04-07:プリンセスと最期の夜・7
□scene:01 - マンション:自室
日付が変わった。
天井の照明を落とし、机の灯りを頼りにベッドに並べた着替えその他を眺める。
アレックスの国に行く準備を、今晩中に済ましておかなければならない。
暗くしているのは、隠しておくべき
絶対安全な我が家での
不意に鼓膜を撫でる、扉をそっと叩く音。
振り向かなくとも、その優しく柔らかい響きで誰かわかる。
僅かに開いてあった扉の隙間から、少し陰りのある愛らしい顔。
「まだ起きてる?」
俺は部屋にいる間、扉をわずかに開けておく。
前は伯父貴に〝もう大丈夫〟〝引き籠もっていない〟と知らせるため
立ち上がって愛里沙に向く。
「どうした?」
「入っていい?」
「いいに決まってる」
今も続けているのは、姉妹が闇を怖れた
実際に駆け込まなくとも、駆け込める場がある〝安心〟になりたかった。
愛里沙は静かに入ってくると、後ろ手に扉を閉じる。
それは〝俺はいない〟と、言い換えれば〝入る意味が無い〟と主張する状態。
愛里沙が側まで〝ととと〟と寄り、ベッドの上に並べてあった品々を眺める。
「アレックスさんの国へ行く準備?」
「
「これだけ?」
ベッドの上に並ぶのは、小さくたためる下着と上着に小振りなボディバッグ。
後は
「いきなり連れてかれる
改めて見渡せば、俺自身〝これだけ?〟と問いたくなる眺め。
モノに執着がないから、〝最低限〟より上はどうでもよかった。
事も無げと思うから、事も無げに話したつもりが愛里沙は浮かない
「悠佑……大丈夫?」
「以前も言ったろ? 俺は……」
事も無げと思うから、事も無げな答えを優しく強い声で
「私は大丈夫じゃない」
「愛里沙?」
否定しようと
俺が思うこの世で最も綺麗な顔の、強く真剣な面持ちに
「わかるの。私が見てる悠佑は〝大丈夫〟って言うけど、見えない悠佑はその
「い、いやでも俺は……」
「私には何もできないってわかってる。こんなに小さいしこんな……悠佑だってそう思ってるのも。でも、聞く事はできるよ」
「〝聞く〟?」
「悠佑を見てると小さかった頃を思い出すの。嫌な思いはお父さんと〝嫌だね〟って話してたら気にならなくなって、涙を我慢できなくなると泣き出しちゃうお母さんが心配で私の方はいつの間にか止まってた。私も悠佑が〝楽になりたい〟と思うほどに重い何かを
「〝聞く〟っつったって話してない事があるとしたら、話す意味が無いからで……」
聞きたがった奴らが欲しかったのは〝俺が話した〟事実だけ、内容は不要。
世間が求める創作をもっともらしく見せるための、土台に過ぎない。
勝手に創られ盛られた話が盛り上がろうと、心の底からどうでもいい。
寧ろ〝違う〟と思えば事実を意識、
真に俺を思ってくれたヒトたちは、何も聞かずただ側にいてくれた。
でも愛里沙から感じる熱は、今までの誰とも違う。
傷に触れないよう、遠くから包む温もりよりもずっと熱い。
寧ろ冷めて凍った傷に飛び込み、全てが剥き出しにされそうなほどに。
しかし優しい……優しすぎる愛里沙の熱は、彼女をも灼く。
例えるなら、素手で灼けた鉄杭を掴んで氷の壁を突くようなもの。
俺自身が棄てた詰まらない
優しく諭そうと
「〝楽になりたい〟なんて思わないで! どうしてそう思うのか私に話して! そうじゃないと私……私!」
愛里沙に抱き付かれ、その勢いのままベッドに腰を下ろした。
俺の胸に顔を埋めた愛里沙の、吐息が……涙が熱い。
「私を……
数秒……数分……どれくらいそのままだったのかわからない。
ただ染み入る熱で、胸の奥で凍っていた黒い壁が溶けていくような気がした。
愛里沙の肩にそっと手を置くと、涙が溢れる綺麗な
察したのかされるがままの彼女をベッドに座らせ、立ち上がり……背を向けた。
「詰まんない昔話さ」
*
最初の世界は、
まだランドセルを背負って
家の補強だ避難だと騒ぐ大人たちを尻目に、子供たちには秘密の
山腹にある寺のさらに奥、枯れ木や草花で作り上げた町を見下ろす秘密基地。
そこに
そして
台風
暴風雨で緩んだ山が強い地震で揺さぶられ、見下ろす全てが崩れて流された。
生き残ったのは寺の住職だった大叔父に、俺たち悪ガキ六人だけ。
俺には大叔父と都会にいた叔父がいたが、他の子らは親族の全てを亡くした。
そんな俺たちをメディアは〝強運の子ら〟と祭り上げ、追いかけ回す毎日。
幾度となく〝運良く生き残れた感想は?〟と聞かれ、心底鬱陶しかった。
似たような状況で被害者
俺たちは〝
〝運〟云々は人々の関心を引くための
この時はそう思っていた。
山津波で砕け散ったであろう遺体や遺品の捜索は早々に断念。
町の再建は望むべくもなく、間もなく地図から消え去った。
*
二つ目の世界は、町が
そこで寺を任された大叔父と共に移り住んだ俺は、跡継ぎとして小僧になった。
他の友人たちも大叔父が引き受ける準備を進めていた頃、ある提案がなされる。
島にあった教会の働きかけで、皆は養子として迎えられる事になったのだ。
新しい親、新しい友達……皆が生来の子、十年来の友人になっていった。
教会の善行を知り、取材に来た海外メディアもあった。
他意の無い〝良かったね〟に〝うん〟と自然に答えたのを覚えている。
仏像を拝む俺と、十字架を持つ友人たちが仲良く笑い合う姿もそこにあった。
この国ならではの風景は、あのヒトたちの青い目にどう映っていたのだろうか。
だが、そんな
生きる武勇伝である叔父貴は俺のヒーローで、長期休暇の度に会いに来ていた。
そしてあの日……押し寄せる海、崩れゆく島影、燃え上がり沈む町並み。
叔父貴が慌てて点けたTVの中で、また全てが俺の前から消えた。
ただ
〝良かったね〟と微笑む大人たちは、何が〝良かった〟と笑わせたかったのか。
この
親を、親代わりになってくれた大叔父を亡くした。
幼い頃から、そして新たにできた友人の全ても亡くした
親と撮った写真も友だちに貰った宝物も、もう何も残っていない。
当時既に成功していた伯父貴の下へは、身
根っこを失った植物は正常に育たなくて当然だが、ヒトもそうらしい。
生まれて生きた証を全て失った俺は、その後から数年の記憶がほとんど無い。
そして二つ目の故郷も、いつの間にか島ごと地図から消えていた。
そして、三つ目の世界がここ……超高層タワーマンションの最上階。
いくらか正気を取り戻した頃にはもう何もかも、自分すらどうでもよかった。
この世界に明日は無いかしれないから、今日を必死に生きる意味は無い。
誰もが今死ぬかもしれないから、誰も気にしなければ気楽で良い。
二度も全てを無くせば、もう十分。
残っているのは俺と、殺しても死にそうにない叔父貴だけ。
なら次は俺の番に違いないから、もうあんな思いはしなくて済む。
いずれ楽になれる……はっきりと意識した事はないが、そう確信していた。
なのに叔父貴は俺の前から消え、あと何年かで死んだと同じになるらしい。
寧ろ〝消えたい〟と望んで赴いたあの国でも、俺は
そして……
*
耳を圧する嗚咽は……俺?
目には何も見えず、わかるのは俺の頭を撫でる小さな
思わず顔を上げて目を開く。
いつのまにか膝を着き、ベッドに座る愛里沙の膝に顔を埋め……泣いていた。
そして頭の上から、暖かな涙と共に優しい泣き声が降り注ぐ。
「私たち、もう
俺の中で何かが解け、崩れた。
それが
自然と愛里沙に抱き付き、その
顔は涙と鼻水塗れ、腹の奥から漏れる音は俺自身も嫌悪するほどに汚らしい。
なのに優しく、優しく頭を撫でてくれる小さな
必死に息を継ぎ、胃液を吐きながら愛里沙に
「俺……俺、運が良いから! 絶対、絶対死なないから! 愛里沙に何かあったら、必ず! 絶対に帰ってくるから! だから! だから……」
小さな
「うん……待ってる」
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