第9話 犬舎(けんしゃ)
「
ドン、と重量ある音を立て、狛の前に置かれた大きな木箱。
中には、動物用の骨や肉片が詰め込まれている。
木箱を持ってきた歳上の僮僕が、不機嫌そうな顔で地べたに直座りしている狛に、薄ら笑みを向けながら念押しする。
「さぼって誤魔化すなよ。ちゃんと檻中に
「……」
狛は膝に肘を立てて両頬杖を付き、餌の山と睨みあう。
———— なんで俺が、こんなこと。
気が重い。何故というに、その日は臨時に、犬舎の世話をせねばならなくなったからだ。
「簡単な仕事なんだから、さっさとやっとけ。まあせいぜい、気を付けてな」
木箱男は犬舎の世話長。冷やかすように
その背に、狛は舌打ちとぼやきを当てた。
「ちぇっ。他人事だと思って」
犬は、
食用としてだけでなく、防犯、狩猟、捜索、戦闘の補佐道具として、ここ細作の郷でも数十頭が飼われていた。
犬舎男の言うように、餌やりなど大した労働ではないものの、重要問題は『犬に絶対に噛まれぬようにすること』であった。
噛まれたらほぼ必ずという確率で、死病に至ることが判っているのだ。
詳しい解明はされていない病であるが、それは対人に限らず、馬や牛までも、毎年多く犠牲になっていた。
ここで飼われている犬どもは、細作の仕事補佐用だから、ある程度は人に慣れている。
だとしても狩猟や戦闘にも使われる生き物、
従って、犬舎扱いはある意味命懸けであり、覚悟と細心の注意を持ってのぞまねばならない、やっかい仕事であった。
———— ついこの前も
それで皆、この作業を避けたがる。今日はたまたまその代役が見つからず、若い狛が目をつけられた。
狛は数度、大息を吐く。
———— しょうがない。手早く済ませるか。
どうせやらねばならない役目だ。
諦めて重い餌箱を抱え犬舎に向いながら、少しでも明るい情報はないかと考える。
———— そういえば最近、中の一頭が仔犬を産んだと言ってたっけ。
仔犬でも見れば少しは気も安らぐかも、などと思いながら、犬舎場近くまで来た狛は、
「……え!?」
目に入った光景に歩を止めた。
犬舎前に人がひとり、立っている。しかもそれは……。
「……」
狛の喉が緊張に鳴る。
後ろ姿でも直ぐに判った。あれは、
◇◇◇
まったく、遙は狛の前にいつも、印象的な現れ方をする。
———— 今度は犬舎で、何してる。
木箱を抱えたまま、狛はそろそろと遙の
遙は、間近まで来た狛にもまったく反応することなく、いくつかある檻のひとつを
その視線先に狛も目をやると。
「あ、仔犬か」
その檻中には、濃い灰色の毛をした母犬と、最近生まれたという三匹の仔犬がいた。
母犬は、坐しながらも首筋をピンと立て、こちらをじっと見
この犬、今は座っているから立ち姿は想像になるが、中型ほどの体高だろう。全体にすらりと無駄のない、美しい
『異様に強くて頭のいい、
そう誰かが話していた。
なるほど、こいつに違いない。
体を覆っている短い毛は、黒というより、青みのある
その毛色もまた、賢さと
今は大人しいが、その気になれば、人などひと噛みで餌食にしてしまいそうだ。
生まれてまだ間もない仔犬は、二匹が茶系の濃灰色、一匹が、他の二匹よりもいくらか明るい
乳を飲み終えたのか、三匹とも母親にぴったりくっついて、すやすや眠っている。
———— へえ……親が強犬でも、やっぱり仔犬は可愛いんだな。
餌箱の重さも忘れ、しばし狛は、愛らしい仔犬たちを眺めた。
「母犬の名は?」
不意にされた問。隣に立つ遙からだ。
「……」
遙には顔が向けられず、狛は横目に探った。
腕が触れそうなほどの距離に遙がいる、というこの場の緊張に改めて気付き、狛は身を
脇には何故か、薄っすら冷や汗。早打つ心音が、遙にまで聞こえてしまうのではと焦った。
自身を落ち着かせようと、狛は意識を、された問の事項へと全力で向ける。
「……母犬の、名?」
犬の名前。それは、黒犬について語る仲間の噂話時に聞いた気もする。
———— そうだ、眼。
犬の眼の色の話をしていた。その犬は、青みがかった
「確か、『
「ふうん……そうなの」
遙はまだ狛を見ないままであったが、その反応は、狛が初めて聞いた、遙の子どもらしい口調であった。
「錫青か……」
遙は、そこでやっと狛の方を向いた。表情に仄かな笑み。
「とても美しい名だな、狛」
「……」
遙の口から初めて発せられた自分の名と、あてられた
◇◇◇
季節は淡々と移ろう。
冷気を含んだ風が草を柔く揺らし、秋虫たちは厳冬を前にこれを最後と、盛んに己が
その日、郷が寝静まった
満月をやや過ぎて身の欠けた月が、雲の切れ間から地上に光を注いでいた。
月光と、高い虫声と、夜鳥の低声だけが夜陰に
そして事件は、何の前触れもなく起きた。
「追え、追えーっ! なにをぐずぐずしてる!!」
建物外からする凄まじいやかましさに、寝ていた狛は叩き起こされた。
何頭もの馬のけたたましい
それらに混じり、蹄が何かを蹴り飛ばすような暴音が響き渡る。
「先に馬をおさえろっ!」
ドタバタと土を踏み鳴らす男どもの足音、喚き声。
———— な、何が!?
窓枠から外を覗いた狛の目に、多くの灯明が無秩序に、暗闇をうごめいている様相が映る。
次いで聞こえた。
「遙だ、遙のしわざだ! 遙が
<次回〜 第10話 「遙の逃亡」>
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