第12話 血を呼ぶ声 〈2〉

「ここまで来いや」

「……」


 歯向かえる立場ではない狛は、仕方なく身を屈めた姿勢のまま、酔った男の近場まで進んだ。


 すえた酒臭が、狛の鼻を突く。


「おまえ、酒は飲めるか」

「いえ。口にしたこと、ないです」

「ふん、ガキめ」

「……」


 狛は、伏せ姿勢で隠した額を不快さに曇らせる。

 どうせこの男、今は何を言ったって気に食わないだろう。


 ———— ここは早く引き上げないと。かなりまずそうだ。


 何か方法をと、狛が考え始めた矢先である。

 はん! と大声を上げた男が、いきなり自身の腕を横なぎに払い、手にあった酒の木杯を放り投げた。

 木杯が室壁に強く当り、床に落ちて転がる。


「——!?」


 音に仰天して顔を上げた狛には、何の所作を取る間もなかった。

 男は前のめりに足を踏み出し、杯を投げた手で、狛の片やさ腕を後ろ手に締め上げる。


「い、痛……っ!」


 ぎりぎりと、容赦のない締め上げ。

 細作男の握力は強い。狛の細い手首が、早くも紫に鬱血うっけつし始めた。


「実は、きさまが逃亡を手引きしたんじゃないのか、ええっ!?」


 怒気に血が上った声が、窓のない室壁にぶつかって反響する。

 腹いせの怒りに任せ、男は大柄な体を狛の背にまたぎ乗せると、狛の髪をひっ掴んで頭を引っ張り上げた。


「きさま、ほんとはれてたんだろう、あれに。下衆げすの眼で、いつも見とれてたもんな。あいつが欲しくて、仕方なかったか!?」

「……く、うっ……!」


 返事など求めていない、理不尽な暴力。


 重い。肺が、潰れる。

 狛は空いている片手指の爪で床を引っ掻き、足掻あがいた。


「あ、ぐ……う」


 殺される—— そう思った、瞬時。

 狛の脳裏に、あの凛と澄んだ声がした。


〝 お前、生きたいか 〟

〝 なら、すべを持て 〟


 拷問さながらに臓腑ぞうふを圧迫されながら、狛は今回の呼び出しに際し、一種の予感から懐に忍ばせてきた例の匕首を、必死に片手で探った。


 指先に触れた柄を掴み寄せ、強く握る。


 絶え絶えの浅い息、どんどん速くなる心悸、そして次の呼吸 ——!


「は・あ……っっ!!」


 叫びと同時、狛は体を思い切り表に返した勢いに乗じて腕を廻し、握りしめた匕首の刃で、振り向きざま男の喉元を一気、横一字に切りいた。


 シャッ!  ——と、空気を裂く音がした気がした。


「ぎゃっ!? んぐ……っっ!?!?」


 男の鈍い悲鳴と、せきを切られた場所から吹き出た、噴水のような血飛沫が、狛の顔面に凄まじい勢いで降りかかる。


「……ゔ」


 開いた切り口を両手で抑え、一度半身を起こした男は、人ではない奇異な詰まり音を発する。

 そして、一本棒のように硬直した姿勢のまま、前方に、どう! と倒れた。



 室が急に、しん、とした。

 伏せた男の喉位置の黒血が、床にみるみる輪を広げていく。


「はっ、はっ、はあっ」


 静寂の中にある、ただひとつの動……狛を支配する激しい鼓動、肩息。


 浴びた血に全身を赤く染めた狛は、眼をむき凶器を握ったまま、立膝姿勢で固まっている。

 まばたきを忘れ開かれた眼は、しかし、どれとも焦点が合っていない。


 扉外がざわつき出した。異変に気付いた者たちが集まってきたのだ。

 扉を開け中へ足を踏み入れた細作達は、目にした光景に愕然がくぜんと立ちすくむ。


「こっ、こりゃあ、なん……だっ!?」


 続いて別のひとりが、激声を放つ。


「き、きさま!」


 経緯が不明だろうと、起きた大事はひと目でわかる。


 まず狛を取り押さえようと踏み出した彼らは、直後、背に察知した気配に振り返った。


首長おさ……!」


 仮面の女首長が、扉口に立っていた。


退けや」


 女首長に命じられて左右に退いた手下達の真中を、女は室内へと進む。

 彼女は、無言でしばらく内部の事を見定めた。   


「なるほどな」


 淡白な声音。

 表情は仮面で見えぬにもかかわらず、まったく動揺もしていないその泰然さが、周囲に伝わる。


 女首長はやおら、刺殺者に向かい歩を進めた。

 狛の目前まで来ると、血を吸った匕首を握る狛の赤い手に自身の左てのひらを添え、右指で彼のあごをすくい上げる。


「狛よ」

「——!?」


 呼ばれたそこで初めて、狛の瞳に女の仮面顔が映る。

 視界全部が赤い。浴びた血は狛の白目まで、真っ赤に染めていた。


 狛の手を握る女は、殺人者の手が、怯えで震えているのではないことを感じ取っている。


「……ほう」


 感嘆の息色。


〝 初の殺人に驚懼きょうくしつつ、この者は事実を受け入れているようだ —— 〟


 女首長は、過去と同じく冷たい、しかし此度こたびは満足そうな笑みを、その薄い黒唇にのせる。


「さすが、〈かの家〉の血を受く者だ。筋が良いな」 

「……」


 『かの家』……? 

 狛には、何のことかわからない。


 女は微笑貌を寄せ、これまでとは明らかに違う、深みある語調で言い渡した。


「よく聞け、狛。これからそなたに、我ら韋虞の最高の技術を仕込んでやろう。用済みだった狛は死んだ。……心得よ。細作の闇が、そなたの新たな生場いきばだ」



 この夜。

 狛は、代価品からも僮僕からも解放された。


 そうして……彼は権力の闇を動かすためのあらゆるすべを身につけ、細作として、戦乱の世を暗躍することとなる。



<次回〜 第13話 「新野しんやの龍〈1〉」>

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