第10話 遙の逃亡
遙が、脱走した!?
———— 嘘だろ……?
狛は耳を疑う。にわかには信じられない。
「おい、おまえら! 早く出て馬を捕まえろ!」
詳細説明もされぬまま、狛ら僮僕たちは暴れる馬の取り押さえに駆り出された。
混乱の中、とにもかくにも懸命に収拾に走り回る。
ようやく事態が人心地ついたのは、東の空が白み始めた頃。
事態から一旦解放された僕僮らは、泥だらけになった手足を水場で洗い流す。
そして上役達のやり取りから聞きかじった話を、音量低めに噂し始めた。
「郷が寝静まったのを見計らってさ。忍び入った
噂会議の中には、地獄耳と
事が起きてから寸分も経っていないのに、嘘か真実か、もう事情を語っていた。
「騒ぎに紛れて、一頭に乗って駆け去ったんだと」
「へえ、ほんとか? なんとまあ、澄ました女子みたいな顔してた子どものくせに、不敵な」
仲間の
「……」
投げられた視線を、狛は無視した。
狛は
あの計画を、聄がどうやって知ったのかはわからない。
ともかく聄は、どこかで察知したのだろう。
恨めしい男には違いない。しかし狛に、いまさら過去を掘り返すつもりは無かった。
狛の立場で責め立て出来る証拠もなく、そんな追求には生産性のないことが、今の狛にはわかる。
注意すべきは今後だ。同じ過ちは繰り返せない。
聄は捨て置いた狛だったが、今回の遙の大博打並の決行には、本音、やはり驚きを隠せないでいた。
大胆さの反面、よく考えられた計画。
貴重な馬の捕獲は最優先でせねばならないから、細作達の遙追跡は、実際、一歩出遅れた。
———— でも、無謀すぎる。
一度試みた経験のある狛は、その厳しさを知っている。
まず、昨夜は月明かりが一応あったとはいえ、基本は夜闇。その中をどれほど速やかに進めるというのか。
……それに。
———— 逃げると言ったって、いったい
郷を出た先。それは前回の自分が事前には深く考えず、ずっと後で気付いた抜け事項であった。
今は狛も、現実分析が多少できている。
細作の隠れ地であるこの郷が、おそらく他の人里からかなり離れた、孤立場所にあるだろう、という推測。
とはいえ、仮にその推測が合っていたとしても、ここが地理的に国のどの辺りに位置するのか、狛には皆目わからない。
遙との初会話のとき、深掘りを
———— 遙は、行き先の目星がついていたんだろうか。
話ぶりからすれば、知識を持っていた感はある。
だとしても、あんな頼りなげで武力ひとつ持たぬ痩せた少年一人が、激しい乱世である現実を、どう生き抜くというのか……?
———— 無茶だ……!
体を拭いたぼろ切れを、狛は地面に思い切り叩きつける。
襲ってくる猛烈な
◇◇◇
遙の追手は、事件発生直後から何日間も差し向けられた。
複数細作による、相当にしつこい追跡だ。
その間、狛の心は終始ここにあらずである。
———— やっぱり捕まったろうか。
どう考えてもそうなる確率が高い。ために、その先を考えてしまう。
———— まさか、殺されたりしないよな。
女首長は狛のことも結句殺さなかったし、栗が死んだのは焦ったがための事故だった……はず。
まして遙は、あれほど大事な扱いをされていたのだ。
「……」
でも、でも。
想い馳せるだに、胸が詰まってしまう。
なのに今は、上役から伝わってくる伝聞を待つしかない。……
ところでもうひとつ、郷では別のある事件が起きていた。
発覚したのは、逃亡騒ぎの夜が明けた日の夕刻。
「あの黒犬がいない……?」
遙との忘れえぬ会話の場面に居合わせた犬、
その錫青と仔犬たちが、檻から
「昨日、陽が落ちるまでは確かに
犬舎世話係であるあの木箱僮僕が、上役に責め立てられて、泣きそうな声をあげている。
彼はついさっきまで、逃亡騒ぎの後始末に駆り出されていた。犬の管理にまで手が回らなかったのは無理もない。
狛は気の毒なその様子を遠目に、あの
遙との一件があってからというもの、狛はときおり錫青の檻前を——別に世話のためでもないくせに——わざわざまわり道までしたりして、通ることがあった。
目的が犬ではないことは、本人、敢えて自身に追及していない。
つい数日前、狛が最後に檻を覗いたそのときも、母仔は普段と変わらず檻中に控えていた。
茶灰色だった仔犬二匹のうちの一匹は、乳離れして間もなく死んでしまっていたから、残った仔犬は二匹。
仔犬といっても、生まれてから一年、もう成犬といえる大きさになっている。
生き物の成長とは不思議なもので、生き残った中の一匹、生まれたときに薄い
「おまえ、役に立つ肉付きは、まだまだだけどな。……でもまあ、母親そっくりになったな」
『頭』と数えていいほどにまで成長した元仔犬に、狛はそんな声を掛けた。……
その錫青母仔が、あの騒ぎに紛れたかのように、誰知らず姿を消した。
捜索はもちろん即刻行われたものの、遙と同様、まだ三頭とも見かっていない。
———— ……遙が?
犬失踪と遙とが関わっている痕跡は何もない。
しかし、狛だけは思うのだ。
遙は自分の計画と合わせて、錫青達も放したのだろうか。
けれど、どうしてそんなことをする必要がある? 馬と同じく、単純な
『美しい名だな、狛』
あのとき、初めて狛の名を口にした遙の声と、向けられた美しい微笑。
それは今でも、狛の瞳奥に、無秩序に点滅する。……
ともあれ重要なのは、遙の生死だ。
正確なところを例の無精髭に聞きたいというのに、どうやらあの男も遙追跡部隊に入っているらしく、このところ指導約束の落ち合い時間にも現れず、姿を見かけてもいなかった。
やるせなさが積もるばかりのまま、十日ほどが過ぎた頃。
やっとの最新情報を、狛は得る。
信じ難い結果であった。
どこをどう逃げたのか……遙は遂に、捕らえられなかったというのだ。
———— 本当に
これまで脱走を成功させた者が皆無であったことも、狛は知っている。
彼は拳を、
<次回〜 第11話 「血を呼ぶ声〈1〉」>
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