第5話 胸声(きょうせい)

 ———— 俺……まだ生きてるのかな。 


 頭がぼう、としている。


 昨夜、狛はいつもの代価に仕わされた。

 二人いた筈の客の姿は既にない。自分が途中で気を失ったのか眠ってしまったのか定かでなく、ふと目をさましたとき、狛はうつ伏せた裸身に麻衾あさふすまが一枚かけられただけの姿だった。


 半分開いたままの室扉向こうの外は薄明るくなっている。

 夜明け間近のようだ。


「……」


 理由もなくひそめた息をしながら、極端に思考力の落ちた頭で、狛はぼんやり考える。


 ———— 昔はこんなたび、酷い吐き気に苦しんでたような気がする。


 いつからだろう……あらゆる感度が麻痺してしまったのは。

 たった今暴行を受けた身にも、痛みは全く感じない。


 とにかく、服を着ないと。

 そう思い、起きあがろうとした。が、腕にもひざにも、どうにも力が入らない。体が水を吸った布のように、床に張り付いて離れないのだ。

 床から引き剥がそうと幾らか格闘してみたものの、狛はすぐに疲弊してしまった。


 目覚めたばかりなのに、また眠いような気がしてくる。


 ———— もう、どうでもいいか……。


 どうやら狛を支配しているのは、疲労ではなく、無気力感のようであった。

 このまま意識が落ちて、ずっと目覚めないのも悪くない、という考えが過ぎる。


 ———— 女首長が言ったじゃないか。どうせ俺なんて『用済みの生』なんだから。


 昨今の狛を支配している心情。

 脱走事件で受けた一連によって、狛の中で砕けたのは意力であり……言い換うるならば〈希望〉という、実相不明の観念であろう。


 それまでは思っていた。

 孤児で僮僕であるという、理不尽境遇への怒り。


 自分がそんな定めだと、いったい誰が、いつ決めたのか。

 どうして奴婢達は皆、疑問に思わないのだろう。どうして皆、当たり前のように受け入れているのだろう?


 栗は狛に同調してくれた。……だが、死んだ。ほとんど、自分のせいで。


 ———— つまるところ、宿命ってやつだ。


 希望なんてものは、無知な幼さから生まれるもの。幼さを失う代わりに得るのは、現実への諦観ていかん

 簡単な理屈だ。希望を持たなければ、絶望もしない。


 その姿勢が、他人そとからは従順に映る。


 しかし狛の場合、それは限りなく投げやりから来るものであった。

 それで自らをまとめようとするのは、思慮の怠けでしかない。

 根底では察しているのに、気付かないように押さえ込んでいる。


 そうすれば楽になると思ったのに……実際はなかなか簡単に、そうなってはくれなかった。


 裸身に伏せ姿で寝落ちを望む、という安易な選択に任せ、狛は薄目で室出入口方向を意味なく眺め続けている。

 自分も死んだら、泰山とかいう所に行くのかな、などと、それほど信じてもいないことを夢想しながら。……


 

 そのままどのくらい経ったか。

 野外の明るみ具合からして、それほどには経過していなかったろう。

 キイ……と、細いきしみ音がした。

 半開きだった室扉が動き、外の薄明かり空間が少しだけ広くなる。


 そちら側を見ていた、床に突っ伏している狛の霞眼かすみめが、ほのかな光を背に浮かぶ、二つの小さな影輪郭をとらえた。


「……?」


 目をすぼめて焦点を合わせる。

 それは、か細いひと組の人の足首。扉口に立っている。人相は逆光でわからない。


 ———— 誰……だろう。……女?


 足首は音もなく、ゆっくりと狛に近づいてくる。


 やがて歩は、彼の鼻先で停まった……その、即後。


「何故、抵抗しない」 

「……!?」


 上から降ってきた深沈しんちんな声音に、狛は反射的に頭だけを起こして見上げた。


 ———— ……あ!?


 予想だにしていなかった事態に、狛の眼が大きく開く。

 眼前に立つ、細白い足の声主。

 それはあの、遙であった。


◇◇◇


 遙は狛の前にかがんだ。正面から真っ直ぐ、狛と顔を突き合わせる。

 瞬きも忘れている狛の瞳に、暗さの中でも判る、人形紛いにしろい遙の玉膚が映り込んだ。


 ———— な、なんで……?


 目の前に遙の貌がある現実の理解に、狛は頭が回らない。


 ———— こんな刻、こんなところに、どうしてあんたがいる……?


 ここは特殊なへやだ。

 絶対に他人に……誰よりも遙には見られたくない、特殊な……!


 遙は、平板な面を保って狛を観続けると、短く発した。


「おまえ、生きたいか」


 よく研がれた薄刃でスッと切り込んできたような、ひやりとした声音。

 寸時狛の脳裏を、記憶底に抑え込んでいた、あの女首長との一件がかすめる。


 けれども、遙のそれは、似て否なるものであった。

 辛辣しんらつ色はあれど、冷酷さとは違っている。

 少年特有の澄んだ色を備えながら、ぴんと張り切った細弦の如くの緊張。

 狛の知らぬ、深遠な冷厳さ。


 狛は突如、裸身でいる自分と、この状況が遙にどう映っているかに思いが至る。


「あ! ……あ、う」


 驚懼と恥辱に言葉が見つからず、加え喉の自由が効かない。

 突いて出るのは、情けない呻きばかりだ。


 狛に、遙はもう一度同じ言葉を投げた。


「おまえは、生きたいのか」


 その言葉を受け止めた、刹那。


 遥と眼を合わせていた狛は、自分を見据える遙の、吸い込まれそうな漆黒空間の瞳に捕らえられた。

 あの女首長の仮面に空いた、二つの暗黒とが重なる。


 だが、此度こたびに恐怖はなかった。

 遙の瞳はどこまでも幽遠で……限りなく、美しい。


 遙に、己の全てを見透かされている。

 そう、狛がはっきりと感じとった途端だ。


 ———— 痛、い!


 背に奔った激痛。心の臓を狙い、何か鋭利なものが突き立てられたかのような衝撃が、狛を貫く。

 それが物理的な現実ではなく、己の内なる感覚が引き起こしているものだと理解するのに、時間は要しなかった。


 脳天から手足先まで走る針先が、ビシビシと無数の痛点を刺激する。


 ———— ……あ、あ! そうだ。


 声ならぬ声で叫ぶ。そうだ! 違うんだ、俺は!

 強烈な痛みによって覚醒した狛は、全身で想起する。


 ———— 俺は生きたい。生きたかった筈だ……!!


 遙に伝えたい。

 だがその絶叫は、掠れにも及ばぬ詰まった息となるばかりで、どうしても発声が伴わない。


「……! ……!!」


 唇をあえがす狛の必死な様相から、その心情を感取したのだろうか。

 遙はおもむろに、両の掌で狛の頬を挟んだ。

 自身の貌を近付け、低く……だが明瞭な音吐で放つ。


「なら、〈すべ〉を持て」


 りんとした、胸声きょうせい


「生きるための術を、だ」 

「……!」


 一声も発することが出来ぬまま、遙の白貌を見詰めていた狛の視界が滲み出す。

 溢れた涙は一筋の線になり、頰を伝って落ちていった。



《次回〜 第6話 匕首(ひしゅ)<1>》

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