第8話 竜と炎の口づけを
街道で出会った人々と別れてほどなく、カランらしき街が見えてきた。
いや、街が見えてきたというようなものではない。赤々と燃え上がる炎と、
石柱の街道、その遥か先。
「あれが……!」
セツナは、全力で駆け出した。
炎を目撃した瞬間、怒りが爆発的に膨れ上がっていた。焼け出された人々の姿が、少女の涙が、セツナの
そう思うと、急がなければならなかった。
カランを覆う
遠目に見れば、街そのものが紅蓮の炎の塊に見えた。
許せなかった。
理不尽な暴力に対する、本能的な反動が、彼を突き動かしていた。
セツナの根幹をなす感情が、足を炎の街へと向ける。
飛ぶように
街道を駆け抜けているうち、たくさんの人々が街道の脇に避難しているのが見えた。カランの住民だろうか。炎に巻かれた
人々の恐れを抱いた瞳が、街道を突っ走るセツナに集中した。炎から逃げ出す人々には、
街道を突き抜け、燃え盛る炎の中へ。
それは正に地獄の
燃え盛る紅蓮の炎は、まるで狂ったように舞い踊っており、小さな街の建物という建物を燃え上がらせていた。
なにもかもが真っ赤に塗り潰され、猛烈な熱気が大気を
だが、セツナに
ただ、前進だけがあったのだ。
カランは小さな街だった。想像上の中世を思わせるような、しかし、どこかが根本的に違うようなそんな町並み。
「こっ、こらっ、きみっ!」
突然呼び止められて、セツナは、そちらを振り返った。
「なんだよ、こっちは急いでるんだ!」
「ここは危険だ! すぐ引き返しなさい!」
セツナの叫びを掻き消すほどの大音声を上げてきたのは、若い男だった。二十代そこそこだろうか。全体的に赤みがかって見えるのは、炎に包まれた街の中だからだ。
ぴっちりと横わけにされた頭髪が焦げかけている。しかし、男は気にもしていない様子だった。全身から大量の汗を流しながら、セツナを睨んでいる。少しばかり
炎が
「それはできない」
セツナは、乾ききった喉の中から声を
そして腰に帯びた剣が、ここが異世界なのだと思い知らせてくるようだった。
「ここはもう危険なんだ! 我々の誘導に従い、さっさと避難するんだ!」
男の警告は、もっともだった。その通りだ。ぐうの音も出ない正論だ。だが、従えない。
セツナは、男の目を見つめた。男が一瞬たじろぐのがわかる。
「避難したら、それでいいのかよ」
「なに?」
男が
むしろ、狂気に突き動かされている。
「この街を焼いた奴がいるんだろ? そいつはどうなる!」
「……安心しなさい。協会に武装召喚師の出動を要請した。すぐに駆けつけてくれるはずだ」
男は、こちらを落ち着かせようとしたのだろう。努めて冷静に告げてきた。駄々をこねる子供に言い聞かせるような口調だった。
セツナは激しく
「待てねえよ」
「なぜだい? 生き残ったひとはみんな町の外に避難しているんだ。なにも心配は――」
「あの子が、泣いていた」
告げると、セツナは進路に向き直って駆け出していた。
理由ならそれだけで十分だ。
セツナは、そう信じた。少女が泣いていたのだ。命を張る価値は、十二分にあるはずだ。
「おい、きみはなにを言って――!?」
制止の声など、途中で聞こえなくなっていた。轟然たる炎の渦が、まるで音を遮断するように吹き
炎に飲まれた街の中を、ひた走る。
いつ果てるとも知らない猛火の中を進むセツナは、次第に体力が奪われていくのを感じていた。猛烈な熱気の中だ。全身から大量の汗が噴き出している。体力は奪われ、呼吸もままならない。意識が
見知らぬ町の中。
どこをどう進めば敵に
空まで赤く燃え、まるで世界の終わりのような有り様だった。
それでも、セツナは、カランを焼いた男を捜して走り続けた。視界がぼやけた。だが、止まらない。喉がカラカラだった。それでも、前に進む。ひたすらに前進する。既にそれしか考えられなくなっている。
入り組んだ街ではなかった。ただ、立ち上る炎の壁や火柱の所為で進めない場所がいくつもあった。そのたびに進路を変えざるを得ない。
そうして何度目かの軌道修正をした後だった。
「燃えろ燃えろもっと燃えろ! 世界の果てまで焼き尽くせ!」
狂ったような男の大声が、セツナの
失意が、男の声の奥に潜んでいる。
街の中心辺りだろうか。
広い公園らしい空間だった。真ん中に噴水があり、猛然たる業火に彩られた世界で、水の柱が吹き上がっている。赤く輝くそれは、血のようにも見えた。
その噴水の近くに、男が立っていた。長身痩躯、長すぎる頭髪は、真紅の猛火に照らされて赤々と燃えているようにも見えた。両目は釣り上がり、狂気じみた表情を作り出している。紅蓮に染まった世界。男を構成する色彩はわからない。
痩せ細ったような長躯に纏うのは、どこかの制服だろうか。入り口で出会った男たちの軍服に近い
先端に竜の頭部を模した装飾が解かされた、杖。
「もっと! もっとだ! 世界の果てまで!」
セツナは、絶望的な笑い声を上げる男を目の当たりにして、頭の中が急激に冷えていくのを認めた。怒りは、熱を帯びるのではなく、冷ややかに研ぎ澄まされていく。
こんなことは初めてだった。
男の馬鹿笑いがそうさせたのかもしれない。
こんな男が、あの少女を悲しませたのか。
失望に似た感情だった。
告げる。
「街ひとつ燃やして、世界の果てかよ」
セツナは、一歩一歩踏みしめるように、男へと近づいていた。公園の中にはいくつものベンチが整然と並べられていたが、そのどれもが炎に包まれていて原型を保っていない。じきに焼き尽くされてしまうだろう。
公園のそこかしこに植樹されていたらしい木々も同様に、炎と燃えている。なにもかもが燃えている。だが、世界の果てには届くまい。
小さな、きわめて小さな世界だ。
だが、あの少女にとっては天地のすべてだったのかもしれない。
そう思うと、やりきれなくなった。
熱風が、セツナの顔をなぶった。
「なに……?」
男が、ようやくこちらに気づいたようだった。その目が、こちらを睨む。一瞥しただけで狂っているとわかる目だった。だが、恐怖は感じない。
間合いは、五メートルもなくなっている。その距離に近づくまで、相手はセツナに気づいてもいなかったのだ。笑うことに集中していた。
セツナは、男の顔が歪んでいくのを見ていた。怒り、なのだろうか。男の表情は、瞬く間に
吐き捨てる。
「くだらねえ」
「ガキになにがわかる!」
男が、目を見開くと同時に、その右手の杖を振り
セツナは、即座に後ろに飛び
「わかんねえよ」
男が、杖をこちらに突き出してくる。竜の頭がこちらを捉えた。竜の顎に集約した
「あんたのことなんざ、知りたくもねえ」
着地と同時に右前方に跳ぶ、足の怪我のことなど、考えている暇もない。
男が告げてくる。
「桃色接吻(ブレイズ・キッス)」
男の杖が、咆哮した。竜の口から閃光が生じる。拳大の火球が瞬時に膨張し、半径にして一メートル以上の炎の塊となる。そして解き放たれ、あっという間もなく、さっきまでセツナが立っていた場所に着弾した。炸裂し、爆炎を舞い上げる。
セツナは、背中に嫌な汗を感じた。あのまま動かなければ、蒸発させられていたのではないか。
「やるじゃないか」
男の声に、多少の
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