第6話

 その喫茶店は小さくて目立たないところにあったが、街の人々の誰もが知っている有名な店だった。近所の魔法学校の学生であったり、休憩中の衛兵であったり、色々な人がやって来た。そして、カウンターには必ず白い猫が寝そべっていて、人々をじっと眺めていた。


「お客さんの邪魔になっちゃうよ。」


 喫茶店のマスターである老紳士は猫を抱え上げ、床に下ろす。軽くカウンターを拭き、空いたスペースに、コーヒーと名物のパンケーキを置く。


「気にしなくていいんだよマスター。」


 屈強なベテランの兵士は優しく猫を撫でた後、見た目によらず丁寧にパンケーキをナイフで切り分け、大切そうに少しずつ口に運んだ。


「これだよこれ。これ食べないともう生きていけないよ。」


 猫は最近野良生活をやめてこの喫茶店を安住の地に選んだばかりであった。当時は人間のことをあまりよくわかっていなかった。だから、この兵士は大きい割に何と弱々しいのだろうと思った。野良猫時代は、何日も空腹を我慢して狩りをしたり、他の猫と縄張り争いをしたりすることなどが日常であったからだ。


「…最近は魔族の攻撃も激しくなっているようですね。年老いた私は守っていただくことしかできないというのに。」


「そんなこと言うなよマスター。俺たちだってマスターのコーヒーとパンケーキに心を守られてんだぜ?まあ、後輩に見られるのは少し恥ずかしいけどな!」


 心を守る?この食べ物が?確かに良い匂いがして美味しそうで一口いただきたいくらいだが、そこまでのものなのだろうか。

 

「不思議かい?」


 背中から優しい声。振り向くと、客たちに水を注いで回っていた老婦人がいた。ここのマスターの妻だ。猫はこの老婦人のことが好きだった。撫でるのがうまくて、時折自分の考えていることが分かっているのではないかと感じる行動をとる。今だってそうだ。

 

 にゃーと甘えた声を出して足にすり寄ると、老婦人はウォーターピッチャーを片づけて、猫を抱っこする。人肌のぬくもりが心地よく、猫は急に眠くなる。


「ここには色々な人がいるだろう?みんな仕事は違うけど、魔族と戦ったり街を豊かにしたりすごい人たちなんだよ。」


 子守歌のような声がますます眠気を誘う。限界が来て目を閉じる。でも、その時の声を、言葉を猫はなぜかずっと覚えていた。


「でもね、あなたのご主人も負けてない。コーヒーとちょっとした料理でどんな人も癒すことができるんだからね。」


 ああ、懐かしい。愛おしい。


 魔族になっても、やはり僕は人間が好きなのだ。



 何かを持ち出すわけでもなく、ただ少しの間家の中を眺めて、それだけでキャスパーたちはフォルテンを後にした。


「本当に思い出せたの?」


 ドラゴンの肉を焚火で焼きながら、つむぎがキャスパーに尋ねる。


「ばっちりとにゃ。なんとなく、これからは忘れそうになることもない気がするにゃ。つむぎ、ありがとう。」


「ふーん。よくわからない。あ、美味しい。」


「まあ、人間ってのは確かによくわからないにゃ。1人だと弱々しいのに、まとまったら何でもできてしまうのにゃ。」


「…私、人間っていうより魔族なのかも。」

 

「そんなことないと思うにゃ。だって君、よくわからないし、1人じゃ生活できないにゃ。人間の特徴にぴったり当てはまるにゃ。」


「私強いよ?」


「そういうところは魔族的だにゃあ。もしかして本当に魔王に育てられたにゃ?つむぎ、強さに意味があるのは魔族だけにゃ。人間に強さはそこまで意味ないのにゃ。」


「…なるほど、勉強になる。」


 こういう素直さは魔族っぽくない。きっとこれからの生き方次第でこの子は何者にもなれる。将来は普通の人間の少女かもしれないし、魔王の娘であるかもしれない。


「なあつむぎ、僕も君のたびに連れていってくれないかにゃ?僕人間に詳しいし、人間の文字も読めるにゃ。役に立てるにゃ。」


「いいよ。とてもありがたい。でもなんで?」


 キャスパーの脳裏に老夫婦の笑顔が浮かぶ。ああいう笑顔が、また見たい。


「僕、人間のこと結構好きなんだにゃ。」

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