第8話
新しいネタを仕入れ、来た道を戻る。淺井は今日何本目か分からない煙草に火を点けた。
「『家内』なんて、この年齢でも使う人いるんですね」
「亭主関白を演じてないと死ぬんだろ」
皮肉混じりに答えて嗤い、最初の煙を長く吐き出す。
「あの眼鏡も伊達でしたよ」
「全く屈折してなかったからな」
当然だろうが、やはり見抜いていた。淺井は窓を開けて外へ煙草を弾く。散らばる灰を見て、流石に罪悪感を抱いたのかもしれない。
「なんで、あそこまでするんですかね」
「お前、一人っ子か」
窓を半分ほど閉めたあと、淺井は風に散らされた髪を掻き上げる。
「兄がいますけど」
「じゃあまあ、分かんねえかもしれねえな」
予想外の台詞に、信号の黄色を確かめながら少し早めのブレーキを踏んだ。
「分かるんですか」
「俺も一個上に兄貴がいるからな。旧帝大出て国家一種取って結婚して子供もいてって、課長みたいに出来のいいのが。実家には帰りたくねえわ」
赤信号を映した視界が一瞬揺らぐ。さり気なく向けた視線の先で、淺井は段鼻の先を掻いていた。少しだけ荒れた胸の内に細く息を吐く。
「淺井さんも、全部持ってかれたんですか」
「それなら長男を羨む余裕なんかねえよ。ウチは俺の方が顔の出来はよろしくて、俺の方がモテたんだよ。信じてねえだろうけどな」
「何も言ってませんよ」
先取りされた心の声に苦笑で返したが、まあ別に信じられないわけでもない。私はもう少し細くして縦に長くして、縄文人を思わせる顔立ちを三割くらい薄くして角を取り除いた方が好みだが、こういう厳つくごついタイプが好きな女は普通にいる。
「まあ、だから俺にはまだ立つ瀬があったんだよ。ムカついた時は『モテねえくせに』って腹ん中で連呼してたからな」
「動機として理解できますか」
「積年の恨みはでけえからな。でもまあ、お兄様の動機を確かめてみねえことにはなあ。母親が原因ってなら、もっと根深えかもな」
「自殺ですもんね」
二十六年前なら幸哉はまだ十歳、研哉は九歳。そんな年頃の子供達を遺して死を選ぶには、それなりの理由があったはずだ。
「ま、長男の方は俺がするから、お前は嫁を頼むわ」
予想外というわけではないが、少し意外ではあった。
「いいんですか、逆じゃなくて」
「惚れたら支障が出るだろ」
淺井はさらりと返し、窓外へ灰を弾き落とす。吐き出された煙は吹き込まれた風に乗って私を呑む。淺井と組んでいる限りは、受動喫煙や副流煙の害については何も考えない方がいい。
「ああいう顔が好みだったんですね」
「顔じゃねえよ。あの引きずり込まれそうな感じがやばいんだよ。迫られたら断る自信がねえ」
「なんで迫られる予定なんですか」
「そういう素敵な妄想が捗るタイプなんだよ」
呆れた私に理解不能な下心を明かしながら、淺井は忙しなく項を掻いた。確かに今の清乃は何を考えているのか分からない、底の知れない感じはする。尤も私にはそんな不確かなものを楽しむ趣味はない。
「まあ、課長は苦手なタイプかもな。会わせたら蛇とマングースみたいになるぞ。『取調べさせたら五分で出てくる』に一万」
「変なことで張るのやめてください」
「あの人は安牌好きだからな」
ちびた煙草をつまむように掴み直しながら、淺井は気になる言葉を口にする。しかし問い質すのは躊躇われて、ハンドルを握り直した。
「だから『必ずモノにできる女』にしか手を出さねえんだよ」
視界の端に、目を細めながら煙を吐く姿が映る。どこまで見抜いて、見抜かれているのだろう。何も言えないまま、本日二回目の駐車場へ車を停めた。
再びの来訪をどこから見ていたのか、迎えた清乃に驚く様子はなかった。
二度目の客間はそれなりの経年変化は見えるものの、整然として清潔な印象だ。床の間には水墨画の掛け軸と活け花。喪を意識してか元から「そういうもの」なのか、薄っぺらな黒い器と枝の目立つ大人しい花だった。
「お仕事とはいえ、日曜なのに大変ね」
盆を携えて戻って来た清乃は、私を慮りながら香りの良いコーヒーを置く。眉尻を下げた表情に憐憫は見えたが、敵意は感じられなかった。
「こちらこそ、忙しいところに何度も押し掛けてごめん。一度にできたらいいんだけど、どうしても細切れになっちゃって」
「気にしないで、仕事なんてそんなものだもの。仕方ないわよ」
穏やかに受け入れながら、揃えた指先をそっと差し出して私へコーヒーを勧める。淺井には残念な結果となったが、私と一対一と分かって清乃は明らかに安堵していた。相変わらず右側は隠されているが、口調も表情も随分柔らかい。
礼と共に手にしたコーヒーカップには見覚えがある。結婚祝いを探しにデパートへ行くと出会える、一客三万くらいのお高いやつだ。その割に、と言っては何だが、清乃はそれほど高い服を身に纏っているようには見えなかった。
「昔の友達と、今でも飲んだりする?」
「全然。働いてた時は何人か仕事の付き合いはあったけど、今はもうスーパーで会った時に挨拶するくらいよ」
「住む世界が違ってくると、どうしても疎遠にはなるよね。まあ私の場合は、自分は変わらなくても向こうが避けてくって感じだけど」
砂糖とクリームを投入して、遠慮なくかき混ぜる。波打つ縁を引き寄せ一口、喉へ送った。散々加工した上での感想だが、苦すぎず酸っぱすぎず、あっさりとして飲みやすい味だ。
「実家の皆さんは元気?」
二つ目の問いに、清乃は持ち上げたばかりのカップを下ろす。伏し目がちに頭を横へ振る姿に、少しだけ苛立った。
好みはあるだろうが、美人には違いない。中学の頃は肉に埋没していただけで、素材は良かったのだろう。開けても伏せても憂いを湛える潤んだ瞳は、儚そうにも媚びているようにも見える。あざとくも強かにも。手っ取り早く言えば、「女には好かれない」美人だ。こんな女に彼氏や旦那は、好きな男は会わせたくない。
「五年前に、母が死んだの。癌が再発してしまって」
癌、と小さく繰り返すと、清乃は揺れるように頷いた。
「最初は四十の時で、手術も成功したの。でも乳癌でね。他の癌と違って、乳癌だけは十年を過ぎても再発することがあるらしくて。色々手を尽くしてみたけど、間に合わなかったの」
「そう。大変だったんだ」
さっきまで腐していたせいか、言葉に罪悪感が上乗せされる。でもその半分以上は清乃に対してのものではない。
結婚しろと煩かった母親がようやく静かになったのは昨年だ。いくら言っても気のない様子の私に諦めたのだろう。父親からのメールに、今は兄夫婦から送られてくる孫の画像を生きがいに暮らしているとあった。私がどれほど必死で昇進しようと、その知らせが母親を喜ばすことはない。多分、清乃の母親も似たような年だったはずだ。
「その時に実家は処分して、父はこの近くのアパートで一人暮らししてる。弟は東京で大学生よ」
「そうだ、年の離れた弟さんがいたんだっけ」
中学の時、運動会へ来た幼い弟を嬉しそうに連れ回して自慢していた。女子の言う「かわいい」なんて半ば社交辞令みたいなものなのに、馬鹿みたいに真に受けて喜んでいた。
まあ、本当にかわいいと思っていた女子もいたかもしれない。清乃も子供も好きではない私の方が、あそこではずっと異分子だった。
「十三違うの。今は二十」
「じゃあ、あと二年かあ。楽しいのは今年までね」
「医学部だから、まだあと四年あるのよ」
気にせず打ち返した球に、清乃は控えめな苦笑で応える。
「母の死をきっかけに、医者になりたいって言い出して。父も私も半分くらいしか信じてなかったけど、高校へ入ってから猛勉強してね」
どこの大学か知らないが、医学部へ現役合格しているならエリートだろう。あの頃とは違うとはいえ、誇らしいところが見えてもおかしくはない。「何か」ありそうだった。
「そっか、じゃあ暫くは大変なんだ。もしかして私立?」
視線を伏せたまま、清乃は頷く。
「奨学金とか、受けられる補助は全て受けてるんだけどね。生活費を入れると、どうしても」
「でもそんなの、入る前に分かってたんじゃないの」
遮るように返してしまったあと、慌てて口を噤む。つい当たりが強くなってしまうのは知り合いの気安さからか、個人的な感情のせいか。
「足りない分は、義父が払ってくれる約束だったの。その代わり仕事を辞めて、同居して家のことや幸哉さんの世話をして欲しいって」
しかしそんなものに振り回されているのは私だけなのだろう。清乃は気にする様子もなく、淡々と理由を打ち明けてカップを傾けた。器は同じだが中は紅茶か、薄い色が漂っていた。
「払ってもらえなかったんだ」
「『すぐには出せないから待ってくれ』『もう少ししたら払うから』って言われ続けて、結局ね。もちろん、予想してなかったわけじゃないの。でも私立大には手付金を納めてたし、弟も国立の後期に落ちてて。弱ってると、負ける賭けにも乗っちゃうのね」
弱みにつけ込み約束を取りつけ、期待を持たせて限界まで引き伸ばす。鬼畜としか言いようのない所業だ。力なく笑む清乃に何も返せず、コーヒーを啜る。胸に拡がる苦いものを程よい甘みが救った。
「今は、どうしてるの」
「家を売ったお金の残りと、父が再就職してるからその給料と、あとは私の貯金でなんとか」
「保険金の受取人、ご主人でしょ。ご主人に言えばいいんじゃないの」
「主人は、弟が医学部に進んだことすらよく思ってないから」
清乃は再び視線を伏せて頭を横へ振る。こっちは念のために聞いてみただけだが、腹が立つほど予想通りの返答だった。
「お義兄さんは」
「労災や保険関係のお金も下りてたし貯蓄もあったみたいだけど、自分が管理するって義父が全部持って行ってしまって。どれくらい残ってるのかすら分からないの。それに、一番お金の必要な人に借りられないわ。切羽詰まったら、祖父か伯父に相談しようと思ってる」
でも遺産は、と余計なことを穿りそうな口へコーヒーを送り込む。これ以上突っ込むと折角作った話の流れが逸れてしまう。
「お義兄さんと二木さんは、仲が悪かったの?」
切り出した本題に、清乃は少し悩むような間を置いた。
「『仲が悪い』って言っても、いがみ合ったり喧嘩したりは見たことなかった。通帳類を全部持って行かれても、幸哉さんは『そういう人だから』って。もう諦めてる感じだった」
「理由とか、切っ掛けとかは聞いてないの?」
「何も。話したければ話してるはずだから。敢えて黙ってることを聞く必要はないと思って」
浮かべた笑みが女の余裕に見えたのは、私が卑屈だからか。腹の奥底を引っ掻かれたような、暗い痛みが湧いた。
「知りたくならないの?」
「黙っている」のではない、「隠している」のだ。敢えてそれを選ぶ狡さを、男の逃げを何故そんな風に受け止めて笑えるのか、下げた眉尻を眺めているだけで傷が増えていく。
「誰だって話したくないことの一つや二つあるでしょ。私も頭空っぽな馬鹿娘だったの、死ぬほど恥ずかしくて封印してるもの。あの頃、大変だったでしょ。迷惑掛けて本当にごめんなさい」
ああ、と小さく零して清乃を見据える。この女はきっと最後まで、私のできないことをし続けるのだろう。血の滲み始めた腹へ冷めたコーヒーを送り込み、這い上がろうとする記憶を奥へ流した。
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