03-04:雨の下、傘の中・4

□scene:01 - 街:住宅地



 辺り一面いちめん水に覆われ、記憶と家々や信号を照らし合わせ歩道であるはずを行く。

 急に地表が冷えたためか、強くはないが肌から熱を奪うに十二分の風が巻く。


 大粒の雨がその風に流され、幾重にも重なり落ちる滝の如く。

 視界は霞みすねまである水流で足が上がらず、ヒトの声はき消される。


 その中でその姿を探し、声を張り上げ駆ける。


「愛里沙ぁ────!!」


 走ってはいけない脚はすぐに悲鳴を上げただろう。

 終わりを緩やかにしているだけの身体からだが冷え切る前にと、ひざが震える。


 激しい雨音が数瞬途切れ、小さくか細い声が届いた。


(きゃ……)


 とても小さな、しかし聞き間違えるはずがない声に全身の毛が逆立つ。


「そこか!?」


 声が途切れた方へ駆け寄ると、弱々しく藻掻もがく彼女がうつぶせに沈み流されていた。

 可動域が限られる身体からだは、転ぶと自力では起き上がれない場合がある。

 蹴躓つまずいたのか水流に足を取られたのか、よりによってその姿。


 水の中にひざを着き彼女を抱え上げ、広げた傘で雨から隠す。

 小さな彼女は大振りな傘に収まり、容赦なく叩き付ける雨からは護れた。

 上着を脱いで彼女をくるみ、カバンから出したタオルでできる限りを拭き取る。


 ふと、袖に彼女の眼鏡がぶら下がっていると気付く。

 倒れて落としたそれを、抱え上げた時に偶然引っ掛けたのだろう。

 微かな傷も気に病み頭を下げて詫びるのに、無くしたとは思わせたくない。

 腕に抱く彼女を締め付けすぎないように慎重に、眼鏡それを手に取り綺麗な顔に置く。


 あらゆる事態に備えていたから、ここまでに迷いは無かった。

 だが、俺が巧くやれていたらはならなかったと思うと呼吸いきが詰まる。


 黙ったままで気遣わせたくはなく、どうにか思いついた言葉を紡ぐ。


「わ、わりい。待たせたな」


 腕の中で、小さな彼女がちからなく咳き込む。


「こ、こほっ、だ、大丈夫……ちょっと……ちょっと転んだ、だけ……こっ」


 避けられ距離を置かれている問題は棚に上げる。

 今より嫌われるより、今より彼女の残り時間が減る方こそ絶えられない。


 病院より近いうちに向き、迎えや救急車を呼んだ場合に合流が容易な方へ歩く。

 スマホを手に取ろうと手を伸ばすが、抱えた彼女が気になり巧くいかない。


「智尋さんに……行くのが早いか来て貰うのが……」


 愛里沙が顔を上げる。


「待って! そこまでじゃな……こほっ、大丈夫……こほっ……から……」

「でも!」

「みんなに心配かけたくないから……迷惑も……悠佑さんにも……私と一緒だとまたヘンな目で見られるのに……一人ひとりで歩けなくて……ごめんな……さい……」


 上手く歩けないのも小さなままなも、彼女にはどうしようもない事ばかり。

 なのに謝らせる現実に、壁にすらなれなかった俺自身に涙が出るほど腹が立つ。


 涙が雨に紛れた顔で微笑み、彼女が彼女自身を責めないで済む言葉を探す。


「あ、あんな上辺しか見えない連中を気にする事はないさ。俺だって〝中二病〟とか言われてるけど、飾れるほど巧い生き方なんてできないとわかんないのか、って話。ちゃんと本当の愛里沙を見てるヒトはいるよ。俺だって……」


 自由を奪っている手前、返事を待ち了承を得て動きたいが猶予はない。


「とりあえず帰ろ。このままじゃ風邪を引きそうだしさ」


 ひざまで増していた水の中、流れが複雑で思うように進めない。

 俺の真顔をを見たのか、腕の中の愛里沙が項垂うなだれる。


「私、こんなに優しくして貰えるコじゃない。こんなに……」


 その声に思わず足を止め、愛里沙を見た。

 その頬を濡らすのは、拭いきれなかった雨だけではない。

 愛里沙が俺の腕に強く、強く縋り着き、必死な表情かおを寄せてくる。


「〝愛衣と愛彩を〟って約束を守って貰えて、諦めてた私まで……お礼を言わなきゃいけないのに悠佑さんを見てるとお礼それだけじゃ全然足りない気がして、でも何も思い浮かばなくて、どんな表情かおしたらいかわかんなくて逃げてばかりで……自分でも嫌なコってわかってる……のに、悠佑さんは優しくて愛衣と愛彩は普通に甘えてて、まだちゃんとお礼ができてないのにって止めさせるけど、後から私には無理な事ができる二人を見たくなかったのかもって……そう思うと普通に話してる智那さんや智尋さんまで羨ましくて、見てられなくて、でもみんな大好きで、今は、さっきの女子らまでちゃんと帰れるかな? って……私、自分で自分がわかんない。こんな何を考えてるのかわかんないコなんて嫌だよね? さっきも言われてたけど、気持ち悪いよね? 私だってそう思うもの!」


 一気いっきまくし立て、苦しそうに喉を鳴らし肩で呼吸をする愛里沙。

 少しだけ落ち着くとうつむき、苦しそうにまたくちを開く。


「ちゃんと〝ありがとうございます。毎日幸せです〟って言いたかった……なのに、悠佑さんを見る度嫌なコになってく。前はこんなじゃなかった。愛衣と愛彩が笑ってくれてたら私なんて嫌われたってどうなったって良かった。なのに、今は悠佑さんに嫌われても仕方の無い事ばかりの私が嫌で……こんな……こんな私……」


 その身体からだを思えば当然止めさせるべき、しかしその勢いに圧倒された。

 自分が危ういと一番いちばん知っている彼女の必死さを、止めるなんてできなかった。


 何より、その言葉に身体からだの芯が痺れていた。

 愛里沙はヒトのために優しい嘘はけても、自分を救い飾る術を知らない。

 なら嫌われ避けられてはいなかったとも聞こえ、構えていた心がけていく。


 自分でも驚くほどに落ち着いた手で、愛里沙の涙をぬぐう。

 されるがままなのは、抱え込んでいた全てを放てたからと思いくちを開く。


「愛里沙……俺は……」


 俺の言葉をさえぎるように、答えを聞きたくないかのように愛里沙が顔を上げる。


「悠佑さんは私が可哀想だから、優しくしてくれるんですよね?」


 否定はできないが、肯定すれば全てを覆い尽くす大きく重い価値観。

 それだけではないと思わせたいから安易にうなずけず、慎重に言葉を選ぶ。


「最初に会ったときはだったかもな」

「だから……じゃなくなったらこうして貰えない、ってわかってます」


 〝そんな事ない〟〝気にしないで〟は、気遣いと解釈されて気遣わせてしまう。

 しかし思い付く限りの言葉を受け流されてきて、まだ次が思い浮かばない。


 何も言わない、言葉が見つからない俺から愛里沙は目を逸らし、うつむく。


「智尋せんせにこんなに良くして貰って、智那さんはまた学校へ通えるぐらい勉強を見てくれて、遙香さんと一緒いっしょだとヘンなヒトは近づかなくて……いつか、可哀想じゃなくなったらちゃんと恩返したい。なったらとても嬉しいし早くなりたい。でもなったら……可哀想じゃなくなったらみんなは……悠佑さんは……」


 終わりを緩やかにするしかできない身体からだに、彼女が願う〝いつか〟は来ない。

 智尋さんは言葉を選んでいるが、聡明な彼女が気付いていないはずがない。

 それでも彼女は一縷いちるの望みに賭け日々頑張っている。


 なまじ、最悪の下から一見いっけん普通に見えるまで整ったから、夢見る心を否定できない。


 そして知ってしまった、切な過ぎる現実。

 彼女は最期まで壊れていく身体からだで、最期まで治った後を憂い涙し続ける。


 腕の中の小さな身体からだが震える。


「私……愛衣と愛彩みたいに可愛いくない。智那さんみたいに女の子っぽくないし、肌も綺麗じゃない。遙香さんみたく悠佑さんの背に釣り合わないし髪も……さっきのコみたいにお洒落が似合わない。お化粧だって……こんな……誰も……嫌われても仕方無いし、私だってこんな私なんか……」


 虐待者は〝醜い〟〝汚い〟〝誰も好きにならない〟と精神こころに刻み込んでいた。

 現実は、まない盗撮と詰まらない女子にねたまれている事実が証明している。


 そもそも美的感覚には個人差があり、誰かの見立てが万人に共通とは成り得ない。

 愛里沙も一般的にはその小ささサイズ相俟あいまって〝可愛い〟と評されるが、俺は違う。

 初めて見た瞬間とき〝綺麗〟と精神こころに刻まれ、今も変わらず毎朝感動している。


 確かに肌や髪だけ見れば上はいる、それでも総体的には女神か天使のよう。

 完全体だったら、眩し過ぎて直視できなかったかもしれない。


 俺がそう確信していても下手な慰めで済むとは思えず、そんな話術スキルもない。

 しかし沈黙はその自虐に同意となりかねず、思ったままで臨むしかない。


「愛衣も愛彩も可愛いよな」

「うん。とっても」

「じゃあそのお姉さんも可愛いよな、普通」


 俺は〝綺麗〟と思うが、ここはわかり易く一般的いっぱんてきな評で臨む。

 だがしかし、哀しそうにうつむく愛里沙。


「私、二人とあまり似てないから……」


 頭の中に鈍痛、胸の奥に激痛。

 地雷を踏んだ自覚が精神世界でもんどり打たせ、転げ回って己を殴りまくる。


 愛里沙は髪も瞳も亜麻色よりも淡いのに、双子はあおみがかるほどに漆黒。

 白く透き通る愛里沙と並べば、双子の健康的に過ぎる肌はより濃く見える。

 顔つきも限りない優しさに満ちた愛里沙に対し、双子は愛らしくも勇ましい。

 虐待のためか父親似か母親に似たのか、とにかく姉妹には歴然とした差がある。


 ここで黙り込んでは闇を上塗うわぬりしただけ、何としても払拭しなければならない。


「ち、智那なんて丸いだけだぞ? スラッとしてる愛里沙の方がずっといいって!」

「でも、すっごく……」


 さえぎるものの何も無い、虚無とも言える身体からだを見下ろす愛里沙。

 〝それが埋もれる腹を思い出せ〟と言いたいが、取り敢えず生贄サンプルを変える。


「早弓なんざ下手に背があるから、視界に入って鬱陶しいだけなんだが」


 俺を切ない表情かおで、潤んだ瞳で見上げる愛里沙。


「こうして首を曲げなくてもお話できて、悠佑さんも楽だよね。見てればわかるよ。目を合わせただけでわかり合ってる時もあるし……」


 〝目を合わせている〟を〝睨み合っている〟と正すのは、正しい対応では無い。

 この場合ケースで彼女が気に病んでいるのは、釣り合う背の高さ。


 二人共見た目より性格が論外だが、見た目それを嘆く愛里沙の慰めにはならない。

 智那の肉と早弓の背を有する誰かが身近にいたら、取り付く島もなかったろう。


 愛里沙が顔を伏せ、肩を震わせる。


「悠佑さんに嫌われたくない。なのに愛衣や愛彩みたいに上手く笑えない。前はただ護りたい、二人が幸せになれたらってだけだったのに、今は羨ましくて……もやもやして……こんなんじゃ智那さんにも遙香さんにも……こんな私嫌い……大嫌い……」


 愛里沙は俺を欠くべからざる存在と思ってくれて……いや思ってしまっている。

 身を寄せている家のあるじ以上であればとも思うが、今問題なのはそこではない。


 必要なのは、虐待者に自身をさげすむよう刷り込まれた彼女の心を上向かせる事。


 だが数ヶ月を経て、ただ優しくして優しく語っても駄目だと思い知った。

 俺にこれ以上の話術スキルは無く、数ヶ月をてこれでは伸びも期待できない。


 残るはできるわけがないと考えもしなかった手段、〝強引に攻める〟のみ。

 おあつらえ向きにしっかり抱えているから、逃げられ有耶無耶に終わる心配は無い。

 最悪の結末が脳裏をよぎり震えるが、他に選択肢は浮かばず熟考する猶予も無い。


 街中でそこかしこに人影があろうと、豪雨に打たれた傘の下は二人だけの世界。

 身の程知らずの台詞せりふも、豪雨の音が掻き消してくれると思えば耐えられる。

 敢えて前を向き、目を合わさずに話す。


「愛里沙は何もできないと思って、だから何もしてないと思って自分なんかって……だから今が終わると思って怖いんだ。みんなが、俺が変わってしまうのが」


 腕の中の彼女が身を固くするのは、肯定の証。


「じゃあひとつ、契約をしよう」

「契約?」

「愛里沙が〝更新しない〟と言うまで、俺は今よりよくなるように頑張る。絶対に。どうすれば破らない保証ができるのかわからないけど、そうだな……何なら俺をあの家から追い出してくれ。他のみんなを証人にして。愛里沙は伯父貴の養女むすめで俺は甥、その気になれば法律が味方してくれるんじゃないかな。よくわからないけど」

「そんな! 悠佑さんを……なんて……あ、あの……その〝契約〟って……私は何をすればいいんですか?」


 彼女にとって、すれば約束が果たされると確信できる重みが要る。

 簡単だったり二人に無関係だと、〝上から目線の気まぐれ〟になりかねない。


 だが俺たちには、彼女にとって重々しく二人に深く関わる未解決問題があった。


「俺に〝さん〟付けは無しで」

「〝さん〟……無し? 悠佑……さんを!? む、無理です!」


 わかってはいたが、全力の〝無理〟表明に涙がこぼれそう。

 敢えて前を向いたまま話すのは、こうなる事を予想していたからでもある。


 愛里沙の全力〝無理〟が俺の精神をえぐり続ける。


「こんなにお世話になってるのに、そんな失礼な事! 無理です! 絶対!」


 それも真意だろうが、あかい頬が他にも理由があると教えてくれている。

 他ならぬ俺自身も経験した難問だから、よくわかる。


 そして愛里沙は、とてもとても頭がいい。

 俺でも理解わかった未音さんの言葉、〝家族だから〟の意味を理解わからないはずがない。


「俺だって〝せめてもう少し俺に慣れて貰ってから〟って抵抗したけど、未音さんに言いくるめられたし。愛里沙だけ〝まだ〟ってズルい」

「で! でも!!」

「〝無理〟だと思うから無理をする意味がある事だってあるさ。簡単だったら簡単に無かった事にできそうだし」


 顔を真っにしたまま、でもうつむかない彼女に向く。


「ワケアリだけど家族みたく暮らしてんのに、愛里沙だけ他人行儀でわびしかったし。家族は特別……これは理解わかるだろ? 愛衣と愛彩だけじゃなくて、俺にもそう思ってくれたら全力で応える。そのための契約」


 腕の中でうつむいた彼女は、耳まであかく染めていた。


 出会うまでは知らないが、今は智那や早弓や同じ学年の女子と楽しく話す日々。

 元より精神年齢は低めの男子より、女子の方がその意味と価値を知るはず。

 そして智那の誘導でたしなむ少女マンガのヒロインたちも、大抵は〝並〟扱い。

 自虐する彼女が〝自分でもそれは特別〟と思ってくれると思いたい。


 そもそもが万策尽きての思い付き、悪足掻わるあがき以外の何ものでも無い。

 既に終わった話と思えば、トドメの一撃いちげきが和らぐかもしれない。


 愛里沙が肩を震わせ、つぶやく。


「私じゃない私みたいなヒトが、私より先に悠佑……に会ってたら、そのヒトがして貰ってたのかな……こんな風に呼んで……」


 背筋に電が落ちた。

 こんなにも綺麗なに呼び捨てられて、心震えない野郎などいて堪るか。

 必死に頑張る相手に下手に飾っては礼儀知らず、思ったままを伝えるべき。


「俺の何が気に入らないのか早弓は目の敵にしやがって、智那は面白がってるだけ。上辺しか見ないさっきみたいのなんざどうでもいい。でも愛里沙は……家族の意味を忘れてた俺に、自分より家族を大事に想う愛里沙は誰とも違ってた」


 腕の中の愛里沙が僅かに重くなる。

 その小さな身体からだが、俺の胸に預けられていく。


 愛里沙の手に……傘を持つ俺の腕を掴むに手にちからが入る。


「傘の向こうは寒くて冷たくて、きっと悠佑の足だって……私だけ違う世界にいて、私だけが護られてて、暖かくて、嬉しくて……」


 ビニール傘の向こうが、激しい雨を受けてゆがんで見える。

 傘の中ここは現実の外、世界を俯瞰ふかんで見ているかのような気分になってくる。


 雪の夜、羽のように軽い愛里沙を抱えた時に〝何か〟を感じた。

 その透き通るような頬に積もる雪を見た時、言葉が頭に浮かんだ。

 歯に衣着せずに感じたまま言えば、〝お前の役〟とけしかけられた気がした。


 他の誰がどうだろうと、俺は特別……それは受け入れてくれたと思いたい。

 傘の向こうに見えた知った顔に、思わずつぶやく。


「あいつら……」


 愛里沙に悪態をいた女子たちやつらが、向かいの歩道で豪雨に打たれていた。


 誰かが濁流に足を取られて転びそうになる。

 咄嗟に誰かの肩を掴み、掴まれた方は誰かの髪を掴んで引き倒す。

 そして全員仲良く泥水の中へダイビング……を繰り返しているから中々先へ進まない。


 〝いい気味〟だとは思わない。

 傘の外がどうあろうと別の世界の出来事だから、絵画を見ているようなもの。


 同じ方を向いていた愛里沙が、戸惑いながらつぶやく。


「どうしてだろ? 私……あんな事言われてされてたのに、あの女子ヒトたちはちゃんと帰れるのかな? って胸の奥が痛い。知らないヒトにも、ここから見えるみんなに」


 だろう、とは思っていた。


 愛里沙は優しい。

 俺の常識では計り知れないほどに、優しすぎる。

 だからどんな哀しみにも自分を責め、身を投げ出していた。


 涙ぐんだ、不安そうな表情かおが俺を見上げる。


「でもこの傘の中はダメ、誰も入ってこないで、ってワガママ思って……また自分で自分がわかんなくなってる……」


 彼女と会って目が覚めた俺は、その際限の無い優しさを愚かとは思わない。

 時に危ういそんな思いを、絶対に護ると決めた誰かがいればいいだけ。

 そんな積み重ねが、この世をほんの少しずつ良くする気もする。


 努めて優しく微笑んで見せる。


「絶対に迷わないし間違わないヒトなんていない。今だって〝愛里沙らしいなー〟の他に思うのは、その勢いで俺にも優しくして欲しいぐらい。まーとにかく、愛里沙は愛里沙のままでいいんだ。もしまた愛里沙が愛里沙を嫌いになったら、仲直りできるまで両方の言い分を聞く。それも〝契約〟の内」


 腕の中で愛里沙の背が僅かに伸び、少し緩んだ表情があかみを増して近づく。


「悠佑……私……私でいいの?」


 傘を持った手で彼女を冷たく痛い雨から、外界から護るように抱き締めた。

 もう片方の手に持ったタオルで、濡れた髪を拭いながらささやく。


「この傘も俺のにも愛里沙一人ひとりが精一杯。これ以上は手の空いてる奴に任せるしかないな」


 愛里沙が伸び上がったのか俺が顔を寄せたのか、彼女の吐息いきが近い。

 間近で見る潤んだ亜麻色の瞳が、あかい頬があまりに尊く目を離せない。


 そして、不意にちからを失い腕の中へ沈んでいく。


「愛里……沙!?」





□scene:02 - マンション:リビングダイニングキッチン



 愛里沙の部屋から出るなり迫り来る智尋さんに、大窓まで追い詰められる。


「どういう事!? 悠佑君がついてて何をしてたの!?」

「い、いや、これでも急いで帰って来たんですけど……それで愛里沙は?」


 いささか深刻さに欠けるのは、智尋さんの表情かおに余裕が見て取れるから。

 安堵が〝愛里沙に嫌われていなかった〟と〝名前呼び〟を思わせ、頬が緩む。


「全くもう……疲れて眠ってるだけのようね。あの身体からだだから目は離せないけど」


 気を失った愛里沙を抱え、郷里さんに愛車で迎えに来てと懇願。

 川と化した道路で救急車が立ち往生していたから、迷いは無かった。

 智尋さんにはどこも水害で混乱しているからとここを指定され、今に至る。


 智尋さんが腕を組み、大きく嘆息。


「郷里君がいてくれて、本当に良かった」



                *



 ひざまで沈む水嵩みずかさも、車高と吸排気に手が入れられた四駆はものともしない。

 智尋さんを運んでいた辺りから続々と応援要請が入り、今も大活躍中の模様。

 廃車までに一度いちど役立つかも怪しかった趣味装備が大活躍、郷里さんは意気揚々。



                *



 一息吐ひといきつき終わり、再び詰め寄られる。


「雨の中で傘を差しても心配なのに、ずぶ濡れになるなんて……何があったの?」

「学校での人間関係とか俺との関係とかとにかく全部俺のせいで、一応取り敢えずは何とかなった? と思うんですが……これからは気をつけます」

「〝人間関係〟……ね。最初は〝気遣い〟だったのが〝優越感〟になって、見下ろすヒトが必ず現れるのよね。踏み付けるまで増長する場合ケースも珍しくないし。念の為に、智那にも伝えておくわ」


 言うべきを言い終わり肩からちからが抜けた智尋さんが、大窓から街を見下ろす。


「それにしても、下は大変な事になってるわね」


 街は彼方まで沈み、まるで海の中にビルが建ち並ぶ水没して滅んだ跡のごとく。

 見渡す限りに灯りが無いのは、辺り一帯いったいが停電している証。


 高架上の自動車専用道路は、まるでウォータースライダー。

 側壁に沿って流れていくクルマも少なくない。


 一方いっぽうでこのマンションにはガスタービンによる発電システムが備わっている。

 大がかりな医療機材も無事に稼働中で、どんな仕組みかネットも繋がったまま。


 愛里沙が無事なら他は全て他人事、すべき事も無く何となく智尋さんと並ぶ。


「ここに住んでから台風も何度か来たけど、こんなの初めてです」

「雨に備えて放水していたダムの下流で大規模な土砂崩れがあったのよ。それで川がき止められて、でもダムからの放水を止める事もできず、崩れた崖から地下水まで噴き出して……それが全部この街に流れ込んだのね」

「どこかで止められなかったのかな? ひとつでもどうにかできてれば、ここまでにはならなかったのかもしれないのに」


 智尋さんがタブレットに指を滑らせる。


「ダムの水を減らしておけばはならなかったのでしょうけど、予報より早く降り出して雨量も観測史上最大を超えた時にはもう手遅れ。土砂崩れも晴れている間にと工事を急いだから起きてしまったようね」

「衛星やレーダーが駄目で予報が当てにならないとこに、この雨……人災か。いや、そもそもの原因は雨だから結局は天災?」

「どうかしら? ヒトによって見方は異なりそうだけど……そう言えば、なった場合に備えて川の流れを変えたり堤防を強化する話があったわね」

「でも、なってますよ?」


 濁流の中を看板や倒木が流れているのを見ると、台風直下の荒れた川のよう。

 それが〝川〟ではなく〝街全体〟となると、もう天を仰ぐしかない。


 智尋さんが口元に手を当て、思案顔。


「この辺りの地形は水害に弱くて、水没した伝承もあるのに雨が降らない前提で街がつくられてきたから、やはり人災なのかしら。いつ起きるかわからない不幸にお金をかけるより他に、とは聞いていたけど、本当に何もせずにいたら運悪く……だから」

「何もしなかった言い分も、わからなくは……いや、安全なとこから眺めてるだけの俺なんかがとやかく言っていい話じゃないか」


 素人が何を思おうと個人的なお気持ちに過ぎず、時間と熱量カロリーの無駄使い。

 知識も経験も乏しいなら見当違いは当然、くちにすれば当事者をいらつかせるだけ。


 智尋さんが溜息を吐きつつ首を振る。


「いつの間にか、こんな不安が増えてたのよね」

「〝不安〟?」

「何もかもが、本当はもう駄目になっているかもしれない〝不安〟。この雨だって、いつだったかの計画通り川の流れを変えて堤防が強化されていれば、と思うとね」

なった理由に責任がない未成年としては、〝大人が望んだ未来がこれかー〟と言うしかありませんけど。〝期待できない〟のは〝不安〟とも言えますが」


 流されるクルマ、倒れる街路樹、ビルの窓から助けを求めるヒトたち。

 その〝大人〟の一人ひとりでもある智尋さんが苦笑い。


「そうなのよね。いくつかもの安全策があって、何が起こっても大丈夫か、次の手を打つまでの時間稼ぎはできるようにしてあれば……なんて今時流行らないか。いつの間にか余裕の無い世界になってたのよ。最近はどこもそんな話ばかりね」

「景気が最悪だった頃を引きってんのかな? 今も余裕は無いらしいけど、弘毅ヒトに聞いた話じゃ、ゲームや映画だと〝子供のために〟が無茶していい免罪符になってるらしいのに。現実は子供の時代なんて考えてなかったのが現実的です」

「確かに……そう言われると申し訳ないわ。そんな大人にならないよう頑張ってね、次の世代さん♪」

「そんな世界の頂上てっぺんから広く見渡す役になれんのは、その気と才能が最初からあってしっかり育てた上級人類。産まれて半分けてて、すぐ側にいるも満足に護れない俺に言われてもなー」

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