第12話 新野(しんや)の龍 <1>

「おーい、順匡じゅんきょうどの! 待ってくれ」


 まち中、後ろから自分のあざなを呼ぶ声に、鄧義とうぎは振り返った。

 若い男がひとり、こちらに駆けてくる。


「これは、よう威公いこうどの?」


 近づいた相手に、鄧義は見目涼しいかおを向けた。


 建安十二年(西暦207年)、けい州南郡襄陽じょうよう県(湖北省襄陽市)。

 鄧義、字・順匡は、ここ襄陽で庁舎官吏の疾医しつい(薬医師)の補佐を務めている、二十九歳の青年である。


「大丈夫ですか? どうされました……ずいぶん急がれて」


 たどり着いた楊威公が、はあはあと大げさに肩を上下させているのを、鄧義は気遣った。


「い、いや、その、大丈夫」


 どのくらいの距離を走って来たのかはわからないが、見た目からして、それほど走り強くはなさそうな男である。


 『楊』という氏は、襄陽で羽振りをきかせている筆頭有力豪族のひとつの姓だ。

 威公は彼の字。姓名は楊儀ようぎといい、楊一族主軸家の一人であった。

 いわゆる、金持ち曹司ぼんぼん


「いやなに、順匡どの」


 まだ呼吸の落ち着かない楊儀が、追いかけてきた理由を説明する。


貴君きくんが師と仰いでいるほう先生が、また酒屋で酔って問題起こしてるらしいぞ。ぼくはたまたま、広元こうげんどのと一緒に近場にいたんだ。広元どのは取り急ぎ店に向かったけど、彼が『順匡を呼んできて欲しい』と」


 用件を聞かされた鄧義は、


「……ははあ、それは」


 やれやれ、という風に半笑いを浮かべた。


 広元とは、南郡に官吏として勤めている、鄧義とは同齢の友。

 また龐先生こと龐統ほうとうというのもやはり同年齢で、頭は切れるが、とかく酒癖の悪さが欠点の男のことである。


 鄧義は、襄陽に接する位置にある南陽郡新野しんや県(河南省南陽市)からこちらに移って以後、その二人と特に親しくしていた。


 事情を受けた鄧義は、爽やかな面様おもようで伝達者を労う。


「わかりました、お知らせありがとうございます。いつもの酒屋ですね」 


 やっとまともな呼吸を取り戻した楊儀は、自身の胸元を手でさする。


「しかしなあ。きみにとっちゃ師匠だからかもしれんが、広元どのもきみも、友人の面倒見がいいな。ずいぶん気が合うとみえる」


 感心と同情と皮肉とを入り交ぜ、口角を上げた。


 ちなみにこの楊儀、年齢は鄧義よりだいぶ歳下だ。それでいて鄧義に対し、上から目線なのが常であった。


 歳上の鄧義の方が下手したて言葉使いなのは、互いの立場の力関係にもっている。

 楊儀が有力一族というだけでなく、鄧義のような医療従事者の身分認識は、上流社会からみたとき、殊に低いのだ。


 鄧義はそのあたりをわきまえている。


「はは、広元の世話好きは性分ですからね。龐先生の酒騒ぎは毎度の事、広元も慣れているでしょうけれど。まあ、彼ひとりに丸投げするのはやはり悪そうだ。……すぐに行きます」


 にこりと返し、礼の拱手きょうしゅを相手へ施すと、鄧義は騒ぎ、話の店へ足早に向かった。


◇◇◇


 同日夜半。

 春先の生あたたかい風が地をぬぐい、月の無い闇が、地上すべてを黒く塗り染めている。


 狭く窓もない一室に置かれたただひとつの灯が、ジッと音を立てて揺れた。

 ……やがて、物体輪郭もほとんど確認できない暗陰から、人の声。


「上からの、新たな指示だ」 


 中年齢と思しき声色。深みがある。だが温かさはない。


うけたまわる」


 応じた側は、鄧義。

 彼は自宅奥に備えられたこの隠し室で、己への命令伝達を受けている。


 姓名、鄧義。字、順匡。旧名 ——『狛』。


 下僕を解放され旧名も捨て、新たな生場を得てから、実に十二年が経っていた。


 彼が勤める今の公職は、表向きの隠れみのに過ぎない。真の仕事は無論、荊州情勢を探る細作しのびである。


「襄陽で何か、動くか」


 鄧義の声が、珍しく緊張を帯びる。

 新たな指示は久方。しかも、細作上層部に極めて近い立場である、この熟練伝達者を直接派遣してくることは、滅多になかったのだ。


 鄧義の住まう襄陽は、華北かほく、江東、巴蜀はしょくに接する広大な地である荊州七郡の中核都市で、荊州ぼく(総督)・劉表の拠点だ。


 治める事が覇者の証明たる地、〈中原〉の出入口に、襄陽のある荊州北部は位置している。

 交通、戦略、経済、人材その他、あらゆる接点においての要を為す、天下を得る為に取得不可欠な要衝地であった。


 それ故に、今や二大勢力となった曹操そうそう孫権そんけんを始めとして、多くの群雄が最優先で狙っている。


 襄陽は中国全体の、いわばほぞ(へそ)と言っても過言はない。

 だからこそ鄧義は今この地の深部に送り込まれているし、彼自身にもその自負がある。


 しかるに……伝授の伝えてきた次の指示は、鄧義の思惑からすれば、やや主軸外の内容であった。


「先刻、新野しんや劉備りゅうび幕下に入った諸葛亮という者に秘密裏に会い、今後はその者の指示を仰げ」

「……!?」


 ———— 新野へ行け、だって?


 鄧義はいくらか拍子抜けした。


 新野は襄陽からほど近い、防備も薄弱な小県である。

 そもそも鄧義は、荊州心臓部に入り込むために、新野から襄陽に移らされたものを。


「……」


 それでもそこは身についた習い。

 鄧義は即、新任務へと思考を切り替える。


 ———— 劉備に、新臣下がついたのか。


 劉備という男は、世間から『敗走の達人』とも揶揄やゆされるほど、負け戦を重ねては渡り歩いている、中途半端な立ち位置の将だ。


 野盗に等しかった時期もあり、弱将といえば弱将。

 なのにどういう訳か妙な人望があるらしく、地にまでは落ち切らずに、これまで生き延びてきた。

 今も、この荊州の客将として劉表の庇護ひごを受けながら、新野城守備を任されている。


 鄧義の新たな任務とは、その劉備の新幕僚、諸葛亮とやらの専属細作を勤めよ、ということらしい。


 ———— 諸葛亮……。


 その名については、鄧義も薄っすら聞いたことがあった。


 歳歯としはは自分よりふたつ下。仄聞そくぶん類の話によれば、士官歴もない無名青年であるその者の出廬しゅつろを、劉備はずいぶん熱心に懇願した……とか。


 また諸葛亮には、何やら大仰おおぎょうなあだ名があった。


 ———— 確か、『臥龍がりゅう』とか言ったような。


 した龍とは、だいぶん買い被った号にも聞こえる。

 とはいえ命名したのは、襄陽の名士、龐徳公ほうとくこうだというのだから、あながち根拠がないわけでもなかろうが……。


 さて、推測はそこまでにして。

 鄧義は実分析に入る。


 ———— 初出仕で即、自身専属の細作手配とはな。


 二つ下となると二十七歳。初出仕年齢としてはそれほど若くない。

 家系はそれなりの血胤ちすじらしいとしても、現在は無位、しかも公務未経験の身で、いきなり玄人くろうと軍師でもあるかのような動き。

 ……なかなかの、曲者くせもの感。


 ———— どんな人物か。あだ名通りの、賢い主人だと有難いが。


 様々思惟しゆいを巡らせている鄧義に、伝達者は続けて告げる。


「その者、今は劉備幕下でも食客に過ぎぬが、間をおかず最重臣となろう。時が来たら劉表の元を離れ、劉備陣営にけ」

「……!?」


 これには鄧義も喫驚きっきょうした。

 主人替えなどは珍しくない。しかし今頃、劉備に就け……?


 ———— 曹操や孫権に対したら、劉備なんぞは、どう考えても相手にならない男だ。


 現在の二大勢力への、かろうじての対抗者としてあった劉表も、昨今は高齢からめっきり衰えた。

 劉備はその劉表の、更に下風位置にいる。


 ———— 上役はどういうつもりか?


 劉備が今後、飛躍的な重要者になるとでも見越しているのか。

 

「……」


 そこで鄧義は思い至る。

 もしかして、鍵は劉備ではなく、まさに今回専属を命じられた〈新たな主人〉の方なのか。……


 彼は瞑目めいもくした。思考を落ち着ける。


 どちらにせよ、自分が深読みをする必要はない。いや、してはならないのだ。


 まぶたを伏せたまま、鄧義は深く顎を引く。


「—— 承知」 


 鄧義の簡潔な返答を得ると、細作使者は音もなく、闇に溶けた。



《次回〜 第13話(最終話) 新野の龍〈2〉》


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