第11話 血を呼ぶ声

「狛。誰か知らんが、上役が呼んでるぜ」 


 遙が逃げおおせたとわかってから、数日後の夜。狛は、名指しで呼び出しをくらった。


 ———— こんな時刻に?


 上も下も、そろそろ皆、眠りにつくころだ。

 しかも……来るよう言われた場所は、あの代価仕事室。

 今日の作業はきちんと終えているし、今夜はそちら仕事があるとは聞いていない。


「……わかった。行く」


 昨今の狛は、人に対しての恐怖や不安といったものを持つことが失せていたのだが、このときは漠然と、なんとも言えぬ鬱気うっきを覚えた。

 警戒心を抱えながら、独り向う。


 着いた室扉前で狛は名乗り、腰をかがめて開けた。

 ……そこには。


 ———— ……あ?


 室奥に坐していたのは、なんと、あの指導細作ではないか。


 ———— なんだ。やられてなかったか。


 残念なのかほっとしたのか、よくわからないまま狛は入室し、扉を閉める。

 男から離れた床に、手と額をつけてつくばった。


「おい、狛」


 人一倍枯れた濁声だみごえが威圧する。

 男は酒をあおっていた。顔の下部を覆う髭は、これでもかと無精さを増している。


「……」


 狛は眉をひそめた。

 相手はどう見ても、猛烈に機嫌が悪い。おそらく遙取り逃がしの件で、上からこっ酷く叱責でもされたのだろう。

 しかも、相当に酔っている。


 ……嫌な、予感がした。


◇◇◇


「ここまで来いや」

「……」


 表面上歯向かえる立場ではない狛は、仕方なく身を屈めた姿勢のまま、酔った男の近場まで進んだ。


 すえた酒臭が、狛の鼻に届く。


「おまえ、酒は飲めるか」

「いえ。口にしたこと、ないです」

「ふん、ガキめ」

「……」


 狛は、伏せ姿勢で隠した額を不快さに曇らせる。

 どうせこの男、今は何を言ったって気に食わないだろう。


 ———— ここは早く引き上げないと。かなりまずそうだ。


 何か方法をと、狛が考え始めた矢先である。

 はん! と大声を上げた男が、いきなり自身の腕を横なぎに払い、手にあった酒の木杯を放り投げた。

 木杯が室壁に強く当り、床に落ちて転がる。


「——!?」


 音に仰天して顔を上げた狛には、何の所作を取る間もなかった。

 男は前のめりに足を踏み出し、木杯を投げた手で、狛の片痩腕やさを後ろ手に締め上げる。


「い、痛……っ!」


 ぎりぎりと、容赦のない締め上げ。

 細作男の握力は強い。狛の細い手首が、早くも紫に鬱血うっけつし始めた。


「実は、きさまが逃亡を手引きしたんじゃないのか、ええっ!?」


 怒気に血が上った声が、窓のない室壁にぶつかって反響する。

 腹いせの怒りに任せ、男は大柄な体を狛の背にまたぎ乗せると、狛の髪をひっ掴んで頭を引っ張り上げた。


「きさま、ほんとはれてたんだろう、あれに。下衆げすの眼で、いつも見とれてたもんな。あいつが欲しくて、仕方なかったか!?」

「……く、うっ……!」


 返事など求めていない、理不尽な暴力。


 重い。肺が、潰れる。

 狛は空いている片手指の爪で床を引っ掻き、足掻あがいた。


「あ、ぐ……う」


 殺される—— そう思った、瞬時。

 狛の脳裏に、あの凛と澄んだ声がした。


〝 お前、生きたいか 〟

〝 なら、すべを持て 〟


 拷問さながらに臓腑ぞうふを圧迫されながら、狛は今回の呼び出しに際し、一種の予感から懐に忍ばせてきた例の匕首を、必死に片手で探った。


 指先に触れた柄を掴み寄せ、強く握る。


 絶え絶えの浅い息。どんどん速くなる心悸。

 そして、次の呼吸 ——


「は・あ……っっ!!」


 叫びと同時、狛は体を思い切り表に返した勢いに乗じて腕を廻し、握りしめた匕首の刃で、振り向きざま男の喉元を一気、横一字に切りいた。


 シャッ!  ——と、空気を裂く音がした気がした。


「ぎゃっ!? んぐ……っっ!?!?」


 男の鈍い悲鳴と、せきを切られた場所から吹き出た、噴水のような血飛沫が、狛の顔面に凄まじい勢いで降りかかる。


「……ゔ」


 開いた切り口を両手で抑え、一度半身を起こした男は、人ではない奇異な詰まり音を発する。

 そして、一本棒のように硬直した姿勢のまま、前方に、どう! と倒れた。



 室が急に、しん、とした。

 伏せた男の喉位置の黒血が、床にみるみる輪を広げていく。


「はっ、はっ、はあっ」


 静寂の中にある、ただひとつの動……狛を支配する激しい鼓動、肩息。


 浴びた血に全身を赤く染めた狛は、眼をむき凶器を握ったまま、立膝姿勢で固まっている。

 まばたきを忘れ開かれた眼は、しかし、どれとも焦点が合っていない。


 扉外がざわつき出した。異変に気付いた者たちが集まってきたのだ。

 扉を開け中へ足を踏み入れた細作達は、目にした光景に愕然がくぜんと立ちすくむ。


「こっ、こりゃあ、なん……だっ!?」


 続き別のひとりが、激声を放つ。


「き、きさま!」


 経緯が不明だろうと、起きた大事はひと目でわかる。


 まず狛を取り押さえようと踏み出した彼らは、直後、背に察知した気配に振り返った。


首長おさ……!」


 仮面の女首長が、扉口に立っていた。


退けや」


 女首長に命じられて左右に退いた手下達の真中を、女は室内へと進む。

 彼女は、無言でしばらく内部の事を見定めた。そして、


「……なるほどな」


 淡白な声音。

 表情は仮面で見えぬにもかかわらず、まったく動揺もしていないその泰然さが、周囲に伝わる。


 女首長はやおら、刺殺者に向かい歩を進めた。

 狛の目前まで来ると、血を吸った匕首を握る狛の赤い手に自身の左てのひらを添え、右指で彼のあごをすくい上げる。


「狛よ」

「——!?」


 呼ばれたそこで初めて、狛の瞳に女の仮面顔が映る。

 視界全部が赤い。浴びた血は狛の白目まで、真っ赤に染めていた。


 狛の手を握る女は、殺人者の手が、怯えで震えているのではないことを感じ取っている。


「……ほう」


 感嘆の息色。


〝 初の殺人に驚懼きょうくしつつ、この者は事実を受け入れているようだ —— 〟


 女首長は、過去と同じく冷たい、しかし此度こたびは満足そうな笑みを、その薄い黒唇に載せた。


「さすが、かの家の血を受く者だ。筋が良いな」 

「……」


 『かの家』……? 

 狛には、何のことかわからない。


 女は微笑貌を寄せ、これまでとは明らかに違う、深みある語調で言い渡した。


「よく聞け、狛。これからそなたに、我ら韋虞の最高の技術を仕込んでやろう。用済みだった狛は死んだ。……心得よ。細作の闇が、そなたの新たな生場いきばだ」



 この夜。

 狛は、代価品からも僮僕からも解放された。


 そうして……彼は権力の闇を動かすためのあらゆるすべを身につけ、細作として、戦乱の世を暗躍することとなる。



《次回〜 第12話 新野の龍〈1〉》

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