第2話:人外の二つ名
開店から二日もすると、騎士の客が入り始めた。
「いらっしゃいませ」
「ニケの店がここだと聞いたのだが」
「ええ、ニケは私の師匠の名です。引っ越しを機に屋号を変えました」
「そうか」
「どうされましたか?」
「実は友人が、ちょっと大変で……」
「どのような症状で?」
「吐き気と胃痛、それから、なぜか右半身だけに蕁麻疹。普段から心労の多い人物で、このところ色々大変そうだった。治癒師が夜まで来られないのだ」
治癒師を職場なり家なりに呼べる人は高貴な身分の人物だけだ。これは何かあるぞ、とシンドリは思った。
「かしこまりました。お名前は?」
「俺のでいいか? ちょっとそいつの名を言うわけにはいかないのだ」
「ええ、構わないですよ。カルテを作りますのでね」
「クランツだ。名はシルヴィオ」
「おやおや、辺境伯家のクランツ様ですね。これは大変だ。急ぎますから少しお待ちくださいね」
その客は王家に最も近い貴族の嫡男だった。
上流貴族で武家の嫡男だと、父の跡を継いで領主になるまでの間、王の騎士団に身を置く人が多いと聞く。
この人が「友人」と言うのだから、同じくらいの身分にある人が飲む薬だろう。
さすが騎士団宿舎が近いだけのことはあると、シンドリは小躍りした。
彼の薬屋にはニケの時代からの一般客に加え、多くの騎士が訪れるようになった。
その中には、時折クランツ家のような上流貴族も含まれていて、女性からキャーキャー言われているような騎士もやって来た。
魔法で病気や怪我を治療する治癒師の数は少ない。
王都を守っている騎士団は優先的に治癒師の治療が受けられたが、軽症者や序列の低い者は続々とシンドリの薬屋にやって来るようになった。
──それから三十年の年月が経った。
シンドリは七十代になっていたが、相変わらず臭くて苦くて不味い薬を作り続けている。
彼も弟子を一人育てていた。二十八歳で、名をペドロといった。
ある日、ペドロは眉間に皺を寄せてシンドリにこう言った。
「なぜに御師様は不味い薬を作るのですか。巷に御師様のことを『白い悪魔』とか『白髭大魔王』などと呼んでいる輩がおります。私はそれが許せないのです。御師様は高貴な方々をも癒す名薬師だというのに、納得がいきません」
シンドリはニヤリとした。
ついに人外の二つ名を賜り、師ニケに並んだと誇らしく思った。
自分が師に同じ質問をぶつけた若かりし頃、師も笑っていた。
そうかそうか、あの笑顔はそういう意味だったのかと、シンドリは白く伸ばした髭を撫でた。
自分もいずれは「ちょっと仕入れに行ってくる」と言い残してこの店をペドロに譲り、格好良く気ままな旅に出ようと考えた。
ニヤニヤと笑う師匠を見たペドロは不安になり、「御師様、一体何が面白いのですか」と訊ねた。
「ペドロよ、薬は病や怪我を癒すためのもの。美味いか不味いかは二の次だ。私の薬が特に不味いのには
シンドリはニコニコとしながら、師ニケに言われたことをそのまま自分の弟子に伝えた。
「なるほど。確かに御師様の言うとおりですね」と、ペドロは納得し、シンドリ同様に臭くて苦くて不味い薬を作るようになった。
また年月が経ち、シンドリは齢八十を超えた。
ついにその日はやって来た。
彼は満を持して言った。
「ペドロよ、ちょっと仕入れに行ってくる」
さあ、旅に出るぞ。
まずは美味いものでも食べて、温泉に浸かろう。
そう考えながら、彼はペドロに外出を告げた。しかし、店を出るまでは弟子にそれを悟られてはいけない。高揚する気持ちを抑え、真面目な顔を取り繕った。
師のニケが店から去ったのは九十を過ぎてからだった。
シンドリは形見の手帳を見るにつけ、旅立ちから師が亡くなるまでの期間が短かったことを申し訳なく感じていた。
もっと早く自分が一人前になっていたなら、師匠はもっと楽しめたのではないか。
ニケが手帳の隅に記していた言葉は彼の胸を締め付けた。
『もっと早く店を去るべきだった。師から離れなければ学べないことも多い。弟子に新しい店を持たせてやれるほどの財を蓄えるには薬の値段を上げねばならない。それはしたくなかった』
それは師が彼に教えた最後の教示だった。この教えを活かすべきだと考えたシンドリは、師よりも十年若い今、ここから去ろうと決めた。
ペドロは三十六歳になっていた。もう十分ひとりでやって行ける。
ところが、ペドロは「どこですか?」と聞いてきた。
「ん?」
「仕入れに行く場所です」
想定していなかった質問に多少慌てつつも、シンドリは「市場に、ちょっとな」と答えた。
「では、私が行って参ります」
「いやいや! お前は留守番を頼む」
「実は私、最近、自分の馬車を買いまして、操縦の免状も取りました」
「なにっ?」
「もう市場なんて余裕です。五分かかりません。それに、馬を借りる代金だけで良いので仕入れ代が安くなります。御師様、私が仕入れに行けば儲けが増えるのですよ!」
「そ、そうなのか」
「今後の仕入れは、すべて私にお任せください!」
「あ……あー、では、頼もうかな……」
それから一年が経過しても、シンドリは毎日王都の健康を守り続けていた。
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