第一部 黒き矛のセツナ

第1話 ふたたび、産声を

 光が、螺旋らせんを描いていた。

 網膜もうまくを塗りつぶす光の奔流ほんりゅう。激しく渦を巻き、意識をも染め上げていくかのようだ。

 さらには、全身がばらばらになっていくような感覚があった。手も足もちぎれて、血管の一本一本までほつれていく。

 頭のなかが真っ白になる。

 なにも考えられないまま、無音の暗黒に落ちた。

 闇の中、痛いほどの孤独や抗いようのない恐怖があった。

 ただ、絶望はなかった。希望など抱きようもないが、それでも、望みは失われてはいないのだろう。

 断絶だんぜつされ、散り散りになっていたものが、ゆっくりとだが確実に集まり、繋がっていく。

 復活するのは、感覚。

 想像を絶するほどのすさまじい痛みが、意識の内外で暴れ回った。なにが起きたのかなど、彼に理解できるはずもない。

 すべて、彼の理解の外の出来事だった。

 彼は、とにかく、絶叫していた。全身を切り刻まれたような痛みの中で、大口を開けて、叫び続けていた。そうでもしなければ、頭がどうにかなりそうだった。いや、実際、半狂乱の中にいたのかもしれない。

 狂っている。

 なにもかもが壊れ、のたうち、叫喚きょうかんしている。

 闇の底から浮上するような感覚があって、視界に光が戻った。

「ん……?」

 セツナは、眼前に広がっている景色よりも、激痛が消え去ったことに驚いていた。直前まで全身をさいなんでいたはずの激痛が、嘘のように消えたのだ。実に爽快そうかいな気分だった。鼻歌でも歌いたい気分だった。そしてすぐにでも走り出したくなるような衝動が駆け抜けたが、目の前の光景がそれを抑えこんだ。

 彼は、改めて、前方を見た。いや、さっきから見てはいるのだが、どうも釈然しゃくぜんとしないものがあった。なんともいえない奇妙な感覚がある。

 どうやらセツナは、森の中にいるようだった。

 眼前に並び立つのは無数の木々である。名前も知らないいびつな樹木たちは、陰鬱いんうつな表情でも浮かべているかのように立ち尽くしている。

 鬱蒼うっそうたる森に陽光の差し込む隙など見当たらず、枝葉えだは天蓋てんがいが作り出した影は重く、この森になにも知らない人間が立ち入ることを警告しているかのようだった。

 とはいえ、その警告は遅すぎた。セツナは既に森の中に足を踏み入れている。いや、いつの間にか、足を踏み入れていたというべきか。

 かぶりを振る。

 なにがなんだかわからない。

 セツナは、ついさっきまで学校の通学路にいたはずなのだ。周りには、見慣れた町並みの影すら見当たらない。あの街にだって森はある。だが、セツナが森に突っ込んでいった記憶はなかった。

 いや、覚えていることはあるにはある。

 空から門が降ってきたのを目撃したのだ。巨大な門の降臨に立ち会い、扉に触れ、押し開いた。その瞬間、意識が飛んでいる。

「夢、か」

 セツナは、ひとりつぶやいた。

 夢ならば、この状況にも納得はできる。夢ならなんだって起きる。死んだ人間にだって会えるし、超人にだってなれる。

 夢なら、こんな森の中で目覚めてもおかしくはない。

「夢だな」

 セツナは、乱暴に決め付けると、再び周囲を見回した。

 木々は、全周囲を覆うように並び立っており、セツナを中心とする周辺一帯だけが空白地帯のような有り様になっていた。人工的に作られた空間のように思えるが、人工物などは一切見当たらない。

 しかも、だ。

 周囲の木々の枝葉が真上で絡み合い、強固な屋根を形成しており、木漏れ日一つ落ちてこなかった。隙間一つないのだ。

 森の中はひっそりとしていて、動物の鳴き声や物音はまったく聞こえなかった。ひんやりとした空気が、重く沈んでいくかのように流れている。

「夢ならば――」

 唐突に響いてきた声に、セツナは反射的に振り返った。ほかにだれもいない森の中、突然の声は間違いなく自分に向けられていた。

「夢ならばよかったか? 少年」

 低い女の声だった。若くもなく、かといって年を取っている風でもない、年齢を感じさせない声音。

「夢だろ」

 セツナは、反論しながら、森の奥から現れた相手を観察した。

 最初に思ったのは、紅い、ということだ。

 燃え盛る炎のような紅い髪に、身に纏うのは血のように紅い衣。次に声色通りの女だということが確認できる。セツナよりも長身の女であり、肉感的な肢体を誇っていた。豊満な胸、腰から臀部でんぶ太腿ふとももに至る輪郭は、どうにも刺激的だった。

「なにをもって断言する?」

 女の双眸そうぼうが、あやしく輝いたように見えた。美しい黄金おうごん虹彩こうさいは、この世のものとは思えなかった。

 森の闇の中でも、夜空を切り裂く月のように輝いている。さらに長い睫がその両目を縁取り、形のいい眉と鼻、白い肌が、彼女の美貌びぼうを引き立てていた。

 まさに美貌だ。

 絶世の美女とは、この女のことを言うのだろう。セツナは他人事のように感心した。

「ここがうつし世ではないと、なぜ思う?」

 女は、まるでこちらを試すかのように挑発的な視線を送ってきたが、セツナは即座には答えられなかった。ただ、見惚みとれる。扇情的せんじょうたい肢体したいも、圧倒的な美貌も、夢の世界だからこそ存在しうるもののように思える。

 夢でなければ、こんな美女と出会うこともあるまい。

 存在そのものが現実感を奪い去る。

「どうした?」

 女が怪訝けげんな顔をした。こちらの様子がおかしかったのかもしれない。

 セツナは胸中で苦笑するとともに、そんな表情をしても崩れない相手の美貌に驚いた。驚きついでに自分を取り戻す。いくら美女とはいえ、ほうけている場合ではない。夢ならどうとでもなれ、と思わないでもないが。

「なんでもない」

「ふむ……」

 彼女は、こちらの反応をいぶかしむ様子を見せると、セツナに歩み寄ってきた。当初の距離は五メートルほどだったが、少しずつ近づいてくる。

 すると、濃厚のうこうな花の香りがした。香水とは違う、ごく自然的な花のかおり。女から漂ってきているのがわかるが、どうすることもできない。意識が、自分のものではないかのような錯覚がある。女の目が、蠱惑こわく的に見えた。

 さそっている。

 セツナは、女に誘われるまま目に一歩踏み出して、はっとなった。右手を掲げ、女の接近を拒む。夢の中、美女とおしゃべりするのは実に幸福なことだろう。

 まさに夢のようだ。

 だが、なにかがおかしい。どこかが奇妙だ。拒絶しなければならないと、頭の奥が警告を発している。

 足を止めた女が、満足そうな表情を浮かべた。

「よかった」

 言葉の意味はわからなかったが、セツナは、絶世の美女の笑顔に自分の心がときめかないことに気づいた。さっきまでの自分なら、一撃で落とされていたかもしれない。それほどの破壊力を秘めた微笑びしょうだった。

「なんなんだ? いったい」

 セツナは、改めて女を見た。なにがなんだかわからない。ここが夢なのは間違いないとして、この状況は何なのだろう。夢の中で、ここまではっきりとした自意識を持つことができるのだろうか。漠然ばくぜんとした不安が、セツナの意識を固くした。

「勝手ながら、試させてもらったのだ」

 女が、事も無げに言い放ってきた。既に微笑は消えているものの、その美しさにはなんの遜色そんしょくもない。美貌自体は最初から変わらない。ただ、美貌以外の何かが、セツナの思考力を奪ったと考えるのが妥当だろう。

 それは、女の「試した」という言葉と関係があるのかもしれない。

「なに?」

 セツナは、漠たる不安が増大していくのを認めた。重圧を感じる。さっきまでの女とはまったく異なる人物と対峙しているような奇妙な感覚に包まれていた。全身が粟立つのを認める。

 違和感が、急速に膨れ上がっていく。

「召喚した人間が使えるものなのかどうか調べるのは、当然といえば当然だろう?」

 女は、笑いもしない。彼女にとっては当たり前のことを話しているだけなのだろう。それは構わない。だが、セツナには理解しきれない言葉だった。

「召喚……?」

 無論、言葉の意味はわからないではない。彼女がなにをいいたいのかもわからなくはない。しかし、即座にすべてを鵜呑うのみにできるはずもなかった。

 納得などできるわけがない。

 これは夢だ。

 夢であるべきなのだ。

「そうだ。わたしが君を召喚したのだ。この幻想領域へ。イルス・ヴァレへ」

 だが、女の力強い断言は、セツナの願望を打ち砕くかのように凶悪だった。一刀両断されたような感覚に、敗北感が付随ふずいする。

 セツナは、それでもこれが夢であると思い込もうとした。夢ならばなにが起きてもおかしくはない。この女の発言も、夢の世界なら納得できる。

 しかし、夢だと言い切れないなにかが、目の前の女から感じられるのも事実だった。きわめて現実的なのだ。彼女の存在も、彼女の態度も。彼女の言動も。

 その全てが、絶望的なまでに現実感を伴ってきていた。

 そこに嘘臭うそくささは微塵もない。

「わたしは、アズマリア=アルテマックス。きみは?」

 彼女――アズマリア=アルテマックスの問いには、抗しきれないものがあった。

 例えばそれは魔力とでもいうべきものなのかもしれず、あるいは単純に迫力や威圧感といってもいいものなのかもしれない。

 セツナは、思わず、口を開いていた。

「おれは……セツナ」

 答えなければならない――そんな確信が、彼を支配していた。

「神矢刹那(かみや・せつな)だ」

 それはきっと、この世界における彼の産声うぶごえだったのだ。

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