第10話 遙の逃亡

 遙が、脱走した!?


 ———— 嘘だろ……?


 狛は耳を疑う。にわかには信じられない。


「おい、おまえら! 早く出て馬を捕まえろ!」


 詳細説明もされぬまま、狛ら僮僕たちは暴れる馬の取り押さえに駆り出された。

 混乱の中、とにもかくにも懸命に収拾に走り回る。


 ようやく事態が人心地ついたのは、東の空が白み始めた頃。

 事態から一旦解放された僕僮らは、泥だらけになった手足を水場で洗い流す。

 そして上役達のやり取りから聞きかじった話を、音量低めに噂し始めた。


「郷が寝静まったのを見計らってさ。忍び入った厩舎きゅうしゃ馬柵棒ませんぼうを全部、音も出さずに外してな。で、一気に馬を追い立て放ったらしいぞ」


 噂会議の中には、地獄耳と渾名あだなされる男、例のしんが混じっている。

 事が起きてから寸分も経っていないのに、嘘か真実か、もう事情を語っていた。


「騒ぎに紛れて、一頭に乗って駆け去ったんだと」

「へえ、ほんとか? なんとまあ、澄ました女子みたいな顔してた子どものくせに、不敵な」


 仲間の相槌あいづちを受けた聄がそこで、場の端に居合わせた狛の方を、ちら、と一瞥いちべつする。


「……」


 投げられた視線を、狛は無視した。


 狛は無精髭ぶしょうひげからの耳打で知っている。一年半余前に狛が失敗した逃亡事件、あのとき上役に密告したのは、この聄だ。


 あの計画を、聄がどうやって知ったのかはわからない。りつが漏らしたとは考えられないにしろ、栗は脇が甘かったかも知れない、とも思う。

 ともかく聄は、どこかで察知したのだろう。


 恨めしい男には違いない。しかし狛に、いまさら過去を掘り返すつもりは無かった。

 狛の立場で責め立て出来る証拠もなく、そんな追求には生産性のないことが、今の狛にはわかる。


 注意すべきは今後だ。同じ過ちは繰り返せない。


 聄は捨て置いた狛だったが、今回の遙の大博打並の決行には、本音、やはり驚きを隠せないでいた。

 大胆さの反面、よく考えられた計画。

 貴重な馬の捕獲は最優先でせねばならないから、細作達の遙追跡は、実際、一歩出遅れた。


 ———— でも、無謀すぎる。


 一度試みた経験のある狛は、その厳しさを知っている。


 まず、昨夜は月明かりが一応あったとはいえ、基本は夜闇。その中をどれほど速やかに進めるというのか。

 ……それに。


 ———— 逃げると言ったって、いったい何処どこへ。


 郷を出た先。それは前回の自分が事前には深く考えず、ずっと後で気付いた抜け事項であった。


 今は狛も、現実分析が多少できている。

 細作の隠れ地であるこの郷が、おそらく他の人里からかなり離れた、孤立場所にあるだろう、という推測。


 とはいえ、仮にその推測が合っていたとしても、ここが地理的に国のどの辺りに位置するのか、狛には皆目わからない。

 遙との初会話のとき、深掘りを躊躇ちゅうちょしてしまった自分を、今になって後悔する。


 ———— 遙は、行き先の目星がついていたんだろうか。


 話ぶりからすれば、知識を持っていた感はある。

 だとしても、あんな頼りなげで武力ひとつ持たぬ痩せた少年一人が、激しい乱世である現実を、どう生き抜くというのか……?


 ———— 無茶だ……!


 体を拭いたぼろ切れを、狛は地面に思い切り叩きつける。

 襲ってくる猛烈な憂苦ゆうくと、遙の命の行く末を思うことしか出来ない無力な自分に、狛はひたすら苛立いらだった。


◇◇◇


 遙の追手は、事件発生直後から何日間も差し向けられた。

 複数細作による、相当にしつこい追跡だ。


 その間、狛の心は終始ここにあらずである。


 ———— やっぱり捕まったろうか。


 どう考えてもそうなる確率が高い。ために、その先を考えてしまう。


 ———— まさか、殺されたりしないよな。


 女首長は狛のことも結句殺さなかったし、栗が死んだのは焦ったがための事故だった……はず。

 まして遙は、あれほど大事な扱いをされていたのだ。


「……」


 でも、でも。

 想い馳せるだに、胸が詰まってしまう。

 なのに今は、上役から伝わってくる伝聞を待つしかない。……


 ところでもうひとつ、郷では別のある事件が起きていた。

 発覚したのは、逃亡騒ぎの夜が明けた日の夕刻。

 

「あの黒犬がいない……?」


 遙との忘れえぬ会話の場面に居合わせた犬、錫青せきせい

 その錫青と仔犬たちが、檻から忽然こつぜんと消えていたというのだ。


「昨日、陽が落ちるまでは確かになかにいたんすよ! ほんとですって!」


 犬舎世話係であるあの木箱僮僕が、上役に責め立てられて、泣きそうな声をあげている。

 彼はついさっきまで、逃亡騒ぎの後始末に駆り出されていた。犬の管理にまで手が回らなかったのは無理もない。


 狛は気の毒なその様子を遠目に、あの母仔おやこを、自分が一番最近に確認した場面を思い返す。


 遙との一件があってからというもの、狛はときおり錫青の檻前を——別に世話のためでもないくせに——わざわざまわり道までしたりして、通ることがあった。

 目的が犬ではないことは、本人、敢えて自身に追及していない。


 つい数日前、狛が最後に檻を覗いたそのときも、母仔は普段と変わらず檻中に控えていた。


 茶灰色だった仔犬二匹のうちの一匹は、乳離れして間もなく死んでしまっていたから、残った仔犬は二匹。

 仔犬といっても、生まれてから一年、もう成犬といえる大きさになっている。


 生き物の成長とは不思議なもので、生き残った中の一匹、生まれたときに薄い藍鼠あいねず色だった仔犬の被毛は、成長とともに、どんどん黒色味と艶とを増していた。


「おまえ、役に立つ肉付きは、まだまだだけどな。……でもまあ、母親そっくりになったな」


 『頭』と数えていいほどにまで成長した元仔犬に、狛はそんな声を掛けた。……

 

 その錫青母仔が、あの騒ぎに紛れたかのように、誰知らず姿を消した。

 捜索はもちろん即刻行われたものの、遙と同様、まだ三頭とも見かっていない。


 ———— ……遙が?


 犬失踪と遙とが関わっている痕跡は何もない。

 しかし、狛だけは思うのだ。

 遙は自分の計画と合わせて、錫青達も放したのだろうか。

 けれど、どうしてそんなことをする必要がある? 馬と同じく、単純な撹乱かくらん目的だったのか……?

 

『美しい名だな、狛』


 あのとき、初めて狛の名を口にした遙の声と、向けられた美しい微笑。

 それは今でも、狛の瞳奥に、無秩序に点滅する。……



 ともあれ重要なのは、遙の生死だ。

 正確なところを例の無精髭に聞きたいというのに、どうやらあの男も遙追跡部隊に入っているらしく、このところ指導約束の落ち合い時間にも現れず、姿を見かけてもいなかった。


 やるせなさが積もるばかりのまま、十日ほどが過ぎた頃。

 やっとの最新情報を、狛は得る。


 信じ難い結果であった。

 どこをどう逃げたのか……遙は遂に、捕らえられなかったというのだ。


 ———— 本当に脱出げ切ったのか!? ……たった一人で。


 これまで脱走を成功させた者が皆無であったことも、狛は知っている。


 彼は拳を、爪痕つめあとが残るほど、きつく握った。


<次回〜 第11話 「血を呼ぶ声〈1〉」>

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