03-04:雨の下、傘の中・4
□scene:01 - 街:住宅地
辺り
急に地表が冷えたためか、強くはないが肌から熱を奪うに十二分の風が巻く。
大粒の雨がその風に流され、幾重にも重なり落ちる滝の如く。
視界は霞み
その中でその姿を探し、声を張り上げ駆ける。
「愛里沙ぁ────!!」
走ってはいけない脚はすぐに悲鳴を上げただろう。
終わりを緩やかにしているだけの
激しい雨音が数瞬途切れ、小さくか細い声が届いた。
(きゃ……)
とても小さな、しかし聞き間違えるはずがない声に全身の毛が逆立つ。
「そこか!?」
声が途切れた方へ駆け寄ると、弱々しく
可動域が限られる
水の中に
小さな彼女は大振りな傘に収まり、容赦なく叩き付ける雨からは護れた。
上着を脱いで彼女を
ふと、袖に彼女の眼鏡がぶら下がっていると気付く。
倒れて落としたそれを、抱え上げた時に偶然引っ掛けたのだろう。
微かな傷も気に病み頭を下げて詫びるのに、無くしたとは思わせたくない。
腕に抱く彼女を締め付けすぎないように慎重に、
あらゆる事態に備えていたから、ここまでに迷いは無かった。
だが、俺が巧くやれていたら
黙ったままで気遣わせたくはなく、どうにか思いついた言葉を紡ぐ。
「わ、
腕の中で、小さな彼女が
「こ、こほっ、だ、大丈夫……ちょっと……ちょっと転んだ、だけ……こっ」
避けられ距離を置かれている問題は棚に上げる。
今より嫌われるより、今より彼女の残り時間が減る方こそ絶えられない。
病院より近い
スマホを手に取ろうと手を伸ばすが、抱えた彼女が気になり巧くいかない。
「智尋さんに……行くのが早いか来て貰うのが……」
愛里沙が顔を上げる。
「待って! そこまでじゃな……こほっ、大丈夫……こほっ……から……」
「でも!」
「みんなに心配かけたくないから……迷惑も……悠佑さんにも……私と一緒だとまたヘンな目で見られるのに……
上手く歩けないのも小さなままなも、彼女にはどうしようもない事ばかり。
なのに謝らせる現実に、壁にすらなれなかった俺自身に涙が出るほど腹が立つ。
涙が雨に紛れた顔で微笑み、彼女が彼女自身を責めないで済む言葉を探す。
「あ、あんな上辺しか見えない連中を気にする事はないさ。俺だって〝中二病〟とか言われてるけど、飾れるほど巧い生き方なんてできないとわかんないのか、って話。ちゃんと本当の愛里沙を見てるヒトはいるよ。俺だって……」
自由を奪っている手前、返事を待ち了承を得て動きたいが猶予はない。
「とりあえず帰ろ。このままじゃ風邪を引きそうだしさ」
俺の真顔をを見たのか、腕の中の愛里沙が
「私、こんなに優しくして貰えるコじゃない。こんなに……」
その声に思わず足を止め、愛里沙を見た。
その頬を濡らすのは、拭いきれなかった雨だけではない。
愛里沙が俺の腕に強く、強く縋り着き、必死な
「〝愛衣と愛彩を〟って約束を守って貰えて、諦めてた私まで……お礼を言わなきゃいけないのに悠佑さんを見てると
少しだけ落ち着くと
「ちゃんと〝ありがとうございます。毎日幸せです〟って言いたかった……なのに、悠佑さんを見る度嫌なコになってく。前はこんなじゃなかった。愛衣と愛彩が笑ってくれてたら私なんて嫌われたってどうなったって良かった。なのに、今は悠佑さんに嫌われても仕方の無い事ばかりの私が嫌で……こんな……こんな私……」
その
自分が危ういと
何より、その言葉に
愛里沙はヒトのために優しい嘘は
なら嫌われ避けられてはいなかったとも聞こえ、構えていた心が
自分でも驚くほどに落ち着いた手で、愛里沙の涙を
されるがままなのは、抱え込んでいた全てを放てたからと思い
「愛里沙……俺は……」
俺の言葉を
「悠佑さんは私が可哀想だから、優しくしてくれるんですよね?」
否定はできないが、肯定すれば全てを覆い尽くす大きく重い価値観。
それだけではないと思わせたいから安易に
「最初に会ったときは
「だから……
〝そんな事ない〟〝気にしないで〟は、気遣いと解釈されて気遣わせてしまう。
しかし思い付く限りの言葉を受け流されてきて、まだ次が思い浮かばない。
何も言わない、言葉が見つからない俺から愛里沙は目を逸らし、
「智尋せんせにこんなに良くして貰って、智那さんはまた学校へ通えるぐらい勉強を見てくれて、遙香さんと
終わりを緩やかにするしかできない
智尋さんは言葉を選んでいるが、聡明な彼女が気付いていないはずがない。
それでも彼女は
そして知ってしまった、切な過ぎる現実。
彼女は最期まで壊れていく
腕の中の小さな
「私……愛衣と愛彩みたいに可愛いくない。智那さんみたいに女の子っぽくないし、肌も綺麗じゃない。遙香さんみたく悠佑さんの背に釣り合わないし髪も……さっきのコみたいにお洒落が似合わない。お化粧だって……こんな
虐待者は〝醜い〟〝汚い〟〝誰も好きにならない〟と
現実は、
そもそも美的感覚には個人差があり、誰かの見立てが万人に共通とは成り得ない。
愛里沙も一般的にはその
初めて見た
確かに肌や髪だけ見れば上はいる、それでも総体的には女神か天使のよう。
完全体だったら、眩し過ぎて直視できなかったかもしれない。
俺がそう確信していても下手な慰めで済むとは思えず、そんな
しかし沈黙はその自虐に同意となりかねず、思ったままで臨むしかない。
「愛衣も愛彩も可愛いよな」
「うん。とっても」
「じゃあそのお姉さんも可愛いよな、普通」
俺は〝綺麗〟と思うが、ここはわかり易く
だがしかし、哀しそうに
「私、二人とあまり似てないから……」
頭の中に鈍痛、胸の奥に激痛。
地雷を踏んだ自覚が精神世界でもんどり打たせ、転げ回って己を殴りまくる。
愛里沙は髪も瞳も亜麻色よりも淡いのに、双子は
白く透き通る愛里沙と並べば、双子の健康的に過ぎる肌はより濃く見える。
顔つきも限りない優しさに満ちた愛里沙に対し、双子は愛らしくも勇ましい。
虐待のためか父親似か母親に似たのか、とにかく姉妹には歴然とした差がある。
ここで黙り込んでは闇を
「ち、智那なんて丸いだけだぞ? スラッとしてる愛里沙の方がずっといいって!」
「でも、すっごく……」
〝
「早弓なんざ下手に背があるから、視界に入って鬱陶しいだけなんだが」
俺を切ない
「こうして首を曲げなくてもお話できて、悠佑さんも楽だよね。見てればわかるよ。目を合わせただけでわかり合ってる時もあるし……」
〝目を合わせている〟を〝睨み合っている〟と正すのは、正しい対応では無い。
この
二人共見た目より性格が論外だが、
智那の肉と早弓の背を有する誰かが身近にいたら、取り付く島もなかったろう。
愛里沙が顔を伏せ、肩を震わせる。
「悠佑さんに嫌われたくない。なのに愛衣や愛彩みたいに上手く笑えない。前はただ護りたい、二人が幸せになれたらってだけだったのに、今は羨ましくて……もやもやして……こんなんじゃ智那さんにも遙香さんにも……こんな私嫌い……大嫌い……」
愛里沙は俺を欠くべからざる存在と思ってくれて……いや思ってしまっている。
身を寄せている家の
必要なのは、虐待者に自身を
だが数ヶ月を経て、ただ優しくして優しく語っても駄目だと思い知った。
俺にこれ以上の
残るはできるわけがないと考えもしなかった手段、〝強引に攻める〟のみ。
お
最悪の結末が脳裏をよぎり震えるが、他に選択肢は浮かばず熟考する猶予も無い。
街中でそこかしこに人影があろうと、豪雨に打たれた傘の下は二人だけの世界。
身の程知らずの
敢えて前を向き、目を合わさずに話す。
「愛里沙は何もできないと思って、だから何もしてないと思って自分なんかって……だから今が終わると思って怖いんだ。みんなが、俺が変わってしまうのが」
腕の中の彼女が身を固くするのは、肯定の証。
「じゃあ
「契約?」
「愛里沙が〝更新しない〟と言うまで、俺は今よりよくなるように頑張る。絶対に。どうすれば破らない保証ができるのかわからないけど、そうだな……何なら俺をあの家から追い出してくれ。他のみんなを証人にして。愛里沙は伯父貴の
「そんな! 悠佑さんを……なんて……あ、あの……その〝契約〟って……私は何をすればいいんですか?」
彼女にとって、
簡単だったり二人に無関係だと、〝上から目線の気まぐれ〟になりかねない。
だが俺たちには、彼女にとって重々しく二人に深く関わる未解決問題があった。
「俺に〝さん〟付けは無しで」
「〝さん〟……無し? 悠佑……さんを!? む、無理です!」
わかってはいたが、全力の〝無理〟表明に涙が
敢えて前を向いたまま話すのは、こうなる事を予想していたからでもある。
愛里沙の全力〝無理〟が俺の精神を
「こんなにお世話になってるのに、そんな失礼な事! 無理です! 絶対!」
それも真意だろうが、
他ならぬ俺自身も経験した難問だから、よくわかる。
そして愛里沙は、とてもとても頭がいい。
俺でも
「俺だって〝せめてもう少し俺に慣れて貰ってから〟って抵抗したけど、未音さんに言いくるめられたし。愛里沙だけ〝まだ〟ってズルい」
「で! でも!!」
「〝無理〟だと思うから無理をする意味がある事だってあるさ。簡単だったら簡単に無かった事にできそうだし」
顔を真っ
「ワケアリだけど家族みたく暮らしてんのに、愛里沙だけ他人行儀で
腕の中で
出会うまでは知らないが、今は智那や早弓や同じ学年の女子と楽しく話す日々。
元より精神年齢は低めの男子より、女子の方がその意味と価値を知るはず。
そして智那の誘導で
自虐する彼女が〝自分でもそれは特別〟と思ってくれると思いたい。
そもそもが万策尽きての思い付き、
既に終わった話と思えば、トドメの
愛里沙が肩を震わせ、
「私じゃない私みたいなヒトが、私より先に悠佑……に会ってたら、そのヒトが
背筋に電が落ちた。
こんなにも綺麗な
必死に頑張る相手に下手に飾っては礼儀知らず、思ったままを伝えるべき。
「俺の何が気に入らないのか早弓は目の敵にしやがって、智那は面白がってるだけ。上辺しか見ないさっきみたいのなんざどうでもいい。でも愛里沙は……家族の意味を忘れてた俺に、自分より家族を大事に想う愛里沙は誰とも違ってた」
腕の中の愛里沙が僅かに重くなる。
その小さな
愛里沙の手に……傘を持つ俺の腕を掴むに手に
「傘の向こうは寒くて冷たくて、きっと悠佑の足だって……私だけ違う世界にいて、私だけが護られてて、暖かくて、嬉しくて……」
ビニール傘の向こうが、激しい雨を受けて
雪の夜、羽のように軽い愛里沙を抱えた時に〝何か〟を感じた。
その透き通るような頬に積もる雪を見た時、言葉が頭に浮かんだ。
歯に衣着せずに感じたまま言えば、〝お前の役〟と
他の誰がどうだろうと、俺は特別……それは受け入れてくれたと思いたい。
傘の向こうに見えた知った顔に、思わず
「あいつら……」
愛里沙に悪態を
誰かが濁流に足を取られて転びそうになる。
咄嗟に誰かの肩を掴み、掴まれた方は誰かの髪を掴んで引き倒す。
そして全員仲良く
〝いい気味〟だとは思わない。
傘の外がどうあろうと別の世界の出来事だから、
同じ方を向いていた愛里沙が、戸惑いながら
「どうしてだろ? 私……あんな事言われてされてたのに、あの
だろう、とは思っていた。
愛里沙は優しい。
俺の常識では計り知れないほどに、優しすぎる。
だからどんな哀しみにも自分を責め、身を投げ出していた。
涙ぐんだ、不安そうな
「でもこの傘の中はダメ、誰も入ってこないで、ってワガママ思って……また自分で自分がわかんなくなってる……」
彼女と会って目が覚めた俺は、その際限の無い優しさを愚かとは思わない。
時に危ういそんな思いを、絶対に護ると決めた誰かがいればいいだけ。
そんな積み重ねが、この世をほんの少しずつ良くする気もする。
努めて優しく微笑んで見せる。
「絶対に迷わないし間違わないヒトなんていない。今だって〝愛里沙らしいなー〟の他に思うのは、その勢いで俺にも優しくして欲しいぐらい。まーとにかく、愛里沙は愛里沙のままでいいんだ。もしまた愛里沙が愛里沙を嫌いになったら、仲直りできるまで両方の言い分を聞く。それも〝契約〟の内」
腕の中で愛里沙の背が僅かに伸び、少し緩んだ表情が
「悠佑……私……私でいいの?」
傘を持った手で彼女を冷たく痛い雨から、外界から護るように抱き締めた。
もう片方の手に持ったタオルで、濡れた髪を拭いながら
「この傘も俺の
愛里沙が伸び上がったのか俺が顔を寄せたのか、彼女の
間近で見る潤んだ亜麻色の瞳が、
そして、不意に
「愛里……沙!?」
□scene:02 - マンション:リビングダイニングキッチン
愛里沙の部屋から出るなり迫り来る智尋さんに、大窓まで追い詰められる。
「どういう事!? 悠佑君がついてて何をしてたの!?」
「い、いや、これでも急いで帰って来たんですけど……それで愛里沙は?」
安堵が〝愛里沙に嫌われていなかった〟と〝名前呼び〟を思わせ、頬が緩む。
「全くもう……疲れて眠ってるだけのようね。あの
気を失った愛里沙を抱え、郷里さんに愛車で迎えに来てと懇願。
川と化した道路で救急車が立ち往生していたから、迷いは無かった。
智尋さんにはどこも水害で混乱しているからと
智尋さんが腕を組み、大きく嘆息。
「郷里君がいてくれて、本当に良かった」
*
智尋さんを運んでいた辺りから続々と応援要請が入り、今も大活躍中の模様。
廃車までに
*
「雨の中で傘を差しても心配なのに、ずぶ濡れになるなんて……何があったの?」
「学校での人間関係とか俺との関係とかとにかく全部俺のせいで、一応取り敢えずは何とかなった? と思うんですが……これからは気をつけます」
「〝人間関係〟……ね。最初は〝気遣い〟だったのが〝優越感〟になって、見下ろすヒトが必ず現れるのよね。踏み付けるまで増長する
言うべきを言い終わり肩から
「それにしても、下は大変な事になってるわね」
街は彼方まで沈み、まるで海の中にビルが建ち並ぶ水没して滅んだ跡のごとく。
見渡す限りに灯りが無いのは、辺り
高架上の自動車専用道路は、まるでウォータースライダー。
側壁に沿って流れていくクルマも少なくない。
大がかりな医療機材も無事に稼働中で、どんな仕組みかネットも繋がったまま。
愛里沙が無事なら他は全て他人事、すべき事も無く何となく智尋さんと並ぶ。
「ここに住んでから台風も何度か来たけど、こんなの初めてです」
「雨に備えて放水していたダムの下流で大規模な土砂崩れがあったのよ。それで川が
「どこかで止められなかったのかな?
智尋さんがタブレットに指を滑らせる。
「ダムの水を減らしておけば
「衛星やレーダーが駄目で予報が当てにならないとこに、この雨……人災か。いや、そもそもの原因は雨だから結局は天災?」
「どうかしら? ヒトによって見方は異なりそうだけど……そう言えば、
「でも、
濁流の中を看板や倒木が流れているのを見ると、台風直下の荒れた川のよう。
それが〝川〟ではなく〝街全体〟となると、もう天を仰ぐしかない。
智尋さんが口元に手を当て、思案顔。
「この辺りの地形は水害に弱くて、水没した伝承もあるのに雨が降らない前提で街がつくられてきたから、やはり人災なのかしら。いつ起きるかわからない不幸にお金をかけるより他に、とは聞いていたけど、本当に何もせずにいたら運悪く……だから」
「何もしなかった言い分も、わからなくは……いや、安全なとこから眺めてるだけの俺なんかがとやかく言っていい話じゃないか」
素人が何を思おうと個人的なお気持ちに過ぎず、時間と
知識も経験も乏しいなら見当違いは当然、
智尋さんが溜息を吐きつつ首を振る。
「いつの間にか、こんな不安が増えてたのよね」
「〝不安〟?」
「何もかもが、本当はもう駄目になっているかもしれない〝不安〟。この雨だって、いつだったかの計画通り川の流れを変えて堤防が強化されていれば、と思うとね」
「
流されるクルマ、倒れる街路樹、ビルの窓から助けを求めるヒトたち。
その〝大人〟の
「そうなのよね。いくつかもの安全策があって、何が起こっても大丈夫か、次の手を打つまでの時間稼ぎはできるようにしてあれば……なんて今時流行らないか。いつの間にか余裕の無い世界になってたのよ。最近はどこもそんな話ばかりね」
「景気が最悪だった頃を引き
「確かに……そう言われると申し訳ないわ。そんな大人にならないよう頑張ってね、次の世代さん♪」
「そんな世界の
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