第13話 新野(しんや)の龍〈1〉
「おーい、
若い男がひとり、こちらに走ってくる。
「これは、
近づいた相手に、鄧義は見目涼しい
建安十二年(西暦207年)、
鄧義、字・順匡は、ここ襄陽で庁舎官吏の
「大丈夫ですか? どうされました……ずいぶん急がれて」
たどり着いた楊威公が、はあはあと大げさに肩を上下させているのを、鄧義は気遣った。
「い、いや、その、大丈夫」
どのくらいの距離を走って来たのかはわからないが、見た目からして、それほど走り強くはなさそうな男である。
『楊』という氏は、襄陽で羽振りをきかせている、筆頭有力豪族のひとつの姓だ。
威公は彼の字。姓名は
いわゆる、金持ち
「いやなに、順匡どの」
まだ呼吸の落ち着かない楊儀が、追いかけてきた理由を説明する。
「
用件を聞かされた鄧義は、
「……ははあ、それは」
やれやれ、という風に半笑いを浮かべた。
広元とは、南郡に官吏として勤めている、鄧義とは同齢の友。
また龐先生こと
鄧義は、襄陽に接する位置にある南陽郡
事情を受けた鄧義は、爽やかな
「わかりました、お知らせありがとうございます。いつもの酒屋ですね」
やっとまともな呼吸を取り戻した楊儀は、自身の胸元を手でさする。
「しかしなあ。きみにとっちゃ師匠だからかもしれんが、広元どのもきみも、友人の面倒見がいいな。ずいぶん気が合うとみえる」
感心と同情と皮肉とを入り交ぜ、口角を上げた。
歳上の鄧義の方が
楊儀が有力一族というだけでなく、鄧義のような医療従事者の身分認識は、上流社会からみたとき、殊に低いのだ。
鄧義はそのあたりを
「はは、広元の世話好きは性分ですからね。龐先生の酒騒ぎは毎度の事、広元も慣れているでしょうけれど。まあ、彼ひとりに丸投げするのはやはり悪そうだ。……すぐに行きます」
にこりと返し、礼の
◇◇◇
同日夜半。
春先の生あたたかい風が地をぬぐい、月の無い闇が、地上すべてを黒く塗り染めている。
狭く窓もない一室に置かれたただひとつの灯が、ジッと音を立てて揺れた。
……やがて、物体輪郭もほとんど確認できない暗陰から、人の声。
「上からの、新たな指示だ」
中年齢と思しき声色。深みがある。だが温かさはない。
「
応じた側は、鄧義。
彼は自宅奥に備えられたこの隠し室で、己への命令伝達を受けている。
姓名、鄧義。字、順匡。旧名 ——『狛』。
下僕を解放され旧名も捨て、新たな生場を得てから、実に十二年が経っていた。
彼が勤める今の公職は、表向きの隠れ
「襄陽で何か、動くか」
鄧義の声が、珍しく緊張を帯びる。
新たな指示は久方。しかも、細作上層部に極めて近い立場である、この熟練伝達者を直接派遣してくることは、滅多になかったのだ。
鄧義の住まう襄陽は、
治める事が覇者の証明たる地、〈中原〉の出入口に、襄陽のある荊州北部は位置している。
交通、戦略、経済、人材その他、あらゆる接点においての
それ故に、現今の二大勢力となった
襄陽は中国全体の、いわば
だからこそ鄧義は、今この地の深部に送り込まれているし、彼自身にもその自負があった。
しかるに。
伝授の伝えてきた次の指示は、鄧義の思惑からすれば、やや主軸外の内容であった。
「先刻、
「……!?」
———— 新野へ行け、だって?
鄧義はいくらか拍子抜けした。
新野は襄陽からほど近い、防備も薄弱な小県である。
そもそも鄧義は、荊州心臓部に入り込むために、新野から襄陽に移らされたものを。
「……」
それでもそこは身についた習い。
鄧義は即、新任務へと思考を切り替える。
———— 劉備に、新臣下がついたのか。
劉備という男は、世間から『敗走の達人』とも
野盗に等しかった時期もあり、弱将といえば弱将。
なのに、どういう訳か妙な人望があるらしく、地にまでは落ち切らずに生き延びてきた。
現在もこの荊州の客将として、劉表の
鄧義の新たな任務とは、その劉備の新幕僚、諸葛亮とやらの専属細作を勤めよ、ということらしい。
———— 諸葛亮……。
その名については、鄧義も薄っすら聞いたことがあった。
また諸葛亮には、何やら
———— 確か、『
とはいえ命名したのは、襄陽の名士、
さて、推測はそこまでにして。
鄧義は実分析に入る。
———— 初出仕で即、自身専属の細作手配とはな。
二つ下となると二十七歳。初出仕年齢としてはそれほど若くない。
家系はそれなりの
……なかなかの、
———— どんな人物か。あだ名通りの、賢い主人だと有難いが。
様々
「その者、今は劉備幕下でも食客に過ぎぬが、間をおかず最重臣となろう。時が来たら劉表の元を離れ、劉備陣営に
「……!?」
これには鄧義も
主人替えなどは珍しくない。しかし今頃、あの劉備に就け……?
———— 曹操や孫権に対したら、劉備なぞは、どう考えても相手にならない男だ。
二大勢力への、かろうじての対抗者であった劉表も、昨今は高齢からめっきり衰えた。
劉備はその劉表の、更に下風位置にいる。
———— 上役はどういうつもりか?
劉備が今後、飛躍的な重要者になるとでも見越しているのか。
「……」
そこで鄧義は思い至る。
もしかして、鍵は劉備ではなく、まさに今回専属を命じられた〈新たな主人〉の方なのか。……
彼は
どちらにせよ、自分が深読みをする必要はない。いや、してはならないのだ。
「—— 承知」
鄧義の簡潔な返答を得ると、細作使者は音もなく、闇に溶けた。
<次回〜 第14話(最終話) 新野の龍〈2〉>
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