第3話 武装召喚

 人間、予想だにしない事態と直面すると、混乱するものだ。取り乱し、狂態きょうたいさらし、取り返しの付かない状況に陥ってしまう。

 セツナが、そんな状況にありながら冷静さを保つことができたのは、ひとえにこれが夢だという前提があったからだ。

 夢ならばどんなことが起こっても安心していられる。どんな結末を迎えても、目が覚めればなにもかも元通りだ。悪夢は記憶の奥底に追いやられ、日常の中で忘却していく。

 だからこそ、セツナは自分たちを包囲するように飛び出してきたそれらを観察することができたのだろう。

 それは、ある世界においては極めてありがちな存在だといえた。セツナの知りうる限りのファンタジーにおいては、それらは往々にして、人間に敵対し、人間を襲い、人間を殺した。

 有体ありていにいえば、

「モンスターか!」

 セツナは、思わず大声を上げていた。

 木々の枝葉が織り成す天蓋てんがいの下、横たわる闇は重く、深い。その闇の中で、ぎらぎらと輝く無数の紅い光点がある。それらは化け物どもの眼であり、その数え切れないほどの視線は、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを以て、セツナの意識に突き刺さってくる。これほど強い悪意を感じたことはなかった。

 なにもされていないのに痛みを覚えるほどだ。

 セツナは、呼吸を求めてあえいだ。意識が朦朧もうろうとする。数多あまたの殺意は、まるで抜き身の刃そのもののようだった。触れるだけで切り裂き、血が流れるのではないかと思えるくらいだ。

 夢だという前提があっても、冷静さが失われていく。恐慌は起きない。混乱はしない。だが、それでも、自分の思考がまともではなくなっていくのを認めざるをえない。

(夢なのに?)

 疑問符が浮かんだ。悪夢でも、ここまで圧倒的な現実感を覚えることはあるのだろうか。手の平に汗が浮かんでいることに気づいた。

 恐怖が、あった。

皇魔おうま、と、ひとは呼ぶ」

 アズマリアの声が聞こえた。

 その冷厳たる声のおかげなのか、化け物どもの殺気が和らいだように思えた。それは気のせいなのかもしれない。が、なんにせよ、求めていた空気がゆっくりと気管を通り、肺を満たしていく。冷ややかで、どこか歪な空気。

 しかし、セツナにとっては救いになった。

 冷静さが、わずかに取り戻される。

「かつて、大陸をその圧倒的な武力によって統一支配したものは、みずから聖皇せいおうと名乗った。聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーン。彼がもたらしたのは、安寧あんねいや平和とは程遠いものだった。彼は、異世界いせかいの神々を召喚したのだ」

 セツナは、アズマリアの解説とも物語とも取れない言葉を聞きながら、改めて前方の化け物を直視した。

 まさしくモンスターという言葉そのものの存在だ。異形の四足獣とでもいうべきか。しかし、獣というのははばかられるような姿ではあった。

 奇怪な流線型りゅうせんけいの頭部を持ち、のっぺりとした顔面には四つの眼孔がんこうだけが空いている。口も鼻も見当たらなければ、耳の穴などもない。眼孔から漏れる赤い光が、時より明滅しているように見えた。

 全身が群青の表皮に包まれており、長い手足の先にはなたのような爪らしきものがある。背中には一対の突起物があった。尾は、螺旋らせんを描くように伸びている。

 アニメや漫画で見たこともなければ、セツナが頭の中で作り上げた記憶もない化け物だ。奇妙かつ不気味で、見ているだけで不快感を覚えるような存在。

 そんな姿の化け物たちが、セツナとアズマリアを取り囲んでいるのだ。数にして、五十は下らないだろう。

 無数の眼光が、森の闇の中に明滅していた。

「異世界の神々の力を用いてまで、星桜がなにをそうとしたのかなど、いまの我々には知る由もない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。それは、召喚された神々に引きられて、異世界の魔物どもがこの大陸に流れ着いてしまったということだ。それが聖皇の魔――皇魔だ」

 奇怪な金きり音のようなものが森の空気を激しく震わせたのは、アズマリアが解説を言い終わった直後だった。

 不愉快ふゆかい極まりない不協和音ふきょうわおんが、津波つなみとなってセツナの意識に押し寄せてくる。耳を防ぐ暇もない。いや、たとえ耳元を覆ったとしても、その破壊的な雑音の波動は、わずかな間隙を縫ってでも鼓膜こまくに達し、セツナの脳を揺らしただろう。

「っ!?」

 セツナは、世界が歪んでいくような感覚に襲われた。乱暴な破壊音の羅列られつの中で、視界がひずみ、割れていく。手の感覚が失われた。それが最初だったのかもしれない。つぎに足の感覚がなくなり、全身が揺れた。立っていられなくなる。

(なんだ……!?)

 理解しがたい事態じたいに陥ったセツナは、どうすることもできないまま、前のめりに倒れていった。眼前に迫り来る地面に、胸中で悲鳴を上げる。手が動かないのだ。顔面を庇うことすら許されず、おもむろに強打する。

 顔面に衝撃が走り、激痛を覚えた。

 夢の中で痛みを感じることだってあるだろう。

 とっさにそう言い聞かせるものの、頭蓋ぐざいを揺らすほどの痛みに半泣きになる。現実的な痛みだった。夢ならば覚めてもいいはずだ。だが、聞こえるのは時計のアラームではなく、アズマリアの声だ。

「さあ、どうする?」

 アズマリアは、セツナに決断を迫ろうとしているようだった。

 セツナは、少し腹が立った。いつまでそんなに超然ちょうぜんとしているつもりなのだろう。無事ならば、助け起こしてくれてもいいではないか。

 夢ならばなおさらだ。

 いや、たとえこれが夢ではなくとも、助けてくれてもいいのではないか。地に伏したまま考えるのはそんなことしかない。雑音は、既に聞こえなくなっていた。

「そのまま皇魔に殺されるのを待つか、それとも、武器でも手に取って戦うか。無論、選択肢はふたつではない。この場から逃げ出すことだって――いや、無理か」

 彼女の実にどうでもよさげな口調に、セツナは、キレた。

「だあああああっ! うっせええ!」

 顔面を地面から引き剥がすと、怒号とともに跳ね起きた。不協和音の中で失われたはずの感覚は、いつの間にか元に戻っていた。正常化した視界には、こちらに向かって近づいてくる数体の怪物――皇魔の姿があった。まるで地を這うような歩行方法は化け物に相応しい。しかし、その素早さは油断ならないものがある。

「ぐお!?」

 セツナが悲鳴ともつかないなんとも奇妙な声を発したのは、化け物の一体が、既に眼前にまで接近していたからだ。紅く輝く四つの眼が、こちらを見据えていた。眼孔から発せられる光は、殺意そのもののように思えた。

 セツナは、皇魔の視線に震えるような刺激を感じた。体が、思うように動かなかった。すぐさま後ろにでも逃げなければ、目の前の皇魔の餌食えじきになる。そんなことはセツナにだって理解できたし、なんとかしたいのは当然の話だった。だが、全身がいうことを聞かないのだ。

 金縛りにでもったかのように、動かない。

 皇魔は、まさにあと半歩という距離にまで到達していた。皇魔の前足の爪が、鈍く光ったような気がした。

 いや、それは錯覚などではない。

 皇魔が、上体を掲げ、前足を振り上げた。鉈のような爪は、いまこの瞬間、セツナにとっては死神の鎌そのものだった。

 夢だと断じることは、もはやできなくなっている。

 顔面を強打した瞬間、すべてが現実味を帯びた。覚醒をもたらさない激痛が、鼻の穴を通り抜ける砂埃が、舌の上に跳ねた土の味が、現実感を確実なものとする。

 目の前の化け物も、周囲の化け物達も、森も、アズマリアも、現実のものとして認識している自分がいる。

 夢ではない。

 目前に迫った死も、現実そのものだ。

(動けよ……おれ!)

 セツナの悲痛な心の叫びは、むなしく胸中で反響するだけだ。肉体は恐怖に縛り付けられたまま、死の宣告を待っている。破滅の足音が聞こえた。

 そのとき、アズマリアの声が聞こえた。

「まあ、戦うのなら〈武装召喚ぶそうしょうかん〉とでも、いってみたらどうだ?」

 それは天使か悪魔の囁きか。

「武装召喚!」

 セツナは、アズマリアの声を耳にした瞬間、反射的に叫んでいた。なんの逡巡しゅんじゅんもなければ、躊躇ちゅうちょもない。あらん限りの大声で叫んでいた。

 全身全霊の絶叫。

 魂そのものが咆哮ほうこうしていた。

 身体中が沸騰するような感覚があった。

 死にたくない一心で、叫んでいたのだ。

「それでいい」

 セツナの全身――黒と白を基調とした学生服ではなく、手や顔面などの露になった肌に、無数の光線が走った。それは複雑で幾何学的きかがくてきなな紋様を描き出すと、次の瞬間、爆発的な光を発散した。鮮烈で圧倒的な閃光の拡散は、森の闇を一時に払い除け、セツナを凝視していた化け物たちの視覚さえ狂わせたかもしれない。

 心地よい解放感の中で、セツナは、なにものかの声を聞いたような気がした。気高く、美しい声だった。それは幻聴げんちょうではない。幻想でもない。だが、どんな言葉で、なにをいっているのかは忘れてしまった。それでいいのだろう。なぜだかわからないが、そんな確信がある。

 いつの間にか閉じていた目を開き、両手を頭上に掲げる。そうしなければならなかった。それだけは理解する。

 両手の中に、かなりの重量が生まれた。

 セツナは、それを握り締めると、おもむろに振り下ろした。気合を込める必要もなかった。ただ、振り下ろせばよかったのだ。

 セツナの眼前で片足を掲げたまま硬直していた化け物が、あっさりと、真っ二つに両断された。手応えさえなかった。包丁で豆腐を斬るのと同じような感覚だった。化け物が柔らかいのか、手にしたものの切れ味があまりに尖すぎたのか。

 どちらにせよ、セツナは唖然あぜんとした。

 セツナが断ち切った化け物の体から噴き出すのは、どす黒い血液と体液だ。視界を染めたそれらがセツナに振りかかることはなかった。なぜなら、彼の肉体は既に空中にあったからだ。

 手に握っていたのは、漆黒の矛だ。

 全長はセツナの身の丈を軽く超え、その禍々しくも破壊的な穂部ほぶだけで十分な長さがあるように思えた。長大なつかは、黒いという以外にはこれといった特徴は見受けられない。石突には透明感を帯びた宝石がはめ込められていて、それが強く存在感を放っていた。

 セツナの体から溢れていた光はとっくに消え、森は再び闇に包まれた。静寂はない。皇魔の奇怪な声がこだましている。同胞の死をいたんでいるのか、それとも、セツナに怒りや憎しみをぶつけているのか。

 彼は、枝葉の天蓋の間で、闇に蠢く皇魔どもの位置取りを把握はあくした。紅い眼光を放つ化け物たちは、それだけで闇での戦いに不向きだ。五十体ほどが、セツナの姿を探して視線をさまよわせている。何体かがこちらを捕捉ほそくした。はげしい殺意を感じる。だが、先ほどのように気圧されたりはしない。

(こんなものか)

 滞空時間が終わり、地へと降下する最中、セツナは化け物たちの脆さに哀れみすら覚えていた。手の中に生まれた武器の一閃で終わる、儚い命。もはや恐怖はない。といって、興奮が身を震わせることもない。冷静にこの状況を把握しようとしている。並び立つ木々の位置、皇魔の動き、アズマリアの視線。いろいろな情報が頭の中に飛び込んでくるが、混乱はしなかった。

 夢ではないと悟ったにも関わらず、だ。

 そして、

 着地したセツナは、かさず前方に向かって跳んだ。低い軌道。木の根元でこちらを索敵でもしていたらしい化け物を、矛の一突きで絶命ぜつめいさせる。良心の呵責かしゃくなどはなかった。相手は化け物なのだ。遠慮はいらないだろう。

 それに、攻撃してきたのは向こうが先だ。

 これは正当防衛に他ならない。

(過剰防衛……か?)

 かぶりを振る。

 殺さなければ、逆に殺されてしまうかもしれない。実際、殺されかけている。夢ではない。感覚がそう告げている。悪夢ですらないのなら、殺されてやる道理はない。どんな理由であれ、死ぬのは御免ごめんだ。

「ふん」

 セツナは、背後からの殺気に即座に対応した。振り向き様の一閃で、こちらに殺到してきていた五体の皇魔を薙ぎ払う。

 嵐のような斬撃が、化け物の肉体をばらばらにした

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る