#32 稲荷祈里の話

「あたしの話……」ぽつりと稲荷が呟く。「吾妻の話を聞くだけって言ったのに」

「『話したくないなら』とも言っただろ?」

「……まるであたしが話したがってるみたいな言い方じゃん」

「違うのか?」少なくとも俺には話したがっているように見える。「話したくないなら、もう帰るしかないけど」

「…………」

「いつも愚痴ってるじゃんか。ああいうのでいいんだよ」


 嫌なことを共有しようとする人に対して、世界は時々すごく冷たい。プラスの感情以外は口にしてはダメで、『何が好きかで自分を語れ』などと外野が言ってくることもある。

 けれど、嫌なことの中にしか見つからないものもある。日常の『嫌だな』を潰すしていかなきゃ、いつまで経ってもちょうどよくないままだ。


「今日だけって約束してくれる?」と稲荷が訊いてくる。「明日になったら忘れて」

「それは、どうだろうな。忘れたくないことなら忘れないかもしれない」

「……今のは忘れたふりをしてくれるとこでしょ?」

「やだよ、嘘は吐きたくないから」ふっと微笑む。「でも約束する。稲荷が何を言っても、嫌いにはならない」

「別に吾妻に嫌われたくないわけじゃないし!」


 ばふん、と稲荷がクッションを投げつけてくる。ちっとも痛くないのが笑えた。

 俺がクッションを退けて顔を上げると、稲荷と目が合う。稲荷は気まずそうに視線を逸らし、おずおずと口を開いた。


「前に言ったから覚えてるかもだけど」どうやら話す気になったらしい。「あたし、ちっちゃい頃、アイドルになりたかったんだ」

「……そういえばそんなこと言ってたな」


 あれはドロケイをやってたときだったか。


「女の子なら一度は見る夢。……でも、あたしは他の子より引きずっちゃってた。男の子に告白されたりもして、『あ、あたしって可愛い子なんだ』って思いこんでたから」

「実際、可愛いには可愛いだろ?」

「そうかも」稲荷は儚い表情をする。「あたしはクラスで二番目か三番目くらいに可愛い子だった。一番には絶対になれない」

「…………」

「そのことに気付いて、ようやく夢を諦められたのが六年生のときだった。それからのあたしは、アイドルから遠ざかった。痛々しく夢見てた黒歴史を思い出したくないから」


 でもね、と稲荷は思い出しながら言う。


「たまたま見かけた文ちゃんのライブ映像を見て――すぐファンになっちゃった。あたしと同い年なのに、すっごくキラキラしてたから」

「……ああ」

「『ひまわりは憧れてる』って知ってる?」

「ふーちゃんの初センター曲、だよな」

「うん」稲荷が目を細める。「あの曲を聴いてると思うの。文ちゃんは太陽で、あたしはひまわりなんだな~って」


 分かる気がした。『ひまわりは憧れてる』はどちらかと言えばラブソングだけど、淡い憧れを歌う曲でもある。最初に聴いたとき、俺もひまわりに自己投影した。


「好きなアイドルの真似をするのって、よくあるでしょ? 着る服を真似してみたり、同じリップを使ってみたり……あとはボクモンとか」

「え、ボクモン?」

「文ちゃんがラジオで話してたことからニックネームを決めてたんだ」

「それは……」俺は失笑する。「ほんとによくあるやつだな」

「吾妻に言われるのはムカつく~!」


 俺の場合は、ラノベのキャラや神話から取ってくることが多かった。流石に痛すぎるので最近はやってないけど。


「……まぁ、ほんとに憧れてたんだよ」

「そっか」

「だから、高校で文ちゃんと出逢ったときはちょっと頭がおかしくなったのかと思った。だって流石にありえなくない? 推しがクラスメイトになるとかさ」

「それはそう」

「……でも、いざ話してみたら、文ちゃんは特別だけど普通の女の子だった。そのことに気付けたおかげで文ちゃんを憧れの対象じゃなく、ちゃんと友達として見れたの」

「うん」


 そうだろうなと思う。もしも稲荷がふーちゃんを憧れの対象として見続けていたなら、二人は親友と呼べるほど仲良くなっていなかったはずだ。


「文ちゃんの苦労や不安を知ったから、もう特別や一番になりたいとは思わなくなった。大切な人が困っているときに耳を貸してあげられればそれでいい――って」


 きっとほとんどの人はそんな風に変わっていくのだろう。特別や一番になれない人間のほうが多いし、そういう人たちの生き方に価値がないわけないから。


「そう思ってたはずなんだよ」稲荷の表情が翳る。「なのに……また苦しくなった」

「……本当はまだ特別になりたいと思ってたのか?」


 稲荷は下手くそに笑った。いいや、違う。笑ってるんじゃなくて、涙を堪えようとしてるんだ。目元がひくひくしてるのを見て、察する。

 やがて、我慢しきれなかったのだろう。稲荷の頬を、つーっ、と一筋の涙が伝った。


「あ~もう、我慢しようって思ってたのに……」


 濡れる頬を拭いながら、もう片方の手で稲荷は俺を指さした。


「吾妻のせいだよ」

「――え?」

「吾妻が優しすぎるから……特別になりたいって思っちゃったんだよ」

「……」唖然とする。言葉が出なかった。

「ちょうどいい関係はあたしと吾妻だけだと思ってたのに……吾妻には、他にもちょうどいい関係が幾つもあってさ」

「…………悪い」

「謝られることじゃないもん! あたしは吾妻の彼女じゃないし、重くて疲れる関係は要らないってあたしが言ったんだし」


 ぽろぽろ、ぽろぽろ、って稲荷の目から涙が溢れていく。

 どうすればいいだろう? 必死に考えるけど、すぐには答えが出てこない。たとえば俺たちが恋人やその数歩手前の関係だったなら、抱きしめればいいのかもしれない。

 だけど、そういうのじゃないんだ。好きだけど、好きすぎない。上手く言えないけど、抱擁なんて安い温もりで稲荷の涙を止めたくなかった。


「でもっ、でもさぁ……!」泣きじゃくりながら稲荷が言う。「文ちゃんと仲が良いのはズルじゃん!」


 ――そういうことだったのか、とようやく理解する。


「最初は、ファンとしてのあたしを見られるのが嫌で断っただけだった。ちゃんと友達のままでいたかったから。でも文ちゃんが吾妻を誘ったって聞いて……自分でもびっくりするくらい、『嫌だなぁ』って思った」

「……そう、か」

「気付いちゃったんだよ。特別なのは吾妻と文ちゃんで、あたしは他にも代わりがいるサブキャラだ、って」


 稲荷が泣きながら俺を見つめて、言う。


「吾妻は『あたしでいい』だけで、『あたしがいい』わけじゃない。あたしはそれが嫌だと思って――その嫌な気持ちを文ちゃんに押し付けちゃったの」


 つまり、二人がギクシャクしたのは俺のせいだったわけだ。

 ――お前がもっと強かったら、誰も傷つかずに済んだんじゃないか?

 嘲笑交じりの声が頭の奥で反響した。


「これからもあたしは、文ちゃんと吾妻が仲良くしてるのを見るたびに苦しくなる。でも、あたしのせいで二人が昔に戻れないのも嫌だ。二人が大切にし合ってるのは分かるから」


 ひどく大人びた表情で稲荷は言った。


「きっと楽になる方法は一つしかないと思う。……あたしが吾妻をどうでもよく思ったらいいんだよ」

「それって――」

「うん」稲荷が頷く。「あたしたちがさよならするの」


 切り裂かれるように胸が痛んだ。だけど、しょうがないことのようにも思える。


「吾妻には小町ちゃんや鈴音ちゃんがいるから、あたしがいなくても大丈夫でしょ?」

「大丈夫なわけないだろ。……ショックは受けるし、寂しいとも思う」

「でも一週間か一か月もすれば立ち直れるよ。ずっとは引きずらない」

「それは……そうかもな」


 本心から肯定した。

 全ての別れをずっと引きずっていたら、上手く生きていけない。いずれは稲荷との別れがどうでもよくなる日も来るだろう。


「……こんなところまで、あたしたちはちょうどいいんだね」

「別れるのにちょうどいい、って?」

「セフレだと後腐れそうだし。『ちょうどいい同盟』でよかったじゃん」

「…………」


 同盟も解消されて、稲荷は家に来なくなる。

 代わりに稲荷とふーちゃんは親友に戻って、ハッピーエンド。全てが収まるべきところに収まる結末に思えてくる。


 事実、そうなのだろう。放課後に駄弁るだけの軽い関係よりも優先すべきものは山ほどある。だから稲荷との関係が終わってしまうことはしょうがない。

 だけど、


「――嫌に決まってるだろ」


 理屈どおりにいかないのが青春だ。


「確かに稲荷は、俺にとって特別じゃないかもしれない。小町や鈴木とも似たような距離感で気楽に過ごせるから」


 それでも、と俺は稲荷の手を取った。

 握ると、仄かな温もりが伝わってくる。抱きしめればもっと温められるかもしれない。稲荷を繋ぎ止められるかもしれない。だけど、そういうことじゃないんだ。


「それでも俺は、稲荷いい。小町や鈴木も『ボクモン』はやってくれるだろうけど、『ボクモン』をしながらだらだらと喋るのは稲荷がいいんだ」

「どうしてっ!? 小町ちゃんや鈴音ちゃんでいいじゃん!」

「だから……二人いいけど、稲荷いいんだよ。代わりがいるからって、代えていいことにはならないだろ?」


 すぐそこに稲荷の顔がある。

 視線がぶつかった。

 稲荷はくっと唇を噛むと、「なにそれ……」と拗ねるように言う。


「あたしじゃなきゃ、ダメなの?」

「稲荷じゃなくてもいいけど、稲荷がいいんだ」


 焼き直すように、何度も伝える。これが俺の精一杯の答えだから。

 稲荷は「そっか」と照れ臭そうに呟いた。


「いいよ。吾妻があたしのことを大好きなのはよ~く分かった」

「……大好きとは言ってないけどな」

「はいはい、ツンデレおつ~」

「どこがだよっ!?」


 くつくつと楽しそうに肩を震わせる稲荷。零れた髪を耳に掛けると、ひまわりみたいにぱぁっと笑った。


「約束してくれる? あたしと文ちゃんを一生大切にするって」

「一生て」俺はくすっと笑った。「めっちゃ重いこと言うじゃん」

「え~、約束できないの?」

「いや、できるけど」

「ふ、ふぅ~ん?」

「なんだよ」俺が言う。

「なんでもない!」稲荷は何故か顔を背けた。


 途端に可笑しくなって、二人揃ってけらけらと笑う。


「あたしも約束するよ。文ちゃんと……あと、吾妻も。ず~っと大切にする!」

「お、おう……」

「なにその反応?」

「いや、稲荷に大切にされるって言われてもいまいちピンとこないから」


 俺が言うと、稲荷はむぅ~ってむくれた。俺の反応がお気に召さなかったらしい。……稲荷もさっき似たり寄ったりの反応をしてたと思うんだけどな?

 けふんと咳払いをして、稲荷が言う。


「――今から、二人で文ちゃんちに行こ!」

「は?」

「だって、二人でライブに参加したいじゃん! でもその前にちゃんと謝らなきゃ」

「そうだけど……」俺は苦笑する。「にしたって急すぎじゃないか?」

「いいの! 不安とかモヤモヤは少しでも早く取り除いてあげたいんだもん!」


 俺たちが何もしなくとも、ふーちゃんは変わらずステージで輝くだろう。だが、それは俺たちが何もしない理由にはならない。


「そうだな。行くか」

「うんっ!」


 きっとこの話は、ふーちゃんと話すまでは終われないから。

 俺たちは支度を整えて、ふーちゃんの暮らすマンションへと向かった。

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