2.けだもの



 大急ぎで正装に着替え、謁見の間へ向かう間も、ハル王子はずっと頭をグラグラさせていた。

「ほら、しっかりしろっ。父王陛下のお叱りを食らうぞ」

 苦笑しながら王子の肩を支えていたこの時、俺はまだ何も察していなかった。後になって振り返れば、自分の浅慮に嫌気がさしてくる――俺は分かっていなかったのだ、自分たちがしでかしたことの重大さを。甘く見ていたのだ、社会にはびこる規範というもののかたくなさと暴力性を。

 どうにか謁見の間にたどり着いた俺たちは、取次ぎを受け、中へ進んだ。

 広間はやけに寒々しい空気に満たされていた。そこにいたのは、国王陛下を除けばほんの数名の重臣たちのみ。ようやくこの時、俺は違和感を覚え始めた。何か妙だ。普段なら、広間の左右には護衛兵や文官武官がうっとうしいほどひしめいているのに……

 そんなことにはかまわず玉座の前へひざまずくハル王子。その一歩半後ろでこうべを垂れる俺。王子はよく通る美声を朗々と部屋へ響かせた。

「王太子ハイムリック、お召しにより参上いたしました。父上、本日はいかなるご用にて……」

「ジョハネス・フォルスタッフ」

 え、俺?

 ハル王子の口上を遮ってまで、王は俺を呼んだのだ。隠しきれない苛立いらだちの気配が、声の節々に感じられる。呼び出しの理由は何なのだ? なぜ王子でなく俺のほうに話しかける? 俺は床にこすりつけんばかりに頭を下げた。

「は……!」

「『好雨、春を知りて来る。ものうるおして声も無し』――分かるか」

「詩聖ドゥキンスですね。陛下にお薦めいただいて以来、愛読しております」

「かつて余も薦められたのだ……先代フォルスタッフ卿にな」

「……我が父に?」

「若きころ、少しは教養も身につけろ、と詩集を押しつけられてな。正直気乗りはしなかったのだが、いざ読んでみると、これがもう……

 忘れられぬよ、あの時の感動は。読んだあとしばらく、世界が輝いて見えた……

 以来、つたない詩を書いては手紙に添えて贈りあい、顔を合わせれば声をそろえて名詩を吟じた。父君ふくんは余の詩友であったのだ」

「父にそのような一面があったとは、ついぞ知りませんでした」

「貴公らが生まれてからは戦また戦であったからな。彼には本当に苦労をかけた。いくつの死線を共に乗り越えたろうか。彼がいなければ余の現在いまは無かった。

 そして父君ふくんの亡きあとは、貴公の兄……現フォルスタッフ卿が立派に家督を継いで、我が力となってくれている」

「過分のお言葉、恐れ入ります……」

 なんなんだ? 王は何を言わんとしている? なぜ唐突に家族の話を? 俺の困惑をよそに王は玉座から立ちあがり、ハル王子に歩み寄っていった。高みから王子を見下ろすあの目つき。まるで氷だ。霜を帯びた氷塊を、研ぎ澄まして刃となしたかのようだ。

「ここから先は心して答えよ。

 ハイムリック。きさま、女の格好をして祭に出たな?」

 あ!!

 俺は肩を震わせた。まずい。その話か。にわかに吹き出た脂汗がびっしりと顔面を覆う。ハルの背中を盗み見る。彼は微動だにしていない。憤怒に拳を握り固める父王の前で、度胸があるのかバカなのか、ハルは緊張の色さえ見せずに床をじっと見つめている。

「ハイムリック! 答えよッ! イエスか、ノーか!」

「イエス」

「このっ……自分が何をしたのか分かっているのか、れ者!」

「お叱りなら宮殿にお呼びになればよいでしょう。それをこうも改まった場で、そのくせ重臣以外を遠ざけて切り出すということは……教導院にでもバレましたか?」

司教ビショップヴィクターが目撃したのだ。おりしく祭の視察に来ておられた。目の鋭いおかただ、一目でお前の変装を見抜いた。西岸執行部にいる彼が一言報告を上げれば、すぐにも教王の耳に届く! 我が王家は破門をまぬがれぬ! なんたることをしてくれたのだっ……お前の放蕩にはあきれ果てた!」

「では廃嫡でもなさいますか」

「できると思うのか!?」

「無理でしょうな。一族諸家が玉座を狙ってたかってくる。

 さて父上、どうなさるおつもりで?」

 答えの代わりに、王は俺に目を向けた。この時にはもう俺も悟っていた。王の意図。唐突な思い出話の意味。つまり王はこう言っていたのだ。「大切な家族にるいを及ぼしたくはあるまい」と。

「ジョハネス・フォルスタッフ。貴様が王子をそそのかし、馬鹿げた性倒錯を強要したのだ」

「父上ッ! ジョナは何も……」

「黙りおれッ!

 近習きんじゅひとりの変態性欲のせい、ということにすれば破門だけは避けられる。いや、それで話をつけてみせる! 王家に傷はつかぬ。フォルスタッフ家も追及をまぬがれよう。

 よく考えて返答せよ、ジョハネス君。

 貴公が王子を誘惑したのだ……そうだな!?」

 俺は淀んだ空気で胸を満たし、はっきりと……答えた。

「おおせの通りにございます」

 ハルは、立ち上がった。

 そのままきびすを返し、俺にも王にも一瞥いちべつもくれず、大股に広間から出て行った。

 取り残された国王はにわかによろめき、倒れかけたところを重臣に抱きとめられた。濡れた犬のように小さな王の体が、冷たい玉座へ沈み込む。そのあいだ俺は、ずっと床石を見ていた。数世代を経た石材に深い亀裂が走っているのを見つけ、稲妻のようなその軌跡を指でなぞった。なぞりたい、などと思ったことは、ただの一度もなかったのに。



   *



 夜が更けた。俺は自室のベッドに寝転び、月光でほの青く光る天井をただぼんやりと見上げている。

 自室への軟禁だけで済んだのは、国王陛下の最大限の恩情ではある。我がフォルスタッフ家への配慮という意味もあろう。とはいえ、俺個人のキャリアは、これで終わった。刃物のたぐいは皆取り上げられ、ドアの外と窓の下には監視の兵が置かれている。おそらくは、数日中に俺は司教に引き渡され、教導院からなんらかの処分を下されたうえで、国を追放されることになる。

 つまり――ということだ。

 追放者は法の保護の外に置かれる。殴られようが奪われようが殺されようが、相手を罪に問うことはできない。あらゆる訴えは黙殺される。明確に「ヒトより下」の立場に、俺は追いやられることになる。

 そんな状況で、どうやって生きていけばいいのか……俺には見当もつかないが、不思議に気持ちは晴れ晴れとしていた。冷たい満足感のようなものが胸にあった。俺は腕で目を覆い、なぜかこみ上げてきた笑いに、唇を歪める。

「これでいい。ハルをかばえるなら、俺の命なんか」

「冗談じゃないな」

「!?」

 俺は跳ね起きた。声のした方に目を凝らす。雲間から滑り出た月が部屋を照らし、相手の姿を浮き上がらせる。

 ハル。ハル王子! いったいいつの間に現れたのか、ハルが部屋の中に立っていたのだ。

 それも――ああ、こんなのは残酷すぎる!――紫丁香花ライラック色のドレスと絹の長靴下ニーソックスに身を包み、気が狂いそうなほどに芳醇な化粧の匂いを漂わせて。

「ハル! どうして……どうやって……なぜそんな……」

「この国は僕の国だ。行きたいと思えばどこへだって行く」

「バカを言うな。謹慎してなきゃダメじゃないか! せっかく私がかばってやったのに」

かばわれて喜ぶ僕だと思うのか」

「ぉっ……お前はッ!」

 一瞬にして俺の血は沸騰した。ベッドから飛び降り、彼に詰め寄り、獲物を狙う狩人のごとくハルを壁際に追いつめていく。「ハルッ! 俺ぁっ……」舌がもつれる。「お前を、ほんとに……」喉の奥へ涙がからむ。「どれだけお前を!」どこもかしこも震えている。「ヒトの気も知らないくせにッ!!」

「知っている!」

 壁に背をつけたハルの、しかし情熱的な瞳の炎が、至近距離から俺の肌を焼く。俺は石になった。口を半開きにしたまま、それ以上何も言えずに固まっていた。ハルの手のひらが俺の胸を撫でる。ハルの吐息の微かに甘い唾液の香りが、染みわたるように俺の肌にからみついてくる。

「知ってたよ。ジョナ、お前がずっと、どんな思いで僕を守ってくれてたのか。

 でもそれは……お前の言葉で聞きたいじゃないか」

「俺は……俺はお前が……好きだった。けどお前の、人生に傷を……つけたくなくてっ……」

「ばか」

 ハルが俺の鼻先で悲しげに笑い、

「お前になら、めちゃくちゃにされてもよかったのに」

 俺は――


 ――俺はけだものになる!!


 掻き抱いた。キスをした。キスというよりハルの唇をむさぼった。小さく、軽く、折れそうなほどに繊細な彼の体を乱暴に締め上げ、潰さんばかりに壁へと押し付ける。ハルの鼻息が頬をくすぐる。喉の奥から漏れた喘ぎが俺の舌をじかに震わす。泣いたってダメだ。もう逃がさない。俺は彼の股の間に自分の太腿ふとももを突き入れ、彼の靴下ソックスを、ももを、その先にある柔らかで熱いものを、俺の足で撫で上げた。ハルがついに悲鳴をあげる。俺の足の上で、彼の体はおそろしく激しく脈打っている。

 もどかしい!

 俺は心と体がいきり立つまま、ハルの下に腕を通して横抱きに抱き上げた。

「おわっ!? ジョナ、ちょっと怖……わあっ」

 ベッドにハルを放り投げ、逃げだそうとする彼に上から覆いかぶさる。頬にキスをする。首筋をめる。女もののドレスが体とベッドに挟まれてクチャクチャに折れていくのが見える。知ったことか。もうどうなってもいい。スカートの下に手を差し入れ、力任せにめくり上げれば、ハルの肉体が露わになる。

 青い月光を浴びた彼の素肌は幻想ファンタジーめいて美しく、俺はその腰骨の張り出しに、引き締まった両脚に、その付け根で小刻みにヒクつく彼のに息を飲む。

 唇を寄せ、彼の太腿に舌をわせる。ハルの声が次第に熱を帯びていくのを聞きながら、膝へ、すねへ、足の甲へと舌を働かせる。長靴下ニーソックスの絹地は俺のキスの雨を浴びてぬらめき、さらなる愛撫を求めて俺の背中へすり寄ってくる……

 ……と、ここで俺は、ふと我に返った。

「……ハル」

 脚を長靴下ニーソックスごしにくすぐられ続け、ハルは息もたえだえに、

「フッ……んくっ……なん、だよぉ……」

「ここから先、どうしていいか分からん」

 ハルはブォパァ!! とツバを飛ばして大笑した。

「わは!! おま! ちょ! わはーはー!!」

「うるさい! 笑うな! 教えてくれよ」

「僕だって知らん」

「ええ……」

「夜は長いぜ、恋人よ」

 ハルは俺の腕を取り、自分の方へ引き寄せた。寄せられるまま寄った俺の唇へ、今度はハルの方からキスをくれる。長い舌を歯の間から差し込み、俺の口の中を隅々まで蹂躙じゅうりんする、おそろしく執拗しつようなキス――初めて味わう淫靡の技に、震え、熱を帯びた俺の体を、ハルの指が芸術的なまでのなまめかしさでい遊んでいく。

 とろけきった俺を見て、ハルは満足げに微笑んだ。

「手探りで試行錯誤してみよう。僕たちにとって気持ちいいやりかたを」

 ハル。

 愛しさが胸から溢れ出て、俺は再び、彼を抱きすくめた。



(つづく)

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