第33話 ジオ=ギルバース

(なんだこれは……)

 ジオ=ギルバースは、周囲には目もくれず、全力で馬を走らせていた。ただ、一直線にバルサー要塞に向かう。

 一心不乱とは、まさにこのことだ。

 一刻も早く、この救いがたい戦場から離脱しなければならない。

 バルサー要塞に辿り着きさえすれば、追撃を恐れることもないのだ。ログナーが難攻不落なんこうふらくと恐れたバルサー要塞の堅牢けんろうな城壁ならば、ガンディアの猛攻もうこうにもびくともしないはずだ。

 例え、戦局をくつがえすほどの武装召喚師ぶそうしょうかんしであっても、要塞を破壊することなどできるわけがない。

 とはいえ。

(なんだこの状況は……。この有様は……!)

 いつにない焦燥感しょうそうかんが、ジオの意識をき乱していた。心拍数しんぱくすうが跳ね上がり、呼吸すらもままならない。周りが見えなくなっていた。

 ただ、前方だけを見ている。

 嘘みたいに晴れやかなバルサー平原を越えた先に、要塞の威容が待ち受けていた。

 ガンディアの北の門とでも言うべき強大な要塞は、いまはログナーの支配下にあるのだ。その門の中に飛び込めば、彼の心も落ち着きを取り戻すだろう。

 だから、いまは焦っていても構わない。

(なぜこうなった……!)

 ジオは、歯噛はがみした。

 馬上、彼の視界は狭くなる一方だった。頭の中がぐるぐると旋回しているような感覚が、彼の意識を狂わせていく。

 敗走。

 完膚かんぷなきまでの敗北だった。

 会戦当初、数ではこちらが上回っていたはずなのだ。

 バルサー要塞に駐留ちゅうりゅうしていたすべての兵をもって組織した大軍勢であり、ジオの力量からすれば到底采配しきれないような人数ではあったが、今回ばかりはそんなことを心配する必要はなかったのだ。

 力押しでよかったからだ。

 兵力が上回っているだけではない。

 ガンディア軍を指揮するは、此度こたび初陣ういじんとなる若き国王レオンガンド・レイ=ガンディアだ。

 その事実は、ジオにとって吉報以外のなにものでもなかった。

 戦場に立ったこともなければ、指揮を取ったことなどあるはずもないものに、負けるいわれはなかったのだ。

 なにより、レオンガンドはうつけと呼ばれ、ガンディア国内での人気もかんばししくない。となれば、兵の士気も俄然がぜん低いはずだろうと、彼は踏んだのだ。

 そもそも、ガンディア軍は弱兵じゃくへいだというの周知の事実であり、あちらの戦意が高かろうと低かろうと、ログナー軍の相手にならないのはいつものことなのだ。

 無論、ガンディアの同盟国であるルシオン、ミオン両国からの援軍だけには注意しなければならなかった。

 二国の援軍の動き次第では、手痛い打撃を受ける可能性がある。

 しかし、それらは結局のところ、ジオ=ギルバースの頭の中で造り上げた絵空事えそらごとに過ぎず、現実はもっと凶悪きょうあく鮮烈せんれつな一撃を叩き込んできたのだが。

(おれがどこで間違えたというんだ……! なにを……)

 武装召喚師の存在を考慮しなかったわけではない。

 軍に武装召喚師を編入するのは、今やこの大陸において常識になりつつあった。

 だからといって、すべての国が優れた武装召喚師を満足いくほど数を揃えられるかというと、そうではない。

 武装召喚師の数にも限りがあるし、だれもが戦争を好むわけでもない。

 その上、仕官先を求めるにせよ、将来性のなさそうな小国よりも、安定感のある大国に足が向くのは当然のことだ。

 故に、小国同士の戦争で前線に出てくるような武装召喚師は、大抵が程度の低い術師であり、それらが召喚する武装も期待はずれの性能を見せることが多い。それならばむしろ、普通の傭兵を雇うほうがいいのではないか、というのが小国の取りがちな結論である。

 もっとも、ジオはログナーにいる以上、用兵次第では戦局を左右しかねない武装召喚師の恐ろしさを身をもって知っていたし、だからこそ、ウェイン・ベルセイン=テウロスなどという厄介な男を飛翔将軍から引き離してきたのだ。

 多少強引な手段ではあったが、その判断は間違いではなかった。

 ウェインの力がなければ、今頃、ログナー軍は瓦解がかいしていたに違いないからだ。

 たったひとりの武装召喚師の手によって。

 不意に――。

『――将軍?』

 ジオの脳裏のうりよぎったのは、ひどく穏やかな青年の声だった。青年はいつだって温和おんわであり、常に微笑を湛えているような、そんな風情があった。

『ジオ=ギルバース将軍? どうなされました?』

『いや、大したことじゃない。続けてくれ』

『……では、話を続けましょうか』

 彼がその青年と出逢であったのは、いつのことだったか。

 ログナーがバルサー要塞を攻略した後だというのは覚えている。だとすれば、少なくともここ半年の出来事だろう。

 青年との邂逅かいこうに関する記憶が定かでないのは、その当時のジオが荒れていたからに他ならない。

 難攻不落のバルサー要塞を落としたということで、ログナー国内はあきれ返るほどに沸き立っていた。

 まるでおとぎ話のような逆転劇と、それを演出した謎の少年の存在、そして、飛翔将軍アスタル=ラナディースのその異名に恥じぬ絢爛けんらんたる活躍は、国民の間で鬱積うっせきしていた感情を解き放つには十分すぎたのだ。

 ザルワーンに屈して以来、どれほどの間、かの国の暴慢ぼうまんに耐え忍んできたのか。

 いや、そもそも、現国王の振る舞いそのものからして、国民にとっては耐え難いものだったに違いない。

 政務を怠り、遊興ゆうきょうふける現王キリル・レイ=ログナーの存在そのものが、国民にとって頭痛の種であり、絶望そのものであった。

 それは考えようによっては、うつけが即位したガンディアよりもひどい状況だったのではないか。

 しかし、そういった暗くよどんだ空気を吹き飛ばすような情報が、ログナー全土を踊った。それが、バルサー要塞攻略の報せであり、飛翔将軍及び青騎士、赤騎士の活躍の報であった。

 それらは国民の溜飲りゅういんを下げるには十分すぎるものだったが、ジオとしてはなにひとつ面白いものではなかった。

 当然だろう。

 仇敵きゅうてきの如く忌み嫌っていたアスタル=ラナディースが、かつて彼が何度となく挑んでは敗走を繰り返してきた要塞を、事も無げに攻略してしまったのだ。

 これではまるで道化ではないか。

 彼が、アスタルへの憎悪を深めたのは言うまでもないだろう。

 そんな頃だ。

 その青年――ヒース=レルガと出逢であったのは。

『将軍は、御自分のこと卑下ひげしすぎではありませんか。二十代で将軍にまで上り詰めたのです。もっと胸を張っていいのではないですか?』

 ヒース=レルガの言葉は、非常に心地が良く、失態しったいに次ぐ失態で落ち込んでいた当時のジオには、さながら救い主の声のように響いた。

『ザルワーン本国でも有名ですよ』

『ザルワーン……? きみはザルワーンの人間なのか?』

『はい。ミレルバス=ライバーン様の下で働いています』

『はっ……どうせ、無能将軍なんだろう?』

『まさか。ジオ=ギルバースは将来ログナーを背負う人材になるだろうというのが、我が主の評ですよ』

 それはきっと、こちらの機嫌を損ねまいとする青年なりの気遣いだったのだろうが、当時のジオにとっては、その気遣いだけで涙が出そうなほどに嬉しかったのだ。

 だれもが無能将軍と陰口を叩き、彼を見る目にはあらゆる感情が存在しなかった。

 だれもが、彼を黙殺もくさつした。

『将軍、ひとつ、お話しがあるのですが』

『なんだ? ヒース』

 彼が、こちらのことを心から気遣う青年に対し、すぐさま心を許したとしても仕方がなかったのだ。

『将軍はこの現状に満足していますか?』

『現状?』

『バルサー要塞攻略という手柄を奪ったアスタル=ラナディースは、今や時のひとです。ガンディア侵攻時の総大将ではないかとさえ噂されています。しかし、本来ならば、将軍こそがその位置にいるべきなのです』

『なにを……おれは、何度も失敗した男だぞ……?』

 彼は、青年の言葉に困惑した。

 実際、言っている意味がわからなかった。

 気が狂ったとしか思えないような論理だった。

 だが。

『将軍こそ、なにを言っているのですか? アスタルが要塞を落とせたのは、ただの偶然ではないのですか? もし、あのとき、クオン=カミヤが手を貸さなければ、アスタルの敗走は必死だったはずです。逆に言えば、あのとき軍を率いていたのが将軍であっても、同様の――いえ、それ以上の勝利を掴んでいたのではないですか? 将軍、立ち上がりましょう。でなければ、だれがログナーの将来を背負うというんです!』

 ヒース=レルガの全身全霊の訴えは、ジオ=ギルバースの閉じかけていた眼を開かせ、屈折くっせつした感情を爆発させるに至った。

 そうして、ジオ=ギルバースとヒース=レルガの暗躍が始まったのだ。

(そうだ……ヒース。ヒース=レルガ。あの男だ。あいつがおれに囁いたんだ……!)

 ジオは我に返ると、ふと違和感を覚えた。兵士たちの気配は愚か、馬の足音ひとつ聞こえなかったのだ。

『将軍、此度の戦、必ず勝ちますよ』

 背後を振り返ったジオの視界には、自軍の兵士などひとりも映らなかった。

 遥か後方から、ガンディア軍からのわずかばかりの追撃部隊が追走してくるのが見えただけだった。

 まるでどこかへと消え去ったかのようであり、彼は、一瞬混乱した。なにが起こったのかまったくわからなかったのだ。

『相手はガンディアのうつけ。取るに足らぬ相手です』

 彼は、かぶりを振った。

 大敗をきっしたとはいえ、数にして五千以上の兵士は生き残っていたはずである。

 そのすべてが敵軍の追撃にあって敗れ去るなどということは、あってはならない。というより、ありえないだろう。

 敵軍にとっておきの切り札でもない限りは。

統率とうそつも取れていない様子でした。兵の数も練度もこちらが上。恐れる必要はありません』

 彼は、前方に視線を戻した。もはや兵士のことなど考えている場合ではなかった。要塞が目と鼻の先のところにまで来ていた。要塞の中に飛び込むしかなかった。

 そこにさえ辿り着けば、状況を挽回ばんかいしうるものだと、信じていた。

『全兵力を以てガンディア軍をもみ潰し、その勢いでマルダールを落とし、ガンディオンをも飲み込みましょう』

 ジオは、そこで、はたと気づいた。

 要塞に駐留していた全兵力を放出した以上、いま、たったひとりで要塞に駆け込んだところでいったいなにができるというのだろう。もちろん、要塞を機能させるのに最低限必要な人員は残してある。しかし、それだけではどうしようもないのではないか。

『将軍こそがログナーの英雄なのだと、知らしめてやるのです』

(夢みたいなことを……)

 なぜ、そんな言葉に心がおどったのだろう。

 そんな疑問とともに彼は天を仰ぎ、そのとき、バルサー要塞に掲げられたログナーの旗が紅蓮と燃え上がっていることを認めた。

 要塞は、とうに陥落かんらくしていたのだ。

 全兵力を放出したがために。

「くくく……ははは、あっはっはっはっはっ」

 ジオ=ギルバースは、ここ数年来の大笑いをした。

 笑うしかなかった。

 前方――バルサー要塞の開かれた正門の前には、群青の鎧に身を固めた兵士たちが弓を構えており、ジオ=ギルバースの到着を今か今かと待ち焦がれている様子だった。

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