろとついて行った。

 

 雨はもういつ降り出してもおかしくない空模様だった。

「何だこれは!」

 前を進んでいた彼の大きな声に驚いて、空を見上げていた私は思わず彼の方を見た。

 彼の車は高級外車の大きなスポーツカーだったが、その車の前に黒塗りのセダンが行く手を阻むように横付けされていた。

「やっとお戻りかよ。ずいぶん待たせてもらったぜ」

 セダンから現れた男性はそう言って彼の前に仁王立ちになった。

 見るからにガラの悪そうな強面の男性は、黒地に白のストライプが入ったスーツ姿で、首と両腕に金のアクセサリーをじゃらじゃらと付け、この曇天の中サングラスをかけていた。

 しかし、そんな男性にも一向に怯むことなく、彼は毅然と男性の前に立った。

 私は急な展開にただオロオロと、彼と男性を交互に見つめていた。

「どういうつもりですか、僕の車の前に横付けするなんて。これじゃ車を出せないじゃないか」

「わざと塞いでやったんだよ。一言文句言ってやろうと思ってな」

「文句だって?」

「ああそうだ。いいか?あんたがバカデカい車をこんなとこに停めたせいで、見てみろ。スロープの出入り口が塞がってしまってるじゃないか」

 確かに、言われてみると彼の車のリアバンパーが、階段横に備え付けられたスロープにかかっていた。

「これじゃ、階段を昇れないお年寄りや車椅子の人が困るだろうが。悪いが俺はこういうのは見過ごせないタチでね」

 男性の言葉に、彼の顔色がさっと青くなった。

「いや申し訳ない、これは配慮が足りなかった僕が悪い。すみませんでした」

 彼は素直に非を認めると頭を下げた。

「ふん、やけに素直じゃないか。けど、気をつけてくれないと困るぜ。現にさっきだってシルバーカーを押したバアサンが通りづらそうにしてたんだからな」

「本当に申し訳ないことをした。すみません」

「謝るんなら、俺じゃ無くてバアサンにしろよ。もうどこ行ったかわかんねぇけどよ」

「あの、彼もわざとじゃないんです。ご迷惑をかけたのは謝りますから車をどかしてもらえませんか」

 何度も謝る彼に堪りかねて、私も一緒に頭を下げた。

「ああ、わざとじゃないってのは分かったからよ。俺の話はこれで終わりだ。次からは気をつけてくれ…ん?」

 強面の男性はそう言いかけて、今度は私の方をじっと見た。

 私は反射的に彼の後ろに隠れ、彼も私を守ろうと庇うように私の前に立つ。

 だが、男性から出た言葉は予想外のものだった。

「もしかして、あんた龍美さんか?」

「えっ?」

 ふいに名前を呼ばれて、私は一瞬何が起こったのか分からなくなった。

 彼も状況がよく飲み込めていないようで、怪訝な顔をしている。

 そんな私たちの様子などお構いなしに、

「やっぱり龍美さんじゃないか。いやー変わって無いな!」

 そういって男性はサングラスを外すと、私に向かってニヤリと笑ってみせた。

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