第4話

「ユウくん……勇一朗さん、私と離婚してください」


 弱弱しい彼女は、だけどはっきりと声を振り絞って言った。


 ――ああ、そうか。このところの俺の態度はとても褒められたものではなかった。どうしようもない憤りを彼女にぶつけたいという想いと、彼女を愛しているという想いの狭間で何もできなくなっていた。おまけに会社へ行くと部長の顔をどうしても見ざるを得ない。あの優しい笑顔の下で俺にマウントを取っていると考えるだけで吐き気がした。


「離婚して…………どうするんだ?」


 どうして離婚なんか――そう問うことはできなかった。原因は自分にある。


「千里のマンションの近くにウィークリーマンションがあるから、とりあえずそこに……」

「その後は?」


「一度、実家に帰ろうかなって。今更、お仕事に戻るのは難しそうだし……」

「……その後は?」


「わかんない……でも……」

「…………でも?」


「でも、できたらまた、ユウくんと――」――そう涙ぐむ。

「俺のことが嫌になったんじゃ……」


「そんなことないよ! ユウくんは私の大好きな、いちばん大好きな人だよ!」

「じゃあ、離婚なんてしなくても、ほら。少しの間、距離を置くだけでもいいじゃないか。そうだ、俺がそのマンションにしばらく住――」


「ダメなの! それはダメなの! 絶対……」


 早紀はそう言って聞かなかった。

 彼女はこれで俺よりもクソ真面目なところがあって融通が利かない。料理にしたって付き合い始める前にを聞かれ、何の気なしに――料理が上手いといいな――と言ったことをずっと気にして、無理はしなくていいと言ったのに少ない給料から受講料を捻出して、料理教室に何日も通ってまで頑張ったことがある。



 結局、それから離婚届を準備し、最終的に俺の希望で俺自身が届け出に行った。


 そして翌日、早紀は本当に家を出て行っちまいやがった……。



 ◇◇◇◇◇



 早紀の出ていった家は息が詰まるようだった。


 普通、誰か嫌な相手が居て息が詰まるということはあるだろう。だけどそれとはまったく別の意味で息が詰まる。それまでは早紀に対しての憤りが確かにあった。彼女に訴えかけたい強い想いがあった。ときどき、気が触れそうになるほど叫びたくなった。


 だけどそこかしこに早紀の空気が残る部屋。何を取っても彼女に結びつく部屋。それなのに本人だけが居ない。そのことに息が詰まりそうになる。叫んだとしても聞いてくれる相手は居ない。どれだけ苦しそうに悶えたとしても心配してくれる相手は居ない。


 そう考えると俺は、早紀に甘えていただけなんだと思い知らされた……。



 ◇◇◇◇◇



 翌日、俺は部長と飲みに出た。

 部長には何日も前から心配され声をかけられていたのだが、原因が部長にあったことからそれまでは誘いを断っていた。ただ、俺はどうしてもこの男の本質を知りたくなった。


「申し訳ございません、私事で心配をお掛けしたようで」

「気にしない。私も本城君が気になって仕方なかったから。ほら、君が元気ないとみんなが困るでしょ。――はい、どうぞ」


 部長は俺の手から燗を取ると、酌を返す。


「私は一杯だけ。体調が優れないもので……」

「何かあったのかい? 私で力になれる事があるなら何でも言ってくれていいんだよ」


「いや、その妻と……」

「早紀さんかい? どうした。あんなに仲良かったでしょ?」


 部長は穏やかな笑みを崩さないままそう続けたが、俺にはその瞳が輝いたように見えてしまう。


「実は……しれないんです」

「それはまた…………突然だね」


 部長は息を飲み、驚いたが、普段が普段なもので、どうにも俺には大げさに見えてしまった。

 詳しい経緯こそ説明しなかったが、俺は項垂れ、額に右手をやって涙を堪えるかのように目元を隠し、早紀のことが信用できなくなったと話した。


 俺を心配して何があったのか聞き出そうとする部長の口調は、常に柔らかく善人のそれだったが、指の隙間から見えた彼の口元はいびつな程に歪み、ニヤけていた。


 その後は、目元を何度かこすって涙を拭いたような振りをして誤魔化し、部長に慰めてもらう憐れな部下を演じた。部長は何度も酒を勧めてきたが、俺が体調を理由に断ると、よくなったらまた昔みたいに呑もうと言った。


 怒りはあったが俺は隠し通した。こんな奴の思い通りにはなってはいけないと、そして落ち着いたら必ず早紀を迎えに行くと誓った。



 ◇◇◇◇◇



 こんな状態だったこともあって俺は有給を取り、しばらく休むつもりだったし、会社でもそう話していたが、部長と呑んだ翌日から気持ちを切り替え出社した。これには部長も驚いたのか、少し休んで羽を伸ばしてくるように勧めてきたが、俺は礼だけ言って仕事に精を出した。



 変化があったのはさらにその翌々日だった。


 会社に、益川 聡子ますかわ さとこと名乗る五十代か六十代の女性が乗り込んできたのだ。やはりというかなんというか、益川部長の奥さんだった。奥さんは、専務の所へ乗り込み外まで聞こえるほど大声て怒鳴っていたらしい。そしてすぐに益川部長も呼ばれた。


 そしてその騒ぎが一段落した直後だった。


 専務の所から戻ってきた部長は、別人かと見紛うような鬼の形相で俺を探してきた。


「本城ォ!! 一体どういうことだこれはァ!!」


 部長は何かの紙を手に、上下に小刻みに振りながら俺に向かってその存在をアピールしてきた。


「部長、どういうことで――」

「貴様の差し金か!? ああァ!?」


 押し付けられた紙は手書きの手紙のコピーだった。

 そこには、藤宮 早紀ふじみや さき――と早紀の旧姓で書かれた名前といん、そしてざっと読んだ限りでは早紀が行った不倫の全容が記されているようだった。


「いや……俺はどういうことか……」

「しらばっくれてんじゃねェ!」


 そう言っていきなり殴りつけられ、オフィスは騒然となる。

 すぐに部下たちが押さえに入ってくれるが、それなりの体重の部長がバタバタと腕を振り足を蹴ると辺りのデスクは押し退けられ、椅子は倒れ、止めに入った部下は殴られもする。ようやく羽交い絞めにされた部長は膝をつくが――。


「本城ォ……、秀幸ひでゆきィ……、お前がどれだけ優秀でもなァ、富美子ふみこがオレの女だったことはこの先絶対に変えられない事実なんだ……。お前の事はこの先、一生笑い続けてやる……」


 顔を真っ赤にし唾を飛ばす部長は、錯乱しているのか、俺を誰かと勘違いしていた。


 そして俺自身も専務に呼び出されたため、部下たちに任せてその場を後にした。



 俺は専務に早紀の不倫について聞かれたが、俺自身はそういう事実があった事しか知らず、早紀との交際を始めたときには既に不倫関係は解消されていたこともあって詳しくは問いただされなかった。


 俺は知らなかったが益川部長の奥さんは資産家の娘で、実家はうちの会社のお得意様らしい。ただ、部長の所へ嫁に来たとは言っても会社での部長の立場に実家が口出ししてくることは無く、そして何故か部長自身も出世にこだわっていなかったらしい。


 奥さんには不貞の事実など寝耳に水だったそうだ。怒り狂った奥さんは、部長とは離婚の上、高額の慰謝料を請求するという話まで出ていた。家庭での奥さんの力はそれなりに強かったようだ。


 ただ、俺にとってはそんな話はどうでもいい。部長がこれだけの沙汰を下されているとなると、心配なのは早紀だった。俺は事実の確認も兼ねて早退を申し出た。







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