第3話
「ユウくん! ユウくん、ごめんね! ごめんなさい……」
あの日、ユウくんにどうしてもと言われて明かした昔の彼氏。大丈夫だからと言われて答えた途端、ユウくんはトイレへと駆け込んだ。この時の私はユウくんのことを何も理解していなかった。訳も分からず謝っていた。
何となく避けていた話題だったけど、やっぱり話すべきじゃなかったんだ……。
益川は就職してすぐの頃から何かと世話を焼いてくれていた上司だ。友人もほとんどいなかった私は何となく益川と体の関係になってしまった。初めての大人の関係で浮かれていた私は益川に奥さんが居ると告げられても――そうなんだ――くらいにしか思わなかったし、年上の子供が居ることを聞かされても気にもしていなかった。
私は他に好きな人ができたと益川に告げた。益川は意外にもあっさりこれに了承。ただ、これまでの彼の行動を考えるとしごく当然のことだったかもしれない。益川は周到に奥さんに不倫の事実を悟られないようにしていたし、休日にデートすることは絶対に無かった。
益川とのデートは高いレストランや宿泊先。それでも当時の私はそれを大人の恋愛だと勘違いしていた。だけどユウくんとのデートは全然違っていた。豪華な料理や夜景の綺麗なスイートじゃなくても、ただその辺を散歩するだけでもキラキラ輝いていた。今思えばあれこそが恋愛だったんだなってわかる。
夜の方も全然違った。益川と違ってお腹が締まっていて筋肉質。身体も重くなく、何より私に負担がかからないように体重をかけないでいてくれた。
「俺の方こそ元カレのことで取り乱してすまない。もう大丈夫だから」
そう言ってトイレから出てきたユウくんの顔は青かった。
その日、一緒のベッドで寝たけれど、彼は背を向けたまま眠った。
翌日の朝は普段のユウくんに戻っていた気がする。だけど帰宅後、夕食を食べた後で再びユウくんが吐いたのだ。それから何日も似たような状況が続き、おまけにユウくんはタバコを吸うようになった。私はタバコの臭いは益川を思い出すからあまり好きじゃない。夜も、私から誘っても応じてくれなくなった。
◇◇◇◇◇
私は親友の千里に泣きついた。
千里が言うには、ユウくんとしては不倫が許せないんじゃないかと言う。私がそんな常識も無いような女だったのが許せないのかなぁ……。ユウくんに嫌われるのだけはやだなぁ……。そう考えると涙が溢れて止まらなかった。
数日後、ユウくんが千里の旦那さんの健治くんと呑んできたみたいだった。事情を聞いた健治くんが誘ってくれたみたい。ただ、帰って来たユウくんは更に酷い顔をしていて、口元だけの何とか絞り出したような笑顔だけで私に話しかけていた。ユウくんの冷たい視線はまるで、私のことを責めているように感じられた。
◇◇◇◇◇
そんな日が再び何日も続いた。私はユウくんに謝り続けたが、彼は――何も謝るようなことはない――と、謝罪を受け入れてくれなかった。ユウくんは以前にも増して食事を取ってくれなくなり、会社の食堂でもちゃんと食べられていないようだった。
『どうしてあんな奴と!!』
ビクッ――と体が跳ねる。シャワーを浴びているユウくんに、脱衣所へ着替えを出しに行くと、近くに私が居ないと思ったのかユウくんの抑えた、だけど怒気を孕む声が聞こえた。
『クソッ! クソッ! クソッ! クソオォッ!』
バシッ、バシッ――と、どこを殴りつけているのか、自身の体を殴るような音が聞こえる。私は悲鳴をあげそうになって両手で口を押えた。
『二人で笑ってたのかよ!!』
違う、そんなことない!――そう言いたかったが、今のユウくんが怖くて声が出ない。私はその場を立ち去り、寝室へと逃げ込んで嗚咽した。
◇◇◇◇◇
私は再び千里に連絡を取り、事情を話した。
「ほんっとゴメン! うちの健治のせいでややこしくさせちゃったみたいで!」
千里のマンションに着くなり、そう言って謝られた。
「ううん、原因は私だから。千里や健治くんは助けてくれただけ」
とにかく上がって――とリビングのソファーへ。
千里が出してくれたグレープフルーツジュースは苦かった。
前は好きだったはずなのに、今はあまり好きになれない。
「――この間、千里から聞いた健治くんの話、何となく分かるようになった……」
「健治が言ったことなんて気にしないで……」
私の隣で千里は、彼女に似合わない弱弱しさで言った。
「ううん。健治くんが言ったように、私は益川のお下がりなんだと思う。それでユウくんが見下されてたんだ」
「そんな風に言わないで、早紀……」
「あんなお腹の出たオジサンに弄ばれて、そんなお古、貰ったってユウくん嬉しくないよね……」
「早紀、そんなコト言っちゃダメだよ」
ぽろぽろと涙が溢れてくる。
「ううん、聞いて欲しいの。……益川、ユウくんに連れられて家に何度か来たことがあるの。仕事でユウくんの力になってくれてたみたいだけど、たぶん、わざとなんだと思う。仲良くなって、ユウくんも喜んで家に招いてたし……」
「…………」
「私ね、バカだから普通に喜んでたんだ。ユウくんがお仕事で上手く行ってたし、お世話になってるからって。でもね、二度目に来たときユウくんが居眠りし始めて、その時触られたの。でも私、ヤダなって思ってユウくんの隣に逃げたの」
「じゃあ、何も無かったのね?」
「うん。あと――本城には教えてないんだろ? 昔みたいにどうだ?――みたいに言われて家に泊まろうとしてきたこともあった。気持ち悪いな……って思ったから、ユウくんには益川を家に呼ばないように頼んだりして……そしたら半年くらいで来なくなった」
ふぅ――と溜め息をついた千里は、ホッとしたようにソファーに深く背を預けた。
「それ、ちゃんと勇一朗くんに話した?」
「ううん、だって何もなかったなんて証拠はないし、ユウくんが辛そうにしてるのはそこが原因じゃないと思う」
私にとって益川は過去であって、ユウくんと出会った今の私とは何も関係が無い。そう思っていた。
「――だから私、今までのことをちゃんと清算しようと思うんだ……」
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