第5話
俺はすぐに早紀に電話を掛けた――――が、彼女の携帯には繋がらない。
何度かかけてみるが、携帯の電源を切っているのだろうか……。
実家にかけることも考えたが、まず彼女が頼るであろう脇坂千里に電話を掛ける。
十数コール後に応答があるが、いくらか声を潜めている様子の千里さんが出る。
『もしもし勇一朗くん? 連絡しようと思ったんだけど早紀に止められてて。いま病院で治療中』
「病院って!? 何があった!?」
『あっ、一応だけど、生死にかかわるような状況じゃないからね? ちょっと怪我しただけで――』
「ちょっとでも怪我してるんだろ!? すぐ行くからどこの病院か教えてくれ」
『勇一朗くん、今日仕事じゃないの? 後で連絡するから――』
「千里さんだってそうだろ?」
『今日はちょっと……早紀に付き合ってたのよ』
「どこへ――――いや、そうか。益川の家か」
『あの奥さん、もしかして会社まで行ったの? わかった――』
そう言うと、千里さんは病院を教えてきた。
早紀の携帯が繋がらなかったことについては、俺から連絡を取れないようにするためSIMカードを入れ替えていたからだと聞いた。どうしてそこまでするのかと心配になる。
◇◇◇◇◇
「ユウくん…………どうして…………」
病院で二人に合流すると、早紀は顔の右半分を覆うようにガーゼを当てられていた。
「ごめん、私に掛かってきたから教えちゃっ――」
「早紀! 顔どうした!? 何があった!?」
「えと……奥さんに殴られちゃった。奥さん左利きだったからこっちを二回グーで……ぁイタっ」
「殴られた!? 傷は? 傷は大丈夫なのか、治るのか!?」
「勇一朗くん、ちょっとちょっと落ち着いて。早紀も口のトコ切ってるんだから。車で聞いたこと、代わりに説明するから黙ってて」
千里さんの説明では、早紀は不倫の内容を覚えている限り事細かく手紙に記し、奥さんに土下座して謝りに行ったのだそうだ。俺は土下座と聞いて、今の世にそんな謝り方するものなのかと開いた口が塞がらなかった。
千里さんは家の前で待たされていて、その場に居たわけではなかったのだが、益川の奥さんはかなり苛烈な人で早紀は胸倉を掴まれ殴られたのだという。ただ、その場は傍にいた息子さんの嫁さんが止めてくれたおかげで二発で済んだらしい。
その傷自体は痕が残らず治ると聞いてホッとする。
「そうか。そんなことをするために……」
「それだけじゃなくてね、奥さんに慰謝料を五百万も払えと言われたらしいのよ」
「五百万!? 無茶苦茶だろ!!」
「そしたらこの子、何とかしますって言って退散してきたみたいなの。私もビックリよ。こんな顔して泣きながら、車の中でもずっと――貯金は少ないから夜のお仕事してでも払う――って言って聞かなくて……とにかく、傷が残ると大変だから病院に連れてきたとこだったの」
「早紀…………自分で責任を取ろうとしてくれたのは理解した。だけどこれはあんまりだ。五百万なんて大金、払う必要はない。弁護士に相談してみよう。君も殴られたのだから診断書も取っておこう。それから――」
俺は早紀を包み込むようにそっと抱きしめた。
「――君の融通の利かなさは知っていた。けどこんなこと、自分で決めないで夫の俺にも協力させて欲しかった……」
ぽろぽろと涙をこぼす早紀。
「だってぇ……ユウくん、辛そうだったしぃ、巻き込みたくなかった。私がやったこと、ひどい事だってわかった……。ごめんね、ひどい奥さんだった。ごめんね……」
「いいや、俺の方こそ心が狭かったんだ。何より、早紀は俺に謝る必要なんか無かったんだよ。部長と……益川と話して分かった。あいつは善人の皮を被っているだけの性根の腐った悪人だ。あんな奴に俺たちの関係を壊させてなるものかよ」
早紀は左頬を俺の胸に付けるように寄り添ってくる。
俺たちはしばらくそのままでいた。
「ちょっとほら、お薬貰って来たからそんなトコで抱き合ってないで、続きは家に帰ってからにしなさい」
「でも…………私もうあの家に帰る資格なんて……」
「奥さんが家に帰って何が悪い」
「だって、私たちもう離婚して他人で……」
「安心しろ。離婚届なんて出してないから。不受理届なら出したけどな」
「なんで!? だって二人で書いて出すって言ってたのに!!」
これまで見たこともないくらいに早紀は声を荒げた。
「そうでもしないと早紀は納得しなかっただろ。こんなことで離婚なんてしてたまるか」
「ずるいよ、ユウくん……」
その後、会社へ一報を入れたあと、千里さんの車で家まで送ってもらった。
◇◇◇◇◇
翌日、早紀とのことが解決しスッキリした俺は彼女を連れて出社した。
早紀は不倫の内容を事細かに会社側に伝えた。俺も傍で聞いていたが、部長は妙に手慣れている。早紀も同じように部長の周到さを会社側に伝えていた。
数日後、調査の結果、これまで早期に退職した若い女子社員らからの情報が得られたらしい。退職した女子社員らはいずれも益川から言い寄られ、体の関係にあった者も居たようだ。ただ、その中でただ一人だけ連絡を付けられなかった女性が居た。その彼女こそが
益川自らが伝説と語る部下、海部。彼については亡くなったとしか益川から聞いていなかった。ただ、実際にはその死因は自殺とも取られかねない事故死だったそうだ。前後不覚になるほど酔っぱらって車に跳ねられた。直前まで誰かと呑んでいたそうなのだが、結局、相手まではわからなかった。しかし俺はなんとなく、益川が一緒だったのではないかと感じた。証拠などないが、益川と呑んだ時のあの顔。あれは何となく、そういう性質の人間だと思ったからだ。
結局、益川は辞職に追い込まれた。退職金こそ出なかったものの、懲戒では無いのは
奥さんと言うともうひとつ。早紀が請求された慰謝料は百万でも高いと思っていたが、会社を通じて雇った弁護士は早紀が殴られたこともあって慰謝料を相殺に持ち込んだ。その過程では早紀のお陰でこれまでの不倫が発覚したことも考慮されたし、醜聞を抑えるためか俺が殴られた件への謝罪も含まれていた。苛烈だった奥さんも一旦、頭を冷やせば意外とまともな人物ではあった。
そして俺。俺は部長が突然居なくなったことで抜けた穴を必死にカバーした。部長のお陰であちこちに顔が利き、加えて全体の業務もある程度は把握できていたことから、なんとか半年ほどを頑張ってみたところ、何故か俺は部長の座に就いていた。
いずれにせよ家へ帰れば料理上手な奥さんが待っていてくれ、彼女をパートに出す必要もないくらいに昇給したことで、そろそろいいんじゃないかと子供の事を考えられる余裕なんかも出てきたりしたわけだが、別にこれは益川のお陰なんかじゃないぞ――なんて自分を納得させつつ今日も素敵な奥さんを抱くのであった。
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