第3話 美童攫(びどうさら)い
「今朝はまた一段と冷えるな。早く、春が来ないもんか」
水溜りに
その日馬当番だった
郷の奴僕は通常ほとんど裸足。それでもさすがに厳冬に限り、草鞋を許されている。
そうは言っても、ほつれた一枚底の薄っぺらい草鞋なんぞ、裸足と大差はない。
ころごろした大小の石が足裏に痛んだ。
———— 新年か……。
今の年号名を狛は知らないが、世の支配者が『
とはいえ狛にしてみれば、だからどうということもない。
歴史という単語は、彼にとって遠いものでしかなかった。
あの脱走失敗から十カ月が経っていた。狛はたぶん、十四歳ほどになっている。
『狛のやつ、あれからすっかり従順になったな。もともと愛想いい方じゃなかったが。まあ、
『あんなことしでかして、よく殺されずに済んだもんだよ。普通なら
『商品価値があるんだろうよ。
騒動後の己について、
当然、上役からも目を付けられているだろう。
ただし、狛がおとなしくなったのは、目立つのを避けているからではなかった。従順というのも違っている。
脱走失敗。友の死。それによる
……その上に。
〝 おまえは生まれながらの用済み。打ち捨てられた
あの
狛の腹底に蓋をしたその塊は、それきりびくとも動かない。
初めは重さを感じて苦しんだものの、やがて慣れ、意識することもなくなった。
その後の狛には、時の手応えがない日々がぬるぬると、ただ無意味に流れている。
東空に
万人に等しく訪れる、繰り返しの自然循環。
これといって幸福感も得ない代わりに、別段、不幸も感じることはない。
狛はあれからずっと、ものを深く考えなくなっていた。
……いや、それも的確ではないだろう。狛は〈考えるのをやめていることに気付くこと〉を、止めているのだ。
狛は思い至っている。
希望やら願望やらは、思案の産物。そんなものを持たなければ、何も傷つかず、絶望が発生することもない。そのせいで自分が誰かを巻き込むこともないのだ、と。……
厩舎近くの道は、石の少ない土道になる。
ぺたぺたと草鞋音をたてながら厩舎そばまで来た狛は、一旦立ち止まった。
ひと仕事から戻ったらしき一団の細作達が、ちょうど厩舎から出て来る場面とかち合ったのだ。
———— こんな多数人で出張るなんて、珍しいな。
その細作達、今回はだいぶ遠出してきたと見え、皆、足元がかなり汚れている。
狛は避けるように、一団と距離をとってすれ違おうとした。
……と。
「……?」
狛は、気付いたある一点に視線を寄せる。
その男どもの中に、毛色の違う細い影がひとつ、混じっているのを見留めたのだ。
———— 子どもだ。男児……いや、女子か?
「
細作から丁寧に様付けされて『遙』と呼ばれた、歳は狛よりひとつふたつ下かとみえるその子は、囲う男たちに比して、段違いに良い身形をしていた。
———— また、どこぞいっぱしの家の子でも、
大人壁の中、小さな影はそのまま、女首長邸方向へと連れられて行った。
見慣れぬ光景に、狛は暫くぼうっと一団の背を眺める。
———— どこの子だろう。細作が攫ってきた子を『様』呼びするなんて。
そんな疑問が浮かんだものの、すぐにはっと我に返る。
———— 俺には関係ない!
男でも女でも、どこの誰でも同じだ。きっとあの子も、結局は代価品にでもされるだろう。
くるりと踵を返し、狛は廐舎へ向かった。
◇◇◇
寒さを別にすれば穏やかな晴天の下で、年が明けた。
朝。風が、どこかの炊屋から美味しそうな匂いを辺りに運んできていた。
———— 年明けのご馳走かな。
肉か魚か、それは薪を背負いながら郷道を歩く、狛の嗅覚を刺激する。
———— 正月祝いって、何するんだろう。
世間では新年気分とやらに浮かれる時節らしいが、狛はその特別感を知らない。
正月だとか
それでも、気温や水が少しずつ温みを増してくるのはわかるし、来月になればこの郷も、もっと豊かな花色で彩られる。
それらは僮僕の身でも味わえる、ささやかな
「母さーん、待ってよお!」
狛の耳に、子どもの無邪気な笑い声が入る。
狛の正面から駆け寄って来る小さな体。その子には母親の後姿しか見えていないのだろう、目前に迫った狛を避けようともせず、ドン、と見事にぶつかり、可愛らしくころけた。
「はは。おい」
狛は子どもの腕を取り、助け起こす。
「大丈夫か? 走るならちゃんと前を見ないと——」
言いかけたとき。
脇から伸びてきた別の手が、狛から子どもを奪いかえさんばかりに引き離した。
「……!?」
横を見上げる。
そこには子の母親——上役である女細作が立っていた。
女の
それをプイと逸らし、女は子どもの手を引いて無言で去って行く。
「……」
母子の後ろ姿を、狛は黙って眺めた。
上役からの
それよりも……。
———— 母さん、か。俺にもそんなの、いたのかな。
狛の
狛の上役である
その由縁は、後漢王朝創立期よりとも伝えられるが、はっきりしたことが外部に明瞭化されていない、謎多き一族であった。
人の正義の価値観が失われた時代は無論のこと、例え治世であろうとも、常、必須悪として存在する闇世界。
陽の下に出せぬあらゆる役目を、陰の中で一手に遂行するのが細作だ。
この郷は韋虞族の生活場でもあって、上役細作の家族もいるし、それほど多くはないが子どももいる。
細作を親に持つ子たちの行く末は、もちろんひとつしかない。あの子の訓練は、まだ始まっていないようだが。
「……」
狛は小さくため息をつき、薪置き場へ歩き出した。
<次回〜 第4話 「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます