第2話
「はぁ…………」
俺は会社の喫煙スペースでタバコをふかしていた。
この所、まともに食事を取れておらず、体調も優れないが半分は自分のせいでもあった。
そして、そもそもの原因。
――あの日、早紀との何となくの会話の中、彼女が何の気なしに告げてきた元カレの話……。いや、早紀が告げてきたワケでは無い。俺が聞き出したんだ。それまで早紀が元カレの話をしたことは無かった。そもそもベッドでも、俺が初めてだと告げると早紀は申し訳なさそうに初めてではないと言っていた。それは仕方がない。早紀は愛嬌のあるかわいらしい女性だ。それまでに付き合った男が居ないなど、むしろその方が心配になるくらいだ。俺だって自分の考えで童貞を続けてきたわけで、別に相手にまで強要するつもりは無い。
ただ、問題はその相手だった。
早紀の元上司であり、俺の今の上司である益川部長。早紀の倍以上の年齢の既婚者だ。あの早紀がまさか不倫をしていただなんて……。
早紀とは同い年だが、彼女の方が入社は二年早い。その間に彼女は部長と付き合い、そして俺との交際前に別れたという。俺からすれば何の問題もない付き合い方。だが、俺はその話を聞いた途端、込み上げる物を我慢できずにトイレへと駆け込んでしまった。
それから早紀とまともに会話できていない。彼女は狼狽え、結婚後はもちろんのこと、交際期間の二年間は一切部長とは関係を持たず、誘われても二人で出かけたりしていないし、当然、夜の相手などしていないと主張した。
それはおそらく本当なのだろう。だが、俺の心の中のもやもやが晴れることは無かった。
◇◇◇◇◇
「よう、待たせたな」
仕事終わり、大学の頃からの親友、
「先にやってたぞ」
「構わんが、まともに飲み食いできるんだな」
早紀の話が健治の奥さんの千里さんを通じて届いていたのだろう。
健治は盛り合わせの串を一本手に取り
「それなんだが……」
「早紀ちゃんのメシが食えないって? あれだけ惚気てたのに」
「いや、食えてはいる」
「どういうこったよ?――あ、お姉さんとりあえず生中ひとつね――早紀ちゃんが全く食事を受け付けないみたいな話をしてたって聞いたぞ?」
「食えてはいるんだ。ただ時々、気分的に込み上げてくることがあるんだよ」
「ああ……ん? お前、タバコ吸ったっけ? 客先で臭い付けてきたか?」
「よくわかるな」
「禁煙して長いからな」
「ちょっと気分的にな。何と言うか……怖いんだ」
「怖い?」
「最初に吐いてしまったのは聞いたか? それが怖いんだ。早紀を拒絶してしまったようで。早紀の料理を食べても大丈夫だが、気分的に吐いてしまうことがある。それを早紀に見つかると……彼女を責めているようで……」
「それとどういう関係がある?」
「外でも吐いてるなら早紀の料理が原因ってことじゃなくなるだろ?」
「お前、真面目だけどアホだな」
「アホだと!?」
「アホだが悪い奴じゃない」
健治は肝を二皿注文する。
「――お前、昔、先輩にタバコ勧められてゲーゲー吐いてたよな。それでか」
「ああ、今でも吐くからふかすのが限界だ」
「それで? 早紀ちゃんのどこが許せないんだ?」
「許す許さないを俺がどうこういう問題じゃ――」
「いいや違うね。お前が許せてないからこうして拗れてるんだ」
「俺が…………」
健治はおかしなことを言うと最初は思った。ただ、改めて考えてみると早紀への憤りは確かにある。しかしそれは、正しい謂れのない憤りだった。俺と付き合う前の不倫に俺がどうこう言う筋合いはない。
「――いや、二皿とも自分のかよ」
「好きなんだからいいだろ、自分で頼め。ただでさえ不景気で一皿の量も減ってるんだから」
俺は砂肝を一皿注文する。
「――砂肝かよ」
「肝を頼んだら勝手に食うだろ。そういうヤツだよ、お前は」
「とにかく、益川って部長の事はどうだったんだ?」
「どこまで聞いたんだ?」
「そこまでだよ。とにかく、あの益川っての、俺は気に入らなかったね」
「会ったことあったか?」
「スピーチだよ、結婚式の。お前のことを伝説の誰だかの再来とか褒めちぎってたじゃないか」
「ああ…………伝説の
部長はよくその男の事を話していた。余程優秀な男だったのだろう。
「――あの頃は……いや、今でも疑いきれない。親切な部長だと思ってたんだよ。俺の事は特別目をかけてくれていたし、最初の頃の失敗も助けてくれた。あの人が周りを諭してくれたおかげで俺はチームでの立場を得られたし、率いられるくらいには成長できた。そう思ってた」
「お前と早紀ちゃんがいい感じだったからじゃないのか?」
「…………」
健治の言う通りなのかもしれない。確かに最初からでは無かった。部長が最初に助けてくれたのは、早紀と仲良くなってからだったはずだ。
「――裏では笑われていたのかな……」
「そこまではわからん……」
「――だが安心しろ、益川は早紀ちゃんの旨い料理なんか食えなかったはずだ。何てったってお前のために腕を上げ――」
「いや…………」
「いや? いやってなんだよ?」
「いや、部長はうちに何度か来たことがある」
「は!? 寝泊まりしてったのか!?」
「それはない。泊まるように言ったこともあったかもしれないが、確か…………とにかく、それはない。せいぜい酒を呑み交わしたくらいだ」
「お前、それほど酒は強くなかったよな? まさか酔わされてる間にコトに及んでたりは……」
俺は部長がうちに来た時のことを思い出していた。四回、いや五回だったか。結婚して一年半だが、どれも最初の頃の出来事だ。最近の話ではない。確か、早紀の料理が上達したことを褒めていた気がする。つまりあれは、それ以前の下手な料理を食べたことがあるというアピールだったのか?
部長は常に笑顔だが、その裏でそんなことを考えていたと?
早紀はどんな顔をしていたっけ……愛想は言っていたが、表情まで覚えていない。ただ――。
「健治お前、砂肝一本、いつの間に!」
考えている間に品が来て、いつの間にか二本の内の一本食われていた。
「いや、何となく食ってみようかと……」
「嫌いだって言ってたよな!?」
「悪い悪い。興味本位だ。もう一皿注文しよう」
「いや、次は肝を注文する」
肝を一皿注文して、砂肝を齧りつつ再び当時の事を考える。
確かに俺は酒に弱い。正確には、そこそこ飲めるがある程度飲むととたんに眠くなってしまうのだ。しかし、そこでコトに及ばれたかと言うと――。
「――それは無いと思う」
「まあ、そう言う気まぐれもあるさ。水に流せ」
「……串の話じゃなく、酔ってる間にコトに及んだかって話」
「ああ……でもどうしてそう言い切れる?」
記憶にある限りでは眠くなると早紀に起こされて、早々に部長を帰らせていた気もするのだが……もちろん完全に寝入ってなかったかと言われると自信がない。ただ当時は世話になってる部長に対して冷たいと早紀に文句を言った覚えもあるし、そもそも早紀は部長が来るのを嫌がっていた様子も記憶にある。もしかすると部長に過去の関係をバラされるのを避けたかったからかもしれないが……。俺はそのことを健治に説明した。
「まあ、お前がそう感じるならそうなのかもしれん」
「ただ………………すまんっ、ちょっとトイレ」
ただもしかするとあの時、部長は陰で笑っていたのかもしれない。居眠りしている間に二人は、俺には聞かせられない会話のひとつやふたつ話していたかもしれない。触れ合うくらいはしていたのかも――――そう考えると早紀の行動にも自信が無くなってくる……そしてそのモヤモヤは、俺に再び吐き気を
◇◇◇◇◇
「俺はお前の砂肝を救ってやった。トイレに流されるよりはいいだろ?」
「そうだな……」
「とにかく、お前は早紀ちゃんを許せていない。大方の原因は益川にある……が、お前が今更どうこうできるわけじゃないだろ。早紀ちゃんを許せるよう折り合いを付けろ」
その後、健治は俺の分の勘定も持ってくれた。すまん――と謝ると、早く仲のいい二人に戻ってくれと頼まれた。
部長は営業のノウハウや取引先への顔繫ぎなど、仕事のことについては本当に親身になってくれていた。おかげで俺の部内の成績はよく、昇給も早かった。そして今も変わらぬ笑顔で俺に接してくれている。
ただ、健治によって記憶の中から掘り起こされた益川部長の行動や当時の表情は、俺の心の中のモヤモヤの原因をよりハッキリさせてしまい、更なる心労を与えることになったのだ……。
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