恋愛刑法第五九条

永井義孝

第1話

 終礼が終わると、私は駆け足で四階から一階へ下る。

 風通しのいい靴箱で、十二月頭の空気は吐く息を白く見せた。

「高瀬先輩!」

 振り向くと、学ランに着られている赤い組章の一年生男子が、真っ赤な顔で立っている。

「あのっ、これ、実習で作ったものです!」

 急いでいると伝える間もないまま、透明の袋と赤いリボンでラッピングされたカップケーキを差し出された。

「よ、よかったら、受験勉強の、おやつにしてほしくて」

 遅れて靴箱に来た同級生たちは、青い光景を慣れた目で見ていた。

 一年生男子の後ろでは、学級委員長のスカートが気まずそうに揺れている。ちょうど彼が立っているところに、学級委員長の靴箱があった。

「入学式で先輩を見かけてから、僕、ずっと!」

「ごめん、そこ邪魔だから退いてくれる?」

 一年生男子が声を張り上げたのと、私がその場から退くように促したのは、不運にも同時だった。

 背後の学級委員長に気付いていない一年生男子は、途端に大きな瞳に涙を浮かべる。

 目のふちで雫はじわじわ膨れ上がって、ポロリパタリとすのこを彩った。

 学ランの硬い裾で目元をゴシゴシ擦るから、ああ、とつい零れた私の声に、一年生男子の肩がびくりと跳ねる。



 ──ガベルが三回叩かれた。学級委員長改め裁判長が、ズレた眼鏡をなおしながら高らかに宣言する。

『開廷ーッ!』

 靴箱は法廷に転換し、私は証言台に立たされた。正面には裁判長、左では一年生男子が目を腫らしている。

 裁判長は眼鏡を抑えながら頷いた。

『それではこれから、被告人の三年三組高瀬美月に対する「告白強制終了事件」について審理します!』

 裁判長に促され、通りすがりの男子改め検察官が起訴状を読み上げる。

『被告人は本日終礼直後、靴箱で、勇気を出して被告人を呼び止めた一年生男子の告白を「邪魔だ」と冷たく遮り、心を傷付け涙を流させたものである』

 私に突きつけられた罪の名は、告白強制終了罪。

 恋愛刑法の第五九章に記されていて、他人の告白を故意に邪魔した者は五年以下の告白機会剥奪の刑に処するという、極めて非道な罪だ。

 裁判長は重苦しい顔で資料を読んでいる。

『被告人。今のは事実ですか?』

『いいえ!』

 故意に傷つけたわけじゃない。私は反撃の声を上げた。

 しかし私の証言を、検察官が鼻で嗤う。

『裁判長。証人として学年主任を請求します』

 検察官に呼ばれた学年主任は、私を押し退け証言台に立った。

『学年主任の小清水敦子です。四〇歳、恋人はいません』

 長い前髪に隠れた視線を彷徨わせながら、恋人がいないところだけははっきりと言い切った。

『小清水先生。あなたは終礼直後、なにをしていましたか?』

『体育館に向かう途中、高瀬さんと一年生男子が話しているのを見ました。まさかあのあと……』

 思い返すだけでも辛いのか学年主任は声を震わせる。右の人差し指で目じりを拭いて、たっぷりと息を吐くと、意を決した様子で顔を上げた。

『高瀬さんは、勇気を出して滾る想いを告げようとした青年を、ばっさり冷たく極めてはっきりと「邪魔だ」と言いました!』

『異議あり‼』

 今度は私が学年主任を証言台から押し退ける。言われっぱなしじゃたまらない。私にだって言い分はある。

『学年主任の主観です! 邪魔とは言いましたが、冷たく切り捨てたわけではありません!』

『異議あり』

 割り込んできたのは検察官だ。

 証拠資料を手の甲で叩きながら、強い口調で高瀬に詰める。

『邪魔、とは強く拒絶したいときに出てくる言葉では?』

『彼は学級委員長の靴箱の前に立っていました。その後ろで学級委員長が待っていたので、退くように伝えたんです!』

『それは事実ですか? 学級委員長?』

 検察官が裁判長改め学級委員長に尋ねる。学級委員長は『本当です』と囁いた。

 今度は私が検察官を鼻で嗤う番だ。そう、これは故意ではなく偶然起きてしまった悲劇なのだ。

『聞きましたか、裁判長! 私は故意に遮ったわけでは無いのです。もっとも、遮られた言葉は告白だったのでしょうか? 違うのであれば、この裁判自体が無意味です!』

 私は勝利を確信した。遮られた言葉が告白のセリフである証拠が無いのなら、告白強制終了罪は適用できないはずだ。

 しかし検察官は『否』と私を指す。

『偶然を装うことも出来たはずです。高瀬さん、あなたなら……。そうですよね? 証人』

 証人として証言台に戻って来た学年主任に突き飛ばされた。

『高瀬さんは、非常にモテます! 登下校中、教室移動中、季節のイベントがあると必ずどこかで、イベントがなくてもどこかで彼女は告白されている! 羨ましい! いわば彼女は告白される側のプロ! あの雰囲気が告白の瞬間だと気付かないはずがありません!』

『よく言ってくれました! つまり! 被告人は学級委員長をダシにして偶然を装い故意に告白を遮った!』

『わ、私には動機が無いです』

『いいえ、ありますよ』

 検察官が指を鳴らすと突然、法廷の中央にプロジェクターが現れる。映し出されたものを見て、私は冷や汗が止まらなくなった。

 先月受けた、模試の判定結果。そのアルファベットを、検察官が突きつけてくる。

『B判定。高瀬さん、あなたは早く帰って勉強がしたかった。そうですね?』

 検察官の唇が、いやしく弧を描いている。

 私は二の句が継げない。検察官の言葉は図星だった。

 だって早く帰りたかった。こんなはずではなかった。私にはやることがあるのに。

 焦る脳内を必死に回す。考えろと自分に言い聞かせる。このままだと、五年以下の告白機会剥奪の刑に処されてしまう。大学で絶対恋人を作ると決めているのに!

 いや、まずは落ち着くべきだ。ゆっくり息を吸って、吐く。

 法廷を見回すと、これまでずっと黙っていた被害者の一年生男子が視界に入った。彼は気まずそうに視線を下に下げている。

 様子がおかしい、彼は被害者なのに、なぜ。なにか後ろめたいことがあるのだろうか。

『……いや、ある』

 再び見えた勝機の糸口。

 私は証言台を降り、被害者席にいる一年生男子の腕を掴んだ。

『裁判長、彼こそが真の被告人ではないでしょうか』

 裁判長は目を見開く。

『なんですって⁉』

 検察官も証人も両手を上げてひっくり返った。

『恋愛刑法第三五六条、強制恋愛感情告知未遂に該当するはずです!』

 最後に証言台に立つのは、私を呼び止めた一年生男子だった。

 被害者の席に立つ私は、俯く彼に言い聞かせる。

『あなたは、高瀬美月が急いでいると分かっていながら個人的な感情で足を止めさせ、告白しようとしましたね?』

 被告人にされた一年生男子は下唇を噛んでいた。胸がずきりと痛むのを、私は気付かないふりする。

『双方の想いが通じ合っていない状態での告白は、された側に心的負担を強います。傷付けない言葉や言い方を探るのにどれだけ神経を使うことか! しかも私は高校三年生、受験生です! 一分一秒を無駄にできないにも関わらず、あなたは自分の欲求だけで呼び止め、そして……』

 一年生男子から大粒の涙が、また落ちてしまった。

『強制恋愛感情告知罪は、最大十年以下の交際禁止刑に処される。大きな罪ですよ』

 私も心苦しくなって、それ以上は追及する気にはなれなかった。

 同時に、誰も彼もこの罪を犯しかねないのだ。あの証言台に立っているのは私だったかもしれないと、そう思う。

 法廷の空気が、重苦しく淀む。

『それでも僕は、止められませんでした……っ』

 証言台で膝から崩れ落ちていく彼を支えるものは、いない。

 ガベルが一回、叩かれた。

『ほかに意見がある者は──いませんね』

 裁判長が法廷を見渡す。証言台の一年生男子は、覚悟を決めた漢の目をしていた。

『それでは判決を言い渡します。高瀬美月は無罪。そして一年生男子を強制恋愛感情告知未遂として、執行猶予付き三年の交際禁止刑に処する』

 最後はガベルが二回叩かれて、裁判長がズレた眼鏡をなおしながら高らかに宣言する。

『閉廷ーッ!』



 なんてことはなく。

 私は激しく手を振って、傷付けるつもりはなかったとアピールした。

「言い方悪かったね、ごめんね! 靴箱、開けられなくなっちゃってたからさ!」

 周りの視線に無罪を主張すべく、わざと大きな声になる。

 一年生男子の後ろに立つ学級委員長が、申し訳なさそうに靴箱からスニーカーを取り出した。

「カップケーキも、ありがとう。でも今お菓子は制限してて」

 とは方便なのだが、これが一番穏便に済む、と思う。

 一年生男子は鼻を啜ってから「すびません!」と頭を下げた。

「あの、受験頑張ってください! 応援してます!」

「ありがとう、頑張るよ!」

 ぐ、と拳を握って頑張るアピールで、張り付けた笑顔を誤魔化す。

 悪い子ではなさそうだから、私も罪悪感で胸が痛むのだ。

 走り去る背中を見送っていたら、今度は別の人物、学年主任の小清水に声をかけられた。

 げ、と言いそうになった口を慌てて抑える。

「なんでしょうか……」

「び、B判定だったんですよね? だ、だだ男子にかまけてないで、勉強してくださいね」

 そして小清水は体育館のほうへ走った。まさかそれだけ言うために声をかけたのだろうか。小清水は、私が嫌いらしくいちいち突っかかってくる。

 最悪の放課後だ。このまま自習室に向かって集中できるだろうか。

 私には夢がある。法学部にストレートで合格して、検察官になることだ。そのためには癪だが小清水の言う通り、一秒だって無駄には出来ない。

 ロスした時間を取り戻すべく、小走りで自習室へ向かうその道中。

 信号待ちしていたら、隣に見かけない制服の女の子が立っていた。漆黒の短い髪が風に揺られる。猫目から伸びるまつ毛は長くて、すらりと長い手足が映えていた。

 短い髪を耳にかける仕草すらがやけに煌めいていて、私の視線はあっという間に彼女に奪われる。

「あのっ」

 ショートヘアの女の子は、きょとんとこちらを振り向いた。



 ──ガベルが三回叩かれる。一緒に信号待ちしていたサラリーマン改め裁判長が、ヨレたネクタイをなおしながら高らかに宣言した。

『開廷ーッ!』

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