04-06:プリンセスと最期の夜・6

□scene:01 - 住宅地



 オフィスビルやマンションが立ち並ぶ、住宅地の中でも一際ひときわ賑やかな区画エリア

 そのほぼ中心、高層マンションの下層にオフィスフロアのある複合ビル。

 それが今、黒煙に包まれた火柱と化していた。





□scene:02 - 住宅地:歩道



 渋滞で身動きが取れなくなったタクシーから、愛里沙と共に降車。

 道を挟んだ向こうに、炎を噴き出す高層ビル。


 群がる野次馬の足下から碧い弾丸、愛衣が飛び出す。


「お兄! お姉も!?」


 愛彩もそのすぐ後ろから駆け寄って来る。


「お兄ちゃん! お姉ちゃん!」


 愛衣を愛彩の隣に下ろし、膝を着いて目線を合わせる。


「智尋さんは無事なのか?」

「うん、智那ちゃんと一緒いっしょに向こうにいるよ」


 愛衣が指差し愛彩が向いた方に、救急隊員と話す智尋さんと智那。

 立ったまま話しているのは、搬送されるほどではない証左であり一安心ひとあんしん


 目線を下げ愛衣と愛彩に向き直す。


「何があった?」


 愛衣が大袈裟に手脚を振り回す。


「クラブの途中でお腹が空いてお兄がつくってくれたお……っきなおにぎり食べたら煙が見えた!」


 愛彩が怯えた表情かおでビルを見上げる。


「それが智尋せんせのおうちだったから走ってきたの」


 閑静な住宅地にある初等部からこの街の中心部まで、優に数キロ。

 地方都市とは言え高いビルが建ち並び、辺りを覆う黒煙で特定は難しい。

 だが二人がこの辺りで知っているのは、智尋さんがあるこのビルぐらい。

 立ち上る煙が姉を救った恩人の家と思い込み、慌てて駆け出しても無理はない。


 愛衣が右、愛彩が愛里沙の左手を掴んで人混みの中へ。


「「こっちこっち!」」


 双子と愛里沙はその小ささサイズを生かし、野次馬の群をすり抜けていく。

 人混みは時間と共に増し、三人どころか千種親子がいた方角すらあやふやに。

 ヒト並より嵩張かさばる俺は通れそうな隙間に頭を下げるしかなく、着いていけない。


 仕方無く遠回りして人混みを避けると、人並みに釣られ顔を上げた。

 群がる見物人たちが見上げるは、上階がマンションの複合高層ビル。

 九階辺りが特に酷く、が見えないのは全て焼き尽くしたからに他ならない。

 そこから上下に延焼したのだろうが、上層では今も窓から炎が噴き出している。


 智尋さんのクリニックは二階と三階、自宅は商業フロア直上の五階。

 炎こそ見えないが窓は焼け落ち壁は崩れ、激しく炙られた痕が痛ましい。

 千種母娘おやこが無事と知りいくらか落ち着いたが、目を見張る光景には違いない。


「ニュースで見たビル火災だと精々数フロアぐらいだったような……この規模で全焼なんてあったっけ?」


 呆れ顔の早弓が並ぶ。


「よってたかって全焼それを目指してるようなものよ。連係プレーの賜物ね」

「お前もいたのか」

「二人が血相変えて飛んでったから、追っかけて来たのよ。したら楠原を呼んだって聞いたけど、この野次馬……あたしが着いた時も大変だったのに、どっからこんなに沸いたんだか。愛里沙はあの二人に任せておけばいいとして、無駄にでかくて無駄を避ける楠原の事だから無駄に遠回りして無駄に歩き回ってると憐れんで、探しに来てあげたってワケ。遠慮なく感謝しなさい」

「はいはい」


 ハーレムの件に加え〝終わっていい理由〟の言葉で顔を合わせ辛い。

 早弓あっちも似た心境なのか、一瞬いっしゅん目が合いすぐに逸らすと前を向く。


「あのビル、こないだの雨で沈んだ地下がそのままでさ、スプリンクラーのポンプが動かなかったんだって。消防車もなかなか来なくて、やっと着いたのがアレよ」

「そう言えば一台いちだいだけ……こんな火事なのに?」


 たった一台いちだいの消防車は火元の消火を諦め周辺に水を撒き、延焼を防ぐ方針らしい。

 それが無駄な抵抗なのは燃え盛る街路樹を見れば明らか、まさに〝焼け石に水〟

 消防のヒトたちは必死に奮戦しているが、いかんせん戦力が足りなすぎる。

 〝役立たず〟〝税金泥棒〟とやじられ罵られている様が不憫でならない。


 当然のいきどおりが漏れる。


「他は?」

「無理矢理止められたり事故ったりで、なかなか辿り着けないみたい」


 早弓が差し出したスマホに、配達のカバンが集団で暴れている実況動画。

 消防車のサイレンを煽り運転だと腹を立て、自転車で道路を塞ぎ抗議の模様。

 交差点で腹にSUVが刺さっていたり、駐禁車両に前後を塞がれた写真もある。


 思わず落胆。


「うわぁ……」

「ここの前に別の火事や事故でほとんど出払ってたみたいだし、消火栓もこないだの大雨であちこちダメらしくてさ。もし全部来てくれてもあんま変わんなかったかも」


 致命的な問題が重なってしまった結果の惨事。

 前に智尋さんが言った〝不安が増えている〟説が脳裏をよぎる。


 そして思う、当然の不運。


「これじゃ上の方は逃げられないよな……何人死ぬんだろ……」


 予想に反し、早弓は気の抜けた軽い声。


「それがさ、全員避難済みで無傷だって」

「この火事で!?」

「まだ小火ボヤだった段階トコに二人が駆け付けて、智那が暴き済みだったビルのシステムに侵入して非常ベル鳴らした上に〝ここはもう終わりだー! 逃げなきゃ死ぬぞー! わっはっはっはっ!〟って爆弾魔かテロリストか紛いの不穏なアナウンスまで。結局最後まで残ってた智尋センセと智那がちょっと煙に巻かれたかな? ぐらい」

「へー……」


 そこはかとなく違和感。

 だが知った顔が無事なら、頭を使うべき事が別にある。


「二人共ショックだろうな。智尋さん、部品不足で待たされてた機械がやっと届いて喜んでたのに。智那ご自慢の妖しい本が詰まった書庫ライブラリも全滅か」


 愛里沙の教材にしていた頃は俺が滅しようとも思ったが、こうなるとやはり不憫。

 しんみりしているところへ、早弓の事も無げな声。


「そうそう。楠原が探した理由は、アレ」


 道を挟んだ向かいの歩道に、家財道具や大きな機械が積み上がった巨大な山。

 よくよく見れば、その構成物はどこかで見たような気がするものばかり。

 愛里沙のために例の国絡みで仕入れた、希少な医療機材に見えるのも。

 俺の感覚が間違っていなければ、その全てが千種家の所有物。


「〝アレ〟……まさか全部智尋さんとこの?」


 側らで立ち往生していた大型トレーラーの列に引けを取らない規模スケール

 その両端に愛衣と愛彩が阿形あぎょう吽形うんぎょうの如く仁王立、番犬の役に就いている。

 むしろその様が愛らしすぎて、〝え〟を求める女性ヒトたちを呼び寄せているが。


 二の句が継げない俺に、早弓が平然と答える。


「何とか大事なモノだけ運び出せてたの」

「〝大事なモノだけ〟って……」


 〝だけ〟で説明できる量ではない。

 山なる比喩的表現には収まらない、文字通りの〝山〟


 それにかかるコストを思うと、浮かび上がる当然の疑問。


「早弓がここに着いたのは、煙が出た後だよな?」

「あたしが来た時にはもう大炎上。〝ゴー〟って音も凄かったし」

「いつからどうやってあんだけ運び出したんだろ?」


 早弓が器用に歩きながら首を傾げる。


「いやー二人は〝頑張った!〟って胸張んだけどさー」

「智尋さんは五階。常識的に考えればエレベーターは使っちゃ駄目だよな? 仮にうっかり使って運び出す間は動いたとしても、クリニックにあったのはクレーンとかフォークリフトが必要な気もするんだが」

「ま、普通に考えたらよね」


 早弓が親指を立てて背中越しに差す方に、制服姿の大人たち。

 動かない車列の中に、制服と同じ意匠のトラックが何台も見える。

 幸運にも、火が出て立ち往生した中に引っ越し会社のヒトたちがいたらしい。


 早弓が双子に向いて苦笑い。


「二人も手伝ったんだとは思うけどさ、やっぱ褒めるだけじゃダメだよね」

「ったく……危ない行為ことは駄目ダメって言っとかないと」


 それはそれとして、今気にすべきは大型トレーラー数台分ある〝山〟の均し方。


「褒めるか言い聞かせるかは後で考えるとして、いつまでも番犬にはしとけないし、盗まれたり雨に降られたら運び出してくれたヒトたちにも悪い。でもあの量……」

「智尋センセがあちこち当たってるんだけど、すっごく重いし温度や湿度がちゃんとしてないといけない機械もあって、そんな倉庫はこないだの雨で一杯いっぱいかダメみたい。住むとこもね。取り敢えずホテルに泊まろうとしたら、どこも満室か繋がらないか。智尋せんせは〝大丈夫〟って笑うんだけど、大人だから無理してるんじゃ? って、心配になってさ」

「俺を探した理由は、か」


 〝ハーレムに入れろ〟の件で顔を合わせ辛いはずなのに、わざわざのお出迎え。

 核心を突いてしまったせいで、今更ながら早弓の頬が赤らむ。


「あ、あんたんに行った頃のコト、イロイロ思い出して……地下と言うか住んでるフロアの下に、もっのすっごく広くて天井も高い物置? があったでしょ」

「確かにうちの倉庫なら、あれぐらいは余裕だな。食料庫も兼ねてるからか温度湿度も一定いっていだし」


 あの家は、何かにつけて余裕のあり過ぎる構造つくりになっている。

 愛里沙や双子の部屋となった(旧)客間もそうだが、床下収納もそのひとつ。。


 我が家たる最高層は一般いっぱんのフロア五層分の高さ、住空間は上の三層。

 下二層分は、広大な倉庫となっている。


 二/三を占める備蓄で〝ゾンビに囲まれても五年は戦える〟と伯父貴は微笑。

 水や食料だけでは無さそうな表情かおだったが、その全容は俺も知らない。


 残りが一般的いっぱんてきな意味での〝物置〟となるが、二人には広すぎほとんど未使用。

 伯父貴が行方をくらませて以降、出入りするのは酒を漁る未音さんぐらい。

 目の前にそびえる山程度なら、余裕で収容できる。


 そして上の住空間とセキュリティは別系統、専用の貨物エレベーターもある。

 良からぬ輩が入り込んでも、我が家への到達は極めて困難な仕掛けが阻む。

 立ち会いが前提だが、伯父貴も搬入には一般的いっぱんてきな運送業者を使っていた。


 そして思う、当初の予定。


「丁度いいから、智尋さんと智那もうちに住んで貰おう」

「え? そこまで?」

「言ったろ、暫く家を空けるって。アレックスの国絡みだから未音さんも忙しくなりそうだし、愛里沙と双子だけにはできないからな。今までもそんな日には無理言って泊まって貰って今回もそのつもりだったんだけど、住んで貰えば話が早い」


 智尋さんは、伯父貴と因縁浅からぬ仲の未音さんが学生時代に出会ったヒト。

 娘の存在と落ち着きに相応の年齢差を思うが、〝ずっと親友〟とも聞く。

 俺も未音さんもいない間を託すなら、あの女性ヒトを置いて他にいない。


 唯一ゆいいつ気になるのは姉妹のために呼んだ雪の夜、セキュリティが拒否した事。

 何度か訪れていたはずだが、取り敢えず俺が管理者特権を使い事無きを得た。

 早弓を消し忘れていた件と共に、伯父貴あのヒトにもうっかりはあるのだなとむしろ感心。


 早弓が素早くダッシュ、前に回り込み背伸びして詰め寄ってくる。


「ちょ! ちょっと待って! じゃあ智那も一緒いっしょに住むの? いいの!?」

「いいも悪いも、あそこは伯父貴んで俺は留守を預かってる居候。伯父貴が自由に出入りさせてた未音さんの親友とその娘が困ってたら伯父貴あのヒトもそうしたろうな、って通りにすんのが筋」

「な、何かあたしだけ仲間外れで置いてけぼりのような……」

「似た話を聞いた覚えがあるな。でも交換条件のは、卒業なんかの大イベントで知った顔と二度と会えなくなる……かもしれない事態を避けたいってのが動機だろ。まだ二年と半年以上は高校生なんだから、落ち着けよ」

「それはそうなんだけど、そうじゃないと言うか、智那と愛里沙にチビちゃんたちとずっと一緒いっしょなの楽しそうだなー……とか?」

「まさかお前まで〝俺と住みたい〟とか言い出す気か?」

「そ! そんなワケないでしょ! だーれがあんたなんかと!!」

「だろ? じゃ、そういう事で智尋さんに話してくる。早弓そっちは交換条件の通り双子の腹をどうにかしてくれ。〝頑張った〟んならもう電池が切れてそうだし」

「え? あ、まあ、そんな条件だっけ? は、はは……あたしのバカ……」





□scene:03 - マンション:リビングダイニングキッチン



 巨大なTVの前に覗き込むような姿勢で陣取る智那が、感嘆の声を上げる。


「おーおー♪ よーく燃えてるぅ♪ うおわっ! 爆発したぁ! うっひょー♪」


 並んで腕を組み立つ早弓が、呆れ顔で論評。


「自分んの火事を、花火でも見てる気分で」

「悲壮感漂わせたって時間は戻んないし。それに、どうって事なくなるぐらい記憶が薄れるのを待つより、新しい感動で上書きしてった方が早いでしょ」

「そんなヤツと知ってたけど、中等部ん頃とは印象キャラ変わったのも〝上書きそれ〟よね……それにしても、これだけこんがりなのに智那んからは火が出てないのね」

「これは燃え尽きた後。外からじゃよくわからないけど、中はもう全滅。生命いのちの次に大事なライブラリが本棚ごと無事で、ホント良かったぁ♪」

「〝生命いのちより大事〟とは言わないんだ」

「そりゃ現物ナマモノは惜しいけど中身は全部頭に入ってるし。それに私さえ無事なら新しい本棚を新しい歴史で埋め尽くす楽しみが待ってるからね♪ いやー♪ 正直夏の新刊どうしようか悩んでたから、どでかい収納場所が確保できて丁度良かったかもん♪ クックックッ……これで心置きなく目一杯めいっぱい全力全開で買い漁れるぞぃ……ムフ♪」

「はいはい」



                *



 智尋さんは俺の提案を受け入れ、智那と共に当面の間うちの住人に。

 

 あの時、智尋さんはクリニックの再建や智那の通学のためホテル住まいを覚悟。

 そこへ愛里沙の側にいて貰えると有り難いと説得し、受け入れて貰った。

 運び出した荷物も側にあれば、色々と手間が省けるのも理由のひとつ。


 尚、荷を階下の倉庫まで運んだのは智尋さんが懇意にしている運送会社。

 愛里沙のために医療機器を運び込んだヒトたちで、郷里さんが裏取り済み。


 あそこいた引っ越し会社のヒトたちにとも思ったが、智尋さんは意に介さず。

 炎上する中から運び出してはくれたが、そこで何かあったのかもしれない。


 そして運送会社が撤収し、今日は手仕舞いとなったのに居座っているのが早弓。

 〝不幸な親友を気遣うなら〟と放置していたが、智那に配慮は無用の模様。

 早弓もその本性を承知、惰性でだらだらしているだけと思われる。



                *



 智尋さんはダイニングテーブルに書類の山とタブレットを並べ、重苦しい表情かお

 手を止め椅子に背を預けた姿を見て、コーヒーを出す。


「頭の回りが鈍くなった時、伯父貴なら〝今できる以上は無理。その先は得る分より失う〟とか言ってゲームやったりアニメを見てましたよ。一息ひといきいたときに息抜きしておきませんか?」

「まさか、こんな事になるなんて……暫くの間お世話になるわね」

「部屋が余ってるのは見ての通り、気にしないでください。智尋さんなら、叔父貴もそう言ったと思います」

「そうかしら? だといいんだけどね……」


 早弓がリビングからスロープを上がってダイニングへ。


「落ち着いたみたいだし、そろそろ帰るわ」

「晩飯ぐらい食ってけよ。それぐらいは居座ると覚悟して準備してたんだが」

「〝居座る〟って何よ。ま、楠原がそこまで頭下げんなら食べてやらなくもない」

「下げてねーよ」


 そこへ全裸の幼女が一人ひとり、濡れたままの髪の毛が通り雨の如く滴を撒き散らす。


「遙香ちゃん! 帰っちゃうの!?」


 幼女がもう一人ひとり、こちらは頭髪も完璧にタオルで包んだまましずしず登場。

 全裸に追い着いてタオルをかけてやる


「愛衣ちゃんたら、ちゃんとしないと風邪ひいちゃうよ」


 そこへ、タオル一枚いちまいの美少女が登場。


「愛衣! 愛彩! ダメ……」


 不意に目が合い、時間ときが止まったかのように固まる愛里沙。

 だが現実に時間が止まるはずはなく、不自然な姿勢が身に着けた一枚いちまいよじる。


 音もなくが落ちた音は、彼女が初めて目を覚ました夜明けを思わせる。

 ただ、確実に〝違う〟と言い切れる点が、あの朝は服を着ていた他にもうひとつ。


 いや二つ。


 心の底から鬱陶しかった〝幸運の少年〟呼ばわりも、今に限ってはうなずける。

 うっかり見とれてしまっていたところへ、背後から忍び寄る丸い影。


「だ・か・らぁ、言ったじゃーん。はちゃんと成長するってー♪」


 我に返り振り返り、決死の自己弁護。


「そ! そんな言い方じゃ俺がまるで……」

「〝まるで〟ぇ? どこを見てたと言われるのがイヤなのかにゃ? でもそれって、〝を見てました!〟って白状してるも同じなんだにゃあ」


 背後に尋常ならざる気配を感じ、恐る恐るゆっくりと振り返る。

 愛里沙は腕でそこを隠しただけで、脚が固まったかのように動けないでいた。

 そこで思考も停止したと、顔を真っに染めながら無防備な股間に見て取れる。


 可能性を潰されていた彼女に見えた未来が、ただただ純粋に嬉しい。

 だがそれと同時に全身が熱くたぎちからみなぎり、自制できる限界を越えていく。

 永くいろの無い世界を漂っていた俺にも、これが本能に類するものなのは理解わかる。


 大きな目をさらに見開いた中で震える瞳と見つめ合い……自然と手が伸びる。

 なのに智尋さんが前を行くのは、俺も脚が上がらないからに他ならない。

 今は言う事を聞かない唇でその名を呼ぶのがやっと。


「あ、愛里沙……」


 タオルを拾おうとしたのかただ触れたかったのか、俺自身にもわからない。

 初めての感覚に戸惑い震え、何も考えられないまま本能に従うしかなかった。


 そこへ轟く早弓の怒声。


「な──にやっとんじゃ────────!!


 ダイニングテーブルに駆け上がった早弓やつに後頭部を蹴り飛ばされ、吹っ飛ぶ俺。

 薄れ行く意識の中、眼前で大公開時代になった早弓やつ下着パンツはどうでもいい。


 我に返りタオルを拾う余裕も無く駆け出す愛里沙の背中に……

 歯に衣着せずに言うなら、ちゃんと成長してふっくらしていたそこに心が躍った。



                *



 パジャマ姿で髪も整えた愛衣が、リビングでTVに見入る早弓たちのもとへ突貫。

 全力で向こうを向いたまま、全身を強張らせて歩く姉の手を引く愛彩も続く。

 俺には見せないと強い意思を感じる顔は、きっと真っに違い無い。

 

 最後尾の未音さんは、タオル一枚いちまいでキッチンのカウンター席に。

 髪を上げてタオルを巻いただけの姿は見慣れており、今更動じはしない。

 今も双子の世話で力尽き、自分の分は面倒臭くなって一緒いっしょに出てきたと思われる。


 コーヒーを煎れようとするとジョッキを空けるジェスチャー、缶ビールに変更。

 駆け付け一杯いっぱい、二杯目を要求しつつリビングではしゃぐ女子たちを眺める。


「しっかしまぁ、一気いっきに賑やかになっちゃったねぇ」

「俺も居候の身だから、ホテルの隣が埋まったぐらいの気分かな。叔父貴オーナーが見たら、さすがに驚くとは思うけど」

「少し前はあたしぐらいしか来ない、寂しいトコだったのにね。それもアイツが空ける時に悠佑クンの様子見に来るぐらいだったから、大体いつも二人だけで」

「そんな頃もあったっけ」


 感情が薄れていた時期だから、記憶も薄い。

 濃い現状いまに塗り潰されつつあるのか、以前に増してどうでもよくなっている。


 未音さんがイヤらしい表情かおで面白そうに笑う。


「それも女の子ばぁっかとはねぇ♪ 悠佑クンも隅に置けないなぁ♪ 遙香ちゃんもそう思うでしょ?」


 空いた食器を持ってきた早弓を、未音さんが捕捉。


「あ! あの、あたしは違うんです。荷物運ぶの手伝ってたら、いつの間にかこんな時間になってただけで」


 早弓がリビングの向こう、大窓の外に拡がる星空に向く。

 そらと地の境はまだ明るいが、初夏のは長く十分に夜と言っていい時間。


「さすがにもうそろそろ帰んないと」


 既に酔っ払っていた未音さんが、早弓に絡む。


「えー? 帰っちゃうのー? 一人ひとりだけ仲間外れはダメでしょ。遙香ちゃんもここに住んじゃいなよー」


 酔っ払いの戯言だが最近の早弓なら真に受けかねず、くちを挟まざるを得ない。


「何勝手な事言ってんだよ。智尋さんは緊急事態だし未音さん繋がりで当然だけど、早弓は智尋さんの娘の友達だぞ? 伯父貴の家に本人がいない間にほぼ無関係なのを住まわせるわけにはいかねーだろ。それに男ん一夜いちやを明かすなんざ、女子の親が許すわけねーよ。だろ?」


 早弓が後頭部を掻きながら苦笑い。


「まー普通に考えたらそーだよねー」


 未音さんが缶ビール片手に早弓に詰め寄る。


「そりゃこんなおハナシ親御さんにダメって怒られて当たり前、でもここで諦めたら〝あの時……〟って後悔が残っちゃわない? とにかく前進! 行き止まりだったら別のみちへ行けばいいの。前に向いて脚を止めなきゃいつかどこかに辿り着く。それが思った通りのトコじゃなくても自分で選んだ自分の人生! 〝どうせダメ……〟ってそっぽ向くより誰かと一緒に〝ダメだったね〟ってはしゃ人生ルートの方が絶対楽しいよ♪」

「それはそう思うんですけど、ここは男子の……楠原の叔父さんの家だし……」

「大体さ、あたしと愛里沙ちゃんにチビちゃんたちがいた家に、智尋と智那ちゃんも住むのよ? 他約一名いちめいなんて全自動洗濯掃除調理器、完全完璧徹底的に人畜無害って遙香ちゃんが一番いちばんよくわかってんじゃん? ほっとんど女の子だけのお泊まりだって言ってみなよー♪」

「そ、そうですかね……い、一応いちおう聞いてみます!」


 早弓はスマホを取り出しながら窓際へ。

 取り敢えず言うべき事を言っておくために未音さんに寄る。


「誰が〝全自動洗濯掃除調理器〟だって?」

「今だってやってるコトはそういうコトじゃない? それにあたしが言いたいのは、ヤる前に諦める生き方なんて楽しくないよ、ってコトよ。人生の先輩から、精神的な生き方指南アドバイスってヤツ。いくら友達もいるからって男子の家にお泊まりなんて許す親はいないでしょ、常識的に考えて」

「未音さんが男絡みで〝指南〟とか〝常識〟を語るとか……笑いどころのわかり難い冗談ジョークだな。全部?」

「何を!?」


 そこへ割り込む、早弓の歓び燥ぐ声。


「〝いい〟って! 取り敢えずうちに帰って今日の分の着替え取ってくるねー!」


 愛衣と愛彩に見送られ、飛びだしてく早弓。

 未音さんに向いて〝話が違う〟と表情かおで訴える。


「あれ?」

「〝あれ?〟じゃねーよ! 目の敵にされてる取り敢えず物理の相手が同居なんて、俺の身が危ないんだがどうしてくれる!? あれでずっと一緒いっしょにいたい相手とずっと一緒いっしょにいるためなら何だってしかねん奴だぞ!」


 目の敵にしている〝ハーレムに入れろ〟とまで言っていた。

 酔っ払ったフリで目を逸らす未音さんの頭を掴み、俺に向かせる。


「今更〝酔っ払っちゃってたしぃ♪〟は早弓が哀れすぎる。仲間外れにするつもりはなかったのに一度いちど喜ばせてから堕とすのはさすがに酷い。その名の通り早い弓の如き物理が向くのは俺だから、下手に煽らないで欲しいんだが」


 未音さんは釈明もせず、ただ天井を見上げ思案顔。


「ん? 遙香ちゃん、上の名前って早い弓? 速い水じゃなくて? もしかして……昔はサクヤって呼ばれてたとか、ない?」

「そう言えばそんな話を聞いた事があるな。明治の創氏改名で、周りがそう呼ぶからそっちに合わせたとか何とか……誰に聞いたんだっけ?」

「サクヤには他に女の子いない……とか?」

「高等部に上がってまた絡まれ出した頃だったから……二ヶ月前? くちより先に脚が出るのは従兄弟いとこ再従兄弟はとこに弟と男ばっかの中で育ったから、とか言い訳してたな。ランドセル背負しょってた頃は普通に女子と連んでた覚えがあるし、凶暴性は生まれつきだろ。大体くちより先にできるのは普通手なのに、あいつは……」

「うわっちゃー……やっちまったー……」


 智尋さんが大きな溜息を吐く。


「悠佑君がになって無かった事になってたのに、今更蒸し返すような事を……未音の馬鹿」


 思ったままがくちから漏れる。


「話が見えないんだが」


 酔っ払いが顔をそむけて、わざとらしい笑顔で笑う。


「あのね♪ 悠佑クンがサクヤ姫の許嫁いいなずけなのぉすーっかり忘れてたぁ♪ エヘ♪」

「は?」


 救いを求めて智尋さんに向く。


「まだ悠佑君が休みの度にこの街へ来てた頃、あのヒト……叔父さんが早弓の本家を怒らせるような事をしたらしいの。そこで要求されたのよ。婿に入れ、って」

「なんでまたそんな……」

「早弓の家は代々女性が当主になる仕来りがあって、でも中々娘が産まれない。仮に生まれても、ただでさえ入り婿で居心地のいい立場じゃ無いのに、永く受け継がれてきた儀式や付き合いを滞りなく完璧完全に執り行わないといけない重圧まで……今時そんな家に入りたい男なんて、ね」

「それで〝婿になれ〟か。しかし、あの伯父貴が頭を下げた?」


 国際的なテロ組織だろうと、半笑いで壊滅させる人類の規格外。

 その伯父貴が勝てないどころか、無茶な話に従わざるを得なかったとは信じ難い。


 智尋さんが腕を組んで思案顔。


「勝つまで止めないから敗北を知らないヒトが争わなかったのは、それこそがカレにとっての勝利だったのかもね。いつもの通り……」


 嘆息して天井を仰ぐ。


「俺たちの理解を超えた何かをやらかしてたかったんだろうな。でもどうして俺? やらかしたのは伯父貴だろ?」


 酔っ払いがビールを注ぎながら目を逸らす。


「その頃古来よりの例に漏れず早弓の娘はたった一人ひとり、本家から遠ーく離れた分家の遙香ちゃん。何より遙香ちゃんがOKオッケしたらしくてさ。まぁ将来結婚したきゃ相手に苦労する事情は聞かされてたでしょうしね。ともかく〝じゃ! そゆコトで!〟ってなったみたい。二人共まだ小さかったし物心ついてから〝嫌〟っつったらそれまで、って感じだったんだけどねー」

「そんな話聞いてねーぞ!? 頃俺に何があったかは、伯父貴か未音さんが言い聞かせてくれてると思ってたのに……」

「だってその時悠佑君クン、まだこの街にいなかったもん。それでアイツ、次に来た時に説得するつもりだったらしいんだけどさ」

「まさか……」

「そゆコト。だから智尋が言った通り〝無かった事〟になってたのよん。まぁ二人共ランドセル背負しょってたカワイイお子様時代のお話。オトコとオンナの惚れた腫れたがわかる年齢としになった頃にゃくち聞かなくなってたし、最初に決めてた〝それまで〟条項発動かな? ってね。とまぁもう終わった話だし、あちらの親御さんだってとっくに忘れてたでしょ♪」

「そんな野郎とひとつ屋根の下が、秒で認められたんだが」

「あ……ら?」

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