薬師シンドリは引退したい
睦月はむ
第1話:薬のニケ
オルランディア王国──
王都の片隅、石畳の小道を抜けた先に、古い石造りの建物がある。色褪せた看板がかかる薬屋だ。
おそらく元々は緑色だったであろう十字と共に、薄い茶色の字で「薬のニケ」と書かれていた。
店の引き戸には赤茶けた紙が貼られており、「二日酔いの薬あります」と手書きで書かれている。
店の中では、御年八十を超える老薬師ニケが、白衣姿でセッセと薬草をすり潰していた。
この王都で、彼の腕前を知らない者はいない。
人々は彼の店を訪れ、熱心に自分の症状を伝えて薬を頼んだ。彼は頼れる薬師だった。
ニケには弟子が一人いた。名をシンドリという。
じきに二十五の歳を迎えようという、小柄でおっとりとした性格の若者だ。
シンドリは偉大な薬師になることを夢見て、十五の夏に弟子入りした。
弟子入りしたばかりの頃、シンドリには一つ気がかりなことがあった。
巷で彼の師ニケを「白髭の悪魔」などと人外の恐ろしい二つ名で呼ぶ人々がいたのだ。
それもこれも、ニケの作る薬が破滅的に苦くて臭くて不味いせいだった。
ある日、シンドリは勇気を出して師に尋ねた。
「師匠、なぜあなたの薬はこんなにも苦く、臭く、そして不味いのですか?」
師であるニケは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑みながら答えた。
「シンドリよ、薬は病や怪我を癒すためのもの。美味いか不味いかは二の次だ」
「しかし、師匠は悪魔などではありません!」
「私の薬が苦くて臭くて不味いのには
「考えさせること?」
「健康は日頃の心がけが重要だ。薬を渡して代金を受け取るとき、『お大事に』と言うのは何故だと思う?」
「早く、良くなるように……と」
「あれは『もう来るな』という意味だ。治った後も、もう二度と来なくて済むよう体を大事にしろと言っているのだ」
「二度と来ていただけないと、儲かりませんが……」
「そのとおり。薬師も医師も治癒師も、医療に関わる人々は皆、必要とされなくなることを目指して働くものなのだ。しかし毎日患者は来る。だから自分はまだまだだと思い、毎日精進する。薬が作れなくなるまでこれを繰り返すのだ」
シンドリは師の言葉を胸にしっかりとしまった。
確かに師の薬を飲んだ者は、その味を忘れることはないだろう。二度とあの薬は飲みたくない、二度と同じ病には罹るまいと気をつけるに違いない。
程なくして、彼は「白髭の悪魔」という二つ名にも敬意と畏怖の念が込められていることを理解した。人外の名で呼ばれるのは、師に偉大なる功績があるからだった。
ニケの薬は確実に人々の病と怪我を癒やしていた。その証拠に、薬の効果にうるさい貴族も客として来ていた。
彼は自分も師のような恐ろしい二つ名を持つ薬師を目指すことを決意した。
時が経ち、シンドリも苦くて臭くて破滅的に不味い薬を作るようになった。
ニオイと味にこだわらなければ、効き目の高い薬が調合できるのも事実だった。
師匠のニケは老いてもなお人々を癒やし続けており、人外の恐ろしい二つ名をいくつも持っていた。
しかし、ある日シンドリに店を任せて「仕入れに行く」と言って出かけ、そのまま姿を消した。
シンドリのもとに、師が旅先で亡くなったと連絡が入ったのは、それからだいぶ経ってからだった。
身寄りのなかったニケの荷物は、シンドリが引き取ることになった。墓も彼が準備した。
片づけが落ち着いた頃、彼は師が残した手帳を開いた。
仕入れに行ってくると出ていった日から、師はあちこちを旅していた。
ある日は美味いものを食べ、またある日は有名な温泉に浸かっていた。
彼は師が存外幸せであったことを知り、顔をほころばせながら形見の手帳を眺めた。
「薬のニケ」の看板はそのままに、シンドリは師匠の遺志を継いで人々の健康を守り続けた。
しかし、彼が四十五歳を少し過ぎた頃、少し困ったことが起きた。
彼の薬屋が入っている建物が、老朽化に伴い取り壊されることが決まったのだ。
なくなるものは仕方がない。彼は移転先を探し始めた。
大きな街道から脇道に逸れてしばらく進んだところに「ネスタ通り商店街」と書かれた、ひどくしょぼくれた通りがあった。
商店街というわりに、八百屋と肉屋と氷屋しかないような冴えない通りだ。しかし、少し先へ行った場所に王都騎士団の宿舎が建ったばかりだった。
今後、騎士団が執務をするための建物も建つ計画があるらしい。
独身の若い騎士が大勢暮らしているというから、きっとこれから騎士向けの店が建ち並び、賑やかになるはずだとシンドリは考えた。
それに、騎士の健康を守ることは、国を守ることにも繋がるような気がして、少し誇らしい気持ちになれそうだ。
彼は通りの端に近い場所にある真新しいレンガ造りの建物に目をつけた。
面積はすこぶる狭いが、新築を選んでおけば長くこの場所で営業できると考え、一階と二階を借りた。
一階は店にして、二階は倉庫にした。庭付きである点も彼は気に入っており、薬に使う薬草を植えた。
新しい店には、緑色の十字と「薬のシンドリ」と書いた真新しい看板を掲げた。
そして、扉に「二日酔いの薬あります」と書いた白い紙も貼った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。